ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1123/

ペルーにおける一世の受け入れられ方

あのね、これはね、非常にね、自分の日本人としての立場っていうのはね、非常に難しいものがあって・・・。ま、いわゆる私は1世なるわけですね。要するにここに住み着いてますからね。ただね、1世っていう立場っていうのは非常にね、あんまりこうはっきりした立場じゃないわけね。日本っていう日の丸の旗でもない、ペルーの旗でもない。

ただ、日系社会っていうのはおもしろい社会でね、やっぱり日本人なんですね、我々は。だから、日系人じゃないっていうのが、ここの日系の人にはあるわけ。

特に、日系社会の中のそういうマスコミでは、やっぱり2世の人とか3世の人が頑張るとね、これはやっぱりもちろん応援の意味もあるから、がんばれとか、よくやったっていうのがあるかもしれないけど。ま、我々はやって当たり前で、それも日本人がやったということで、そんなに評価はされてないかもしれないね。うん。そういった意味で中途半端かもしんないね。


コミュニティ 世代 アイデンティティ 移民 移住 (immigration) 一世 日本 移住 (migration) ペルー

日付: 2007年4月18日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1953年7月11日、宮崎県西都市の老舗和食料理屋の4代目の息子として生まれる。6歳のころからレストランの厨房で遊んでいた小西氏は、11歳の時修業のため他の料理人候補たちと共に厨房の手伝いをするようになる。その後、16歳で上京し、1971年に料理屋「ふみ」のシェフになる。

1974年、アメリカや日本などで和食創作料理で知られている「NOBU」のオーナー松久信幸と共にペルーへ移住。「Matsuei」という和食レストランで10年間シェフを勤めた後、リマ市内のシェラトンホテルで「Wako」と「Toshiro’s」を開店。2002年には、サンイシドロ地区にある「Sushi Bar Toshiro’s」のマネージャーも勤めるようになる。

レストラン経営の傍ら、San Ignacio de Loyola大学でも教鞭を執っったり、世界各国の料理フェスティバルへも参加し、創作料理「ペルービアン・フュージョ ン」(日本とペルーの創作融合料理)を紹介し、数々の表彰を受ける。2008年には、ラテンアメリカに定住している日本人シェフでは始めて、日本政府より農林水産大臣表彰を受賞した。(2009年10月)

Mia Yamamoto
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(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。

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