https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1157/
パラグアイ駐日大使(1943年生)
パラグアイの移住っていうのは、日本の政府から土地を買って、植民地移住をしました。そういう関係で、雇用移民じゃなくて、もうパトロンとしての移住なんですね。ですから、私ももう50年近くパラグアイで住む中で、現地で使われるんでなくて、現地で現地の人を使いながら農業をやっていった。その中での日本人のいい面と悪い面。また現地のいい面と悪い面。そうした、まぁ間にはさまれる中での社会作りっていうのをやってきまして。
一番やはり思いは、やはり移住者の人たちが、やはり外国人であるっていう意識を持って頂くまでには、やはり移住者の人は、特にパラグアイの移住地っていうのは、固まって集団移民。そういう関係で、日本語で地域を作っていったこと。でも、そのことはやっぱり現地から見れば、やはり妬みだとかいろんな課題があります。それを調和するためには、日本の支援を現地の人とやはり分け合った、やはり、その町作りっていうのができたりするんですね。それはやはり、一世の人たちの移住者のやはり本当のこうパラグアイの国に移住して、その地域に溶け込むっていう、大事なやはりコミュニケーション。ま、それが、今ついたおかげで、パラグアイでは、非常にその日系人を見て、嫌な顔をされたり、嫌われるっていうことはほとんどないのが、現実だと思いますね。
ただ、二世、三世の子どもたちが現地化してきますので、まぁこれも今までは、そう罪人が出ただとか、裁判台に立つような悪い日本人が出たっていうことは例外にもないんですね。でも、これからはやはりどういう社会ができるかっていうのかは分かりませんけど。それに答えてやっぱり日本人の顔をしている以上は、やっぱりしっかりとやはりそういう気持ちを、やはり受け継いでいって頂きたいっていうのが、私たちの一世の残されてる大きな役目だと。
日付: 2009年3月24日
場所: 日本、東京都
インタビュアー: アルベルト・松本
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1943年徳山県三好郡生まれ。14歳のときに、パラグアイのラパス移住地へ入植。農業へ従事する傍ら、ラパス農業協同組合組合長、パラグアイ日系農業協同組合中央会会長、パラグアイ国農業協同組合連盟監事および理事などを歴任。87年にはパラグアイ国家功労賞勲三等を叙勲。1992―96年、2002-03年にかけて、ラパス市の市長を務める。2004年、日本生まれの海外移住者で初めて駐日大使として就任し、2009年10月まで務める。(2009年12月)
10代のサトウキビ畑で働いた経験が、スポーツ選手としてのトレーニングに役立つ
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)
ニックネーム(英語)
カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)
典型的な一世だった父(英語)
作家(1934年生)
日本との戦争に対する何ともいえない感情(英語)
収容所の中で才能を磨く (英語)
太鼓・尺八奏者(1944生)
「じいちゃん」や「ばあちゃん」と仲良しに (英語)
ワイキキで育った経験(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
太鼓演奏の哲学(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)
母と祖母を見て学んだ日本の伝統(英語)
演歌歌手(1981年生)
日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)
(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長
目立ちたくない外国人(英語)
在日三世・剣道家
人類全体への思いやり(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
アイデンティティ・クライシス(スペイン語)
家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)
日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)
日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)