ディスカバー・ニッケイ

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戦後、アメリカへ帰国

アメリカに帰るということなんですが、もう…長いこと日本の軍隊に入ったということで、私は、もうアメリカには帰れないものと考えておったんです。ところが、先ほどのジョージ・スエマツという人、あの人からの話で、ちょっと調べてあげようといってもらったのは、「お前、兵隊に入ったのは、日本の兵隊に入ったのは、まだマイナーだから。Seventeen years old、17歳の前だったから、アメリカの法律としては、法律を犯してないと。アメリカのほかの国の軍隊に入っても、早い話がマイナーでも、16か17歳で人殺ししても罪にならない法律があるんだ」ってことを言われて。「ああ、そんなのがあるんですか」と、アメリカの領事館へ行って、問い合わせたところが、「そうだ」と。「お前、17歳のときに日本の軍隊に入っていても、それは全然関係ないから。21歳まで二重国籍で、21歳まで、21歳になって、その時に日本の国籍を捨てるか、アメリカの国籍を捨てるかということになる。お前の場合はそういうことはないんだから、そういう手続きができる」と。いうことで、私も日本の生活があるんですけれども、「アメリカへ帰って、また一旗を挙げる」と、そうさせてもらいたいということで、叔父からの呼び寄せのもらいまして、こんなありがたいことはないということで。6月の1952…1951のジューン(6月)にアメリカに帰ってきました。


戦争 戦後 第二次世界大戦

日付: 2008年6月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヘンリー・榮一・須藤氏は、1928年2月5日一世の両親のもと、ノースダコタ州ミノットに生まれました。父親と妹が亡くなった後、母はヘンリーと弟を連れて日本へ帰国しました。当時7歳のヘンリーは、ほとんど日本語がわからなかったため、クラスメイトに溶け込もうと必死に日本語の勉強をしました。17歳の時、教員より日本軍への志願を勧められ、また、経済的理由からも大学進学は難しいという判断から、軍に志願することにしました。基礎的なトレーニングを終えて、須藤氏は、スペシャルユニットとして、34人の学生の1人に選ばれましたが、人間魚雷による自爆攻撃ユニットであることは知らされていませんでした。広島に原爆が投下された時、須藤氏はこのユニットにいたため、原爆投下の36時間後には救護兵として広島に到着していました。彼は、広島へ救護に向かった最初の兵士の1人でした。

戦後、須藤氏は合衆国へ戻りました。母親が亡くなってからは叔父と暮らし、ベルモント高校へ入学しましたが、その3カ月後、朝鮮戦争に招集されました。通訳になるためにパーマー基地で韓国語を学び、朝鮮半島の第一線で尋問員となる予定でしたが、日本を通過した際に、日本で通訳となるよう要請を受けました。

陸軍から退役した須藤氏は、ロサンゼルス・シティ・カレッジで貿易を専攻し、オタギリ社に入社し、1993年の退職まで働きました。

須藤氏は、2008年10月17日、80歳で他界しました。(2009年1月30日)

マルガリーダ・トミ・渡辺

移民収容所へ移送された日本人へ防寒着を寄付

ブラジル日系移民の母 (1900-1996)

ヨンオク・キム

戦争のおぞましい光景(英語)

第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)

ヨンオク・キム

死にそうになった経験(英語)

第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)

ヨンオク・キム

ライダー大将の第100歩兵大隊への信頼(英語)

第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)

ヨンオク・キム

戦闘での居心地の良さ(英語)

第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)

ローズ・オチ

「不正を見逃せない」(英語)

日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)

フランチェスカ・ユカリ・ビラー

第442連隊戦闘団(英語)

ユダヤ系日系アメリカ人ジャーナリスト

ハルノリ・オダ

渡米の決意(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ジョージ・タケイ

ミュージカル 『Allegiance』(英語)

俳優、活動家(1937年生)