(英語)私はアニメの作り方を学びませんでした。アニメーターの仕事を見ていたのです。そして、アニメの作り方を学びたいと言いました。私はシートのことならなんでも知っていました。それは複雑なものなんです。絵を描いたり、カメラの高さを全て記入したり。でも、「私にもできます」と言ったのです。すると、ディズニーにいたスタッフたちは笑い「少なくともアシスタントを15年はやらないと」と言うのです。それでも「できます」と答えました。ただ血なまぐさいものなどを描いて、ただ動かせば良いだけなんです。でも「いや、君にはできない」と言われました。
そこで私は、ディスクを借りて、紙や他のもの一式家に持って帰りました。それで初めてアニメ映画を作ったのです。私の最初の短編映画です。絵コンテを描き、「バナー・オブ・テルアキ」と題しました。矢と要塞をめぐる侍ストーリーです。ひとりでマジックマーカーで絵を描き、それを積み重ねていき、シートも使って、全部やったわけです。それを箱に入れ、UPAに持っていき、カメラで撮影してくれと頼みました。彼は笑って、「ジミー、何を言ってるんだい?僕にはできないよ。仕事ではないし、たったひとつしかないカメラは24時間、ふたりのカメラマンが交代で使っているんだ。だからできないよ」と言いました。それで私は書いたものを持って帰り、焼きました。何か月もかかりました。
それからすぐ、私がこういった面白い短編映画を作ったという話が広まりました。彼らはそれをコロンビア・ピクチャーズの短編映画、二つの短編映画と呼ばれるものに入れたかったのです。私はUPAのオーナーであったスティーブ・アズスに呼ばれました。彼は、「ジム、僕らは君のストーリーとアニメに500ドル払おう。興味がある」と言うのです。「ええと、できません。もうないのです。全て焼いてしまいましたから」と私が言うと、彼は、「なんだって?ありえない」。「写真を取ってもらえなかったのです」。すると、「僕のところに来ればよかったのに」と言うのです。なので私は、「ボスのところへ行って、撮影してくれなんて言えません」と答えました。
日付: 2012年6月29日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: クリス・コマイ、ジョン・エサキ
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター