ディスカバー・ニッケイ

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日系ペルー人であることを誇りに思う

私は、国籍の有無にかかわらず、日系ペルー人であることを常に誇りに思っていました。そして、物語が明らかになった今、私とヒロ・シミズは一緒に育ち、2か月に1回くらいの頻度で集まります。そして、物語を聞いた彼らは、「ああ、忘れてたよ、君はペルー出身なんだね」などと言います。だから、それはそれでいいのですが、印象などに関して言えば、先ほど言ったように、私のラケットボールクラブのグループは、私をフリオと呼んで楽しんでいます。私も、彼らが私を違った目で見ているので、それは楽しいです。彼らは、私が別の国から来たことを知っているのです。そして、ある人は、「あなたはどこの出身ですか? 日本人みたいだね」とか、「アジア人みたいだね」と言います。[笑] でも、それはすべて良い精神に基づくものだと思います。私はそれがとても気に入っています。私の内なる感情に関しては、何も変わっていません。私は、自分が誰であるかを常によく理解しており、それが両親から受け継いだものだと知っています。そして、私の兄姉は私に大きな影響を与えています。私が年をとるまで想像していたよりもずっと大きな影響を与えています。そして、末っ子である私に彼らがしてきたことすべてが影響を与えてきたことに気づいたのです。


アイデンティティ 日系ペルー人

日付: 2019年9月20日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: トム・イケダ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

カズム・フリオ・セサール・ナガヌマ(永沼)は1942年7月28日、ペルーのリマで一世の両親のもとに生まれた。第二次世界大戦前、両親は洗濯業を営んでおり、父はコミュニティの中でもリーダー的存在であった。戦争が始まると、FBIは父親を逮捕し、家族全員がテキサス州クリスタル・シティにある司法省の収容所へ送られた。戦争が終わっても、一家はペルーに戻ることが許されなかったため、一家は収容所へしばらくとどまっていたが、ニュージャージー州のシーブロックバームのスポンサーを受け、収容所を離れ、その後、サンフランシスコの神道教会の教師の援助受け、サンフランシスコに移り住み、一家はそこで仕事と住居を見つけることができた。カズムはデザイン会社を設立し、成功を収めた。(2022年9月)

 

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。