Iwao Yamamoto

立命館大学名誉教授。専門は日系アメリカ・カナダ文学。主な業績は共著『ヨーロッパ現代文学を読む』(有斐閣、1985)、共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』全22巻、別冊1(不二出版、1997-1998)、共著『戦後日系カナダ人の社会と文化』(不二出版、2003)、共編著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『ヒサエ・ヤマモト作品集―「十七文字」ほか十八編―』(南雲堂フェニックス、2008)。

(2011年1月 更新)

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その9/9

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4.『NY文藝』の意義

『NY文藝』の意義の一つはこの雑誌が日系日本語文学の歴史において、東海岸で発行された唯一の文芸同人誌であったことである。

アメリカの経済と文化の中心地であるニューヨークの日本人・日系人の歴史は決して新しくはない。しかし彼らは文学活動という点では極めて消極的であった。日系文学の歴史はカリフォルニアを中心とした西海岸の文学活動の歴史であったといってよい。このような文学史的状況の中で、戦後、20年間にわたって発行された『NY文藝』は、その後期では不定期な発行ではあったけれども、東海岸におけるほとんど唯一の文学活動が生んだ大きな成果であり、日系日本語文学へのニューヨークからの大きな貢献であった。

ロサンゼルスで発行された『南加文藝』とともに、『NY文藝』が戦後の日本語文学を支えたことは十分評価されなければならない。

『NY文藝』の同人とこの雑誌の内容の特徴も西海岸の文芸誌に見られないものである。

同人の特徴はその多様性にある。ニューヨークに再定住した帰米二世を主力として、戦前からの居住者、かつての南米移民、留学生、領事、戦後移住者など多彩な人々が同人になっている。したがってこれらの人々が描く世界も多様なものとなる。強制収容所生活や日本文化を生きる一世も描かれるが、戦後のアメリカの多民族社会における人間関係、そこに見られる根深い人種差別などがよく取り上げられる。ニューヨークにおける「日系人のハーレム」を描く貴重な作品もある。戦後の政治情勢の変化を受けて、反戦平和も重要なテーマとなる。

このように『NY文藝』には多民族社会を背景とした、社会意識の強い作品が多い。また物語の世界はアラスカ、南米へと広がっている。『NY文藝』の同人と雑誌内容におけるこのような特徴点は従来の日系日本語文学の世界を大きく変化させ、拡大するものである。

また文学的完成度という観点から同人の作品を見てみると、すでに前章で示したように、そのばらつきはかなり大きいが、あべよしおの多くの作品と秋谷一郎の短編は優れた作品としてこれからも長く読まれるべきものである。西茂樹、花江マリオ、伊藤新子、相馬真知子、桜庭ケイの作品の中にも優れたものがある。これらはすべて日系文学への貴重な貢献である。

『NY文藝』は第11号をもって廃刊となった。その理由は同人の高齢化が進み、ふさわしい後継者が得られなかったこと、世代の違いにより文学観の相違が大きくなって同人組織の維持が難しくなったこと、財政的負担が大きすぎたことなどであった。

これからの日系日本語文学を担うのは戦後の移住者たちである。現在、彼らによってカリフォルニアでは2つの同人文芸誌が発行されている。『平成』(1989-)と『新植林』(1990年創刊の『移植林』を継承)である。

ニューヨークでも文芸誌の創刊が期待されるけれども、文学に理解のあった『ニューヨーク日米新聞』が1993年に廃刊となり、それに代わる文学作品発表の場がない現在、悲観的にならざるをえない。

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

 

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アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その8/9

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(3)評論.随筆

カール・ヨネダが随筆と評論をあわせて9編書いているが、それらの特徴は彼の人生の回顧であり、反戦平和と反人種差別の姿勢であり、家族への愛情である。

彼は「訪日余話」(第7号)と「私の羅府時代」(第10号)においてマルクス主義者で労働運動家であった自己の人生を振り返り、「幸徳秋水の在米時代」(第9号)でサンフランシスコにおける日本人社会主義者グループの活動を記録する(「幸徳秋水の在米時代」は後に『在米日本人労働者の歴史』<1967>に収録)。これらの随筆と評論は彼個人の歴史であるだけでなく、従来の在米日本人・日系人史の中では記述されなかったもう一つの歴史を語っているところに面白さがある。

「『母の日』に感じたことども」(第3号)ではヨネダは母性愛の中に反戦平和の精神を見いだし、「家さがし」(第6号)の中で、住宅探しにおける白人家主の人種差別を指摘する。「息子よ何処へ行く」(第8号)では息子への強い愛情を表現し、「達磨放浪者(ビートネック)を訪ねる」(第5号)ではビートニックについて肯定的な評価をする。

