https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1116/
天野博物館館長 (1929年生)
関東大震災のあと、なんかちょっと仕事して。関東大震災にあった時に、お父さんが、病気なさって。でも頑丈な大きなお父さんだったから、何年か生き延びられたですけども。その後、あの人、天野・・・お饅頭の、何て言うお店だった?何か天野・・・なんかね、横浜でお饅頭屋さんやるんですよ。そう、お饅頭屋やるのもね、すごく徹底して、一番いい粉とか、一番いい小豆だとか、もうそうやって、お饅頭作って、専門家を連れてきて。で、あの人も自分で練ったんですって。
で、いろんなことやって、何かすごく評判な。またその人のお店の運営が、おもしろくてね。何かあの、お店も小奇麗なお店ができて、それで(一回に)あんまりたくさん作らなくて、フレッシュなのを日に3回ぐらい作ったらしいです。そうすると、列ができて、あの、もうすぐっていう時に終わったり。そうすると、また必ずその後の、あの、あれに来るんだそうです。 そうして、あの、何て言いますか、自分の、あのおまんじゅうの長さを、こう線路で計ると、とうとう、東京の、横浜の駅から出発して、東京の何とかって言う駅まで着くってね。着くようになったって。届いたって言うんですよ。だから、横浜の市民の、何て言うんですか、義務は、それをまた横浜へ引き返すためだって言うので。宣伝がおもしろいって言うので、わんわん、みんなわんさこわんさこ押しかけて、買って下さったんですって。全部、大きな。だから、銀行何とか、南米何とかっていう大きな銀行もあったですけども、そこのおやつが全部、天野屋・・何かおまんじゅう屋さんから出たんだそうです。すごくとんちのある人だった。
日付: 2007年4月18日
場所: ペルー、リマ市
インタビュアー: アン・カネコ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
天野美代子(旧姓:渡辺)はリマ市生まれの日系二世。1954年、実業家・アンデス文明研究家の天野芳太郎氏と結婚。1964年5月には、故夫芳太郎氏とともに、リマ市ミラフローレス区レティロ街に天野博物館を竣工し、8月に開館。現在は、故夫の意思を引き継ぎ、芳太郎氏の私蔵をもって設立され、チャンカイ文化の研究で知られる天野博物館の館長を務める。 (2009年10月)
野茂のリスク(英語)
NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー
1995年の野茂旋風
アメリカへの移住して良かったこと
戦争花嫁(1925年生)
ニューヨークで学んだ後、日本に帰国(英語)
一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)
家族経営の種苗会社(英語)
日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)
除隊と種苗業の再開(英語)
大泉とブラジルの日系コミュニティとの違い
(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。
ミズーリ州でのビジネス
溶接業を営む新一世(1936年生)
日本に住むメリット(ポルトガル語)
日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)
大泉町の日系ブラジル人への政府の支援(ポルトガル語)
日本の日系コミュニティの将来(ポルトガル語)
工場労働者から自分のビジネスを持つまでの道のり(ポルトガル語)
いくつかの生い立ちを持ったユニークなアイデンティティ(英語)
フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)
第二次大戦中は父のビジネスパートナーが農業ビジネスを管理した(英語)
三世のビジネスマン(1935年生)
1952年、戦後まもない日本での不自由な生活 (英語)
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)