ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1362/

補償金について(英語)

(英語)2万ドルが収容所で生き残った人々への補償金額でした。ではこの2万ドルをもらい、1万8千ドルでキャデラックの車を買おう、と言いました。残りの2千ドルは車を海から取り出すのに使おう、と。パシフィック通りをずっと走らせ、パロスベルデスで素潜りさせようかと。でもそれをする前にドアの溝にペイントをしようと思いました。これが4年間で得たもの、と。収容所の4年間で支払われたもの、と。私には今日まで批判や重圧の中にいた友人が多くいるので、彼らに電話して「キャデラックを運転して崖から海に落とす。もちろん新車だ。見たい?」と言いました。そうしたらテレビ局なども来たのです。それでやろうとしてそこを立ち去り、妻にこのことを話しました。うちにはお金があまりありませんでしたから、妻は、「そんなことをしないで。お願い。お金は必要よ」と言ったのです。それで結局諦めたのです。

I*:補償金を欲しくはなかったのですか?

ええ、いや、欲しかったです。しかしそれが意味するものが好きじゃなかった。今お金が支払われたとしても、2万ドルは十分ではありません。借金をしている人々にそれで返済をしなければなりませんから。そのお金を見ることすらありません。ある意味見なかったわけです。借金の返済がありますから。だからそのお金はただ、あるポケットから違うポケットに移っただけのことなのです。

*“I”は、インタビュアー(クリス・コマイ)


お金 リドレス運動 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2012年6月29日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジミー・ムラカミ氏は子供のとき、ディズニーのアニメを見たのがきっかけで映画アニメーターになった。それは第二次世界大戦中にトゥーリーレイクの強制収容所に入れられている日系アメリカ人を対象に見せられたものだった。ロサンゼルスのシュイナード芸術学校に在籍した後、UPAのアニメーターとして働いた。のちに1960、70年代に多数の有名なコマーシャルを生み出したムラカミ・ウルフ社を設立し、「風が吹くとき」や「スノーマン」の長編映画ディレクターとなる。近年アイルランドに住居を構えた後、2014年の2月に80歳で亡くなる。(2014年6月)

ポール・テラサキ

年代による収容所に対する印象の違い(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

エリック・ナカムラ

父からではなく歴史の本を通して学んだ収容所(英語)

『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長

エリック・ナカムラ

マンザナー収容所でのスケボー体験(英語)

『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長

マイク・シノダ

日系人収容所に対する家族の見識(英語)

ミュージシャン、プロデューサー、アーティスト(1977年生)

マサオ・コダニ

強制収容所での思い出(英語)

ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

恥ずかしくて話せなかった収容所の体験 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

甥との対話から生まれた小説 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

後に続く世代のために残す家族の記録 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)

作家(1934年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

別々に収容された家族(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

Asian Americans for Actionへ参加してよかったこと(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)