ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1445/

サンノゼへの帰還(英語)

(英語)戦後、西海岸に最初に戻ったのが僕でした。カリフォルニアのサンノゼに向かいました。サンノゼには戦前よりも多くの日系人が再移住し、歓迎されていました。本当に好意的に受け入れられました。その直後、僕はカリフォルニアの別の町で3、4週間過ごすことになりました。町の名前は思い出せないのですが、そこで発砲事件が起こりました。強制収容された日系人の家が狙撃されたのです。町の名前は思い出せませんが、確かストックトン周辺だったと思います。町の名はやはり思い出せません。問題が起こる瞬間もあるにはありました。


アメリカ サンノゼ カリフォルニア 再定住 戦後 第二次世界大戦

日付: 2009年12月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヒカル・カール・イワサキ氏(1923年生)はカリフォルニア州サンノゼに育ち、高校時代には学校新聞や卒業アルバムの制作に携わり、写真への興味を深めました。1941年12月7日の日本による真珠湾攻撃に続き、2月19日のフランクリン・ルーズベルト大統領による大統領令9066の発令を受け、イワサキ家はサンタ・アニタ集合センターに送られました。その後、一家はワイオミング州のハートマウンテン強制収容所に収容され、そこではカメラの所有は禁止されました。イワサキ氏が収容所内の病院でレントゲン写真の撮影技師の仕事に就くと、彼の能力は収容所新聞のトップの目に止まり、コロラド州デンバーにある戦時転住局(WRA)写真班の現像技師として働くことを勧められました。その後1年もしないうちにイワサキ氏はWRA専属カメラマンとして国内を自由に飛び回るようになり、何百人もの日系アメリカ人を撮影しました。彼が撮影したのは、収容所を出て米国各地に再定住しようとしていた人々でした。戦後、イワサキ氏はカメラマンとしての長いキャリアの一歩を踏み出し、『ライフ』、『タイム』、『スポーツ・イラストレイテッド』、『ピープル』他、国内の多くの雑誌社で働きました。

イワサキ氏は、2016年9月、93歳で亡くなりました。(2016年9月)

ペギー・ニシムラ・ベイン

収容所を出ることへの懸念(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

収容所を出た後、シカゴでアパートを見つけることの難しさ(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

戦後カリフォルニアでの住居不足(英語)

作家(1934年生)

キャサリン・ドイ・トッド

控訴裁判所での仕事(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

スミコ・コザワ

日系アメリカ人の避難 (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

マンザナ収容所での思い出 (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

収容所の病院で働く (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

強風の日々 (英語)

花屋 (1916-2016年)

スミコ・コザワ

祖母がマンザナに (英語)

花屋 (1916-2016年)

フランチェスカ・ユカリ・ビラー

両家族への適応(英語)

ユダヤ系日系アメリカ人ジャーナリスト

A. ウォーレス・タシマ

幼少期のこと (英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

A. ウォーレス・タシマ

政府機関におけるアジア系アメリカ人の増加(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

堀切 エドワード・徹

出生地(英語)

帰米二世(1929年生)

タミオ・ワカヤマ

戦後の国外追放の企て (英語)

日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)

フレッド・Y・ホシヤマ

大学に通うために収容所を出る(英語)

二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)