林徹磨は創作の中で人種差別の激しさを明らかにしたが、評論ではシェイクスピアとスタインベック、同人の西野鉄鎚などを論じ、随筆でことばの壁と日本語について書いている。スタインベックを「米国の宮沢賢治であり、加州出身の吉川英治であり、野生的な夏目漱石である」と喩えるが(「知られざるスタインベック」、第10号)、「野生的な夏目漱石」とは一体どのような人だろうか。

桜庭ケイ(1925-1981)は群馬県で生まれ、1947年に渡米。間もなくアメリカ人の夫と離婚し、その後、美術学校で絵を学んで画家となった。あべよしおとの出会いなどについては、すでに記した通りである。

桜庭は随筆を4編、詩を2編書いている。外国で生活する人の心を描く「蛍」(第4号)は読む者の心を打つ随筆である。アメリカの田舎に住む友人を訪ねたとき蛍を見て、京都の嵐山への旅を思い出す。そして「鳴かぬホタル」は「良しにつけ悪しきにつけ遠く離れて日本を想う時、帰れない日本を想う時、日本の国をだきしめて暮す外国に住む日本人」の「心の内にあるのかも知れない」と思う。「十日間の入院」(第5号)は病院で他の民族の人たちと一緒に生活する中で見聞したことを記している。ドライなアメリカ人のウェットな人間関係や、女性にとって大切なのは自分とお金だけという一患者の生き方が面白い。

演劇評論家の大村敦は5編の演劇論を書いているが、すべて短いエッセイである。オフ・ブロードウェイの進出を地方分権の視点から述べた「オフ・ブロードウェイとオン・ブロードウェイ」(第3号)、冷戦の進行が米ソそれぞれの演劇に与えた影響を吟味する「東対西と演劇」(第5号)が心に残る。

『NY文藝』の創刊の土壌を作るのに大きな力を発揮した芳賀武が中国訪問記「新しい中国を訪問して」を寄せているが(第7号)、作品合評会(第8号)でその思想的宣伝性の強さが厳しく批評された。『NY文藝』の在り方に関する同人の姿勢を示すものとして興味深い。田中儀一の随筆「ベーヨンギアング」(第2号)は1920年代のニューヨーク州ベーヨン市で、夏場が日本人とユダヤ人の夏場師によって占領されていたことに触れる貴重な史料である。

(4)その他

『NY文藝』に掲載された詩は少ない。佐藤あき子(秋谷聡子)は親に寄せる子供たちの想い(「子供の会話から」、創刊号)、日本の女性がニューヨークで買い物をするときに見せる思い上がりと厚かましさ(「その女」、創刊号)、ニューヨークの秋の訪れ(「風の讃歌」、第6号)を詠んでいる。相馬真知子の詩は自己の生き方を考えるものが多く(「悪女」「生れなおし」、第8号、「何が欲しいのか」、第10号)、女性の激しい愛の心を表現する作品もある(「くちずけ」「嫉妬」、第6号)。

北見俊郎は郊外の森の中で覚える安らぎ(「森」、第11号)や北欧への旅で味わう孤独と日本への郷愁を詠う(「無題」、第7号、「留学」、第11号)。三田穢士が「我が娘に贈る詩」(創刊号)を書き、娘への愛を語るなかで、人々の間の連帯の重要性と世界平和への願いを述べている。1930年代の三田と変わらない姿勢がここにある。

川柳は川柳万発端吟社を主宰する崎村白津が整理して、毎号掲載している。投稿者はニューヨークだけでなくアメリカ全土にわたっている。題材を日常身辺に求めるものが多く、そこから世代交代が進む日系社会が見えてくる(崎村白津「妻の碑に一句掘込む日本文学」、アーノルドみさ子「泣き笑い共に過ごして早や九年」、共に第7号)。日本への郷愁もよく詠まれ(竹原房枝「帰化しても祖国の佳節忘れかね」、第4号)、社会的関心を示す作品は少ない(市場宇江「バス揺れて人種を越えた膝にふれ」、第8号)。

作品合評会を行ない、それを掲載したことは、日系文学の歴史のなかで他の同人誌には見られない大きな特徴である。これを可能にしたのは、編集責任者であったあべの強い意向とともに、文学的力量を高めるために相互批判を重視するという同人の合意があったこと、また主要な同人たちが比較的近くに住んでいたことなどであった。作品が1編ずつ取り上げられて批評され、しばしば文学の目的や文学の普遍性、作品の題材と技法との関連など、大きなテーマが議論されている。同人の文学観を知るうえで、大変有益である。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その7/9

