インタビュー
キャンプから戻った後のメキシコ文化の影響
面白いのは、キャンプから戻った当初、私たちはメキシコ系アメリカ人から差別を受けたことです。私たちが戻ったとき、誰もが日本人を嫌っていましたし、彼らも私たちを嫌っていました。私たちが戻ったとき、あらゆる人々から多くの敵意が向けられました。私が思うに、人々と心が通じ合うようになったのは、両親が地元の教会、地元のカトリック教会に通い始めたからで、その地域の人々は皆カトリック教徒でした。そして、私の母は、いわば母がそのコミュニティでメキシコ人になったのです。母はメキシコの文化、言語、食べ物、すべてに恋をし、近所の人気者になりました。母はスペイン語が驚くほど流暢で、毎日練習していました。母は映画を見に行くなど、メキシコ系アメリカ人の文化に親しむことを心がけていました。
ある程度は兄のスティーブの影響もあるとずっと思っていました。というのも、オレンジ郡に来た頃、兄たちは学校に通っていたからです。学校に通うようになって、毎日白人の子たちに殴られていました。ある時点で、メキシコ人の子たちが殴られるのを見るのに飽きて、彼らのために飛び入り参加するようになったのです。それが私たちの成長に影響したと思います。私たちの家族はメキシコ系アメリカ人ととても親しかったです。彼らは私たちを待たせてくれたので、他に誰も待たせなかったのです。とにかく、私たちはその後すぐにそこから出て、東ロサンゼルスに行きましたが、文化的な浸透が可能だったのは、あのサポートがあったからだと思います。当時、日系アメリカ人は非常に不人気でした。誰かが私たちのために飛び入り参加してくれると、それは何か意味のあることでした。それが今も同じです。ご存知のとおり、誰かが不人気な少数派や標的の個人を攻撃しようとすると、それが誰であれ、誰もがその人を攻撃したがります。そして、それはサディスティックな性質を持つ人々にとって人気のスポーツになります。ですから、そのような状況で人々を擁護する人は誰でも私の心の中にいます。
日付: 2020年7月14日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: マシュー・サイトウ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association