https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1163/
在日日系ペルー人
(スペイン語)来日後は東京に住んでいたのですが、ある日夫が「もうペルーには帰らないよ」と言ってきたのですよ。そこで私は、「それじゃ、日本語勉強しなくては」と直感したのです。幼い頃から家では日本語を話しており案外できると思っていたのですが、大人になってからはその会話も非常に限られたものになり、挨拶やただいま、ということぐらいしかになっていたのです。それで、東京のある学校で日本語を勉強することにしたのです。住まいも、東京都でしたので。都内にはいろいろな語学学校がありますので、幸にも二つの日本語学校に行きました。そして、来日してから7年目に横浜に転居したのです。この地域には、多くのラティーノそれも多くのペルー人が住んでいると聞いたのです。 横浜とはいえ、大和に近い地区に住むことになったのです。そして調べましたらその大和市に国際交流協会があることが分かったのです。ある日、協会の事務所を訪れ、あまり日本語ができないけど何かお手伝いしたいと伝えたのです。それでボランティア通訳として登録してくれたのです。その時から、私の大和市国際化協会での活動が始まり、例えば、ラテン系たちのビザに必要な書類の翻訳をしたり、はじめはビザ関連の翻訳が多かったことを記憶しています。そして、通訳の依頼があると通訳としてお手伝いすることにもなりました。次第に、大和市も外国人向けの生活ガイドブックを多言語で出すということになり、そのスペイン語版は私が担当したのです。
日付: 2009年3月24日
場所: 日本、東京都
インタビュアー: アルベルト・松本
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ペルーで出生、1980年頃から約10年電子機器等の組立・修理をするELECTRONICA MORUMBI S.R.L.という会社を経営。1990年9月来日、日本のレベルアップを図るとともに当初はボランティアとして大和市の国際化協会に登録。その後、通訳・相談員として活動、同様にAMDA医療情報センターでも従事する。
2001年から㈶産業雇用安定センター神奈川支部で南米日系就労者の通訳・相談員を勤め、2002年から2005年までは同機関のTOKIO NIKKEIS(上野・新宿職安)で勤務。その他、行政書士事務所「双葉事務所」、コミュニティー内の企業、そして現在は、海外日系人協会の委託事業「日系就労者就労準備研修」の通訳員としても従事。
大和市では、地元のFM YAMATOのパーソナリティーも務め、市主催の「多文化共生会議」及び「地域福祉計画策定委員会」の委員でもある。 (2010年7月)
『Gidra』におけるグラフィックスの始まり (英語)
コミュニティ・アクティビスト
若者と『Gidra』 (英語)
苦闘と運動(英語)
コミュニティ新聞としての「ギドラ」(英語)
共通の目的(英語)
「ギドラ」の貢献(英語)
「ギドラ」の内容(英語)
掲載内容に関する論争(英語)
Cincip(英語)
おてんば娘(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
戦後の学校生活(英語)
収容所からアップランドへの引っ越し(英語)
法律分野における日系の先駆者たち(英語)
日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)
結婚50周年を迎えて(英語)
弁護士を目指す日系アメリカ人へのメッセージ(英語)