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花江マリオはニューヨークの領事館に勤め、後にペルーの領事館へ転勤している。彼の創作は7編で、他に戯曲も書いている。作品は太平洋戦争に絡むもの、一世と二世の関係を描くもの、南米の日系社会を扱ったものに分けることができる。

「曲芸師」(第2号)と「呪いの果て」(第5号)は太平洋戦争が外国にいる日本人に与えた致命的な影響を描いている。「父と子」(創刊号)は、しばしば日系日本語文学のテーマとなる「帰米二世と父」の問題をニューヨークの黒人街に住む父と子の生活を通して扱っている。

「リベラルター市盛衰記」(第9号)はゴム採取のため日本人労働者の一行が、ペルーから険しい峠を越えてアマゾン川上流へと移動する物語で、よく計算された構成をもち緊迫感を生み出している。戯曲「さぎ師現る」(第8号)はボリビアの日系社会を舞台にした、砂金と銅鉱脈発見にまつわる詐欺師の話で、ユーモアの効いた作品となっている。

伊藤新子は留学生で、7編の創作を書いた。それらは戦後間もなくアメリカへ渡った日本の学生たちが多民族都市ニューヨークの生活から学んだものを明らかにしている。伊藤の場合、それは恋と友情、黒人差別、高齢者と死の問題などである。

「Bilinguist」(第3号)は白人学生に失恋する日本人女子留学生を描く。「夏から冬へ」(第11号)は若々しい出版社社長に愛を求めた留学生が性的不能を告白されて自責の念に駆られる物語である。「夏の職場」(第10号)の中でも女子留学生がアルバイト先の日系企業の上司に淡い想いを寄せている。しかしこの作品は日系企業における様々な人間関係に焦点を当て、一種の比較文化論になっている。

「若い群像」(第5号)では黒人女性の失踪が、アパート事務員の黒人差別のことばと重なって主人公の留学生に大きな問題を提起し、「エルサの死」(第6号)では強い死への願望を持つ移民の老女の皮肉な死が生と死の意味を改めて考えさせる。「エルサの死」は物語の結末が巧みな、印象深い作品である。伊藤の作品には明るさ、軽快さが漂い、作品世界の奥行きや拡がりは見られないが、未来に向かう若い世代の爽やかさが感じられる。

留学生であり、後に大学で教えていた林徹磨は3編の創作を書いたが、そこでの主要なテーマは人種差別、とりわけ黒人、ユダヤ人、日本人などへの人種差別である。

「新しい発見」(第5号)は会社の中の人種差別をアルバイト職工として働く日本人留学生の体験を通して明らかにする。留学生が最後に達する結論は「我々は不平等に生れ不平等な才能の下に不平等な人生を送る。それにくじけず与えられた才能の限りその可能性を開拓すること。より恵れぬ星の下で生れた人を助けること……これこそ不平等な人生を歩む力強いモットーであろう」ということである。ただ、主人公の結論が「才能と顔と運命」の相違の強調に基づいていること、また差別問題の解決を個人的な努力にのみ求めているなどの点で問題があるといわざるをえない。

「冬来りなば……」(『丘のひと』第1部)(第6号)は南部の大学に就職した日本人教師が体験する、プアホワイトによる激しい人種差別を描いている。

相馬真知子(1931-)は京都府舞鶴で生まれ、20歳の時に水原秋桜子の句誌『星恋』、京都ホトトギス派の『京鹿子』に作品を発表した。後に『文芸首都』『近畿文学』の同人となる。1957年にガーデナーの帰米二世と結婚してカリフォルニアへ行った。渡米後も作品を書き続け、『南加文藝』や日系新聞『羅府新報』『日米時事』などに創作、エッセイ、詩を発表した。『婦人公論』の「ロサンゼルス支部だより」も執筆している。現在、カリフォルニアのパサデナに住む。

3編の創作を載せている山中の関心は親と子、夫婦といった家庭内の人間関係である。他の同人たちが社会意識の強い作品を多く発表していることとは対照的である。「或る父と子」(第7号)ではアメリカにいる父と30年振りに再会した息子の違和感と、妻の優しい配慮による心の安らぎが描かれている。物語は淡々と進むが読む人の心を打つ。「死の周り」(第9号)では死が近い父を日本に見舞う娘が主人公である。父に対する彼女の愛と距離の交錯が印象的である。

以上の同人の作品の他に、夢破れた年配の独身男性の再婚を描く田中儀一「犬の毛」(創刊号)、性に溺れて全ての貯えと命を失う、1930年代の一人の一世の男性を語る河内芳夫「