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広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)
(英語)それは月曜の朝のことでした。とても天気の良い、美しい日だったと記憶しています。学校に行く支度が整っていました。当時日本に夏休みはなく、8月も学校がありました。兄のケニーと私が身支度を整えて学校に向かって歩き始めると、大勢の子供たちが私たちの方に向かって学校から戻ってくるところでした。敵機が広島周辺に警報を出していると教えてくれました。その日は閉校となり、私たちは喜んで家へ帰りました。普段着に着替えた頃にはだいたい午前8時か8時を過ぎていて、その後また空襲警報が鳴りました。
警報が聞こえると、ケニーと私は家の屋根に上り、遠くから飛行機雲が近づいてくるのを見ていました。B-29は、いつも綺麗な飛行機雲を残していたのです。とてもよく晴れた、見晴らしの良い日でした。その時、カンカンに怒った祖母が台所から出てきて私たちに屋根から下りるよう言い付け、兄と私は渋々下りました。
そして兄のケニーは、ゲート、つまり門のある正面へ向かい通り抜けていきました。祖母は、私たちが屋根から下りるのを見届けると台所に戻って食器洗いを再開したのだと思います。私は、母屋の台所の隣にある、お風呂場のあった別の建物に1人で入っていきました。原爆が炸裂、または爆発した時、私はその建物の床下に潜り込んでいました。
(爆心地から)離れた郊外の人々は、ピカッと光った数秒後に大きな爆発があり、すさまじい爆風が吹きつけてきたと言っています。私がいた場所は爆心地から750メートルから1キロ、つまり3300フィートしか離れていませんでした*。爆心地から比較的近かったので、閃光と爆発の間隔は1秒もなかったと思います。
*注:ハワードは、実際は爆心地から1.3キロ(およそ4300フィート)の場所にいた。
日付: 2019年9月3日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: 三木 昌子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。
第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。
ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)
「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)
帰米二世、詩人、活動家(1923年生)
日本語を教えるよう圧力を受けた祖父(英語)
日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事
祖父がFBIに連行された後隣人の世話になった母(英語)
マンザナーに向かう途中での喪失
ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)
ペルーから米国へ強制連行(英語)
クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)
フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)
米国在住の日系コロンビア人(1974年生)
フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)
クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)
クリスタルシティでの最初の食事(英語)
妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった
クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)
父親の影響
(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士