ディスカバー・ニッケイ

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大学に通うために収容所を出る(英語)

(英語)私は、収容所から解放された最初の一人だったと思います。希望者はたくさんいましたが、海陸両軍、FBI、身元保証機関とその自治体、受け入れ先学校の6か所から許可を得る必要がありました。最初に許可が下りたのは、学校に行くことが決まっていた人たちでした。

アメリカ・フレンズ奉仕団の委員会が、私たちが学校に行けるよう懸命に支援してくれました。戦時転住局は、全米の主な都市に事務局を配置していました。私がスプリングフィールド大学に行ったのは、YMCAの訓練校だったからです。私は、真珠湾攻撃の少し前からYMCAの活動を初めていました。日系人のYMCAを始めたのは1941年の6月だったので、勉強を続ける良い機会だと思いました。収容所を出られることをうれしく思いました。


再定住 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2005年3月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フレッド・ヤイチオ・ホシヤマさんは6人兄弟の長男として、カリフォルニア州リビングストンのヤマトコロニーへ入植した日系一世の両親の元に生まれました。父親は、ホシヤマさんがまだ8歳の時に亡くなり、一家はその後も苦労しながら農業を続けましたが、結局農地を手放し、1929年にサンフランシスコに移り住みました。ホシヤマさんは、1941年にカリフォルニア大学バークレー校で文学士を取得しましたが、その後サンフランシスコのタンフォラン集合センターに送られ、1942年にはユタ州のトパーズ“戦争移住センター”に数千人の日系人と共に収容されました。ハワイ州真珠湾の米国海軍基地を攻撃した敵国人と同じ人種だというだけで、このような被害を受けました。

ホシヤマさんは、収容所にいながらも自身のライフワークとなるキリスト教青年会(YMCA)の活動を続け、収容所で強く求められていたレクリエーションや教育、親睦のためのプログラムの立ち上げに貢献しました。トパーズからの早期解放が認められ、マサチューセッツ州のスプリングフィールド大学で修士号を取得した後、ホノルルでYMCA若者プログラムのディレクターを務めました。その後、カリフォルニアで都市部の若者のためのプログラムに長年携わりました。また、1976年から83年には全米学生YMCA同盟(National Association of Student YMCAs)の立ち上げを支援しました。引退後は、経理の専門知識を生かし、複数の非営利団体の発展と維持に力を注ぎました。(2016年2月)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

家族のアマチでの強制収容について会話が不十分だった(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

タカヨ・フィッシャー

収容所ではバトントワリングをして時を過ごしていた(英語)

日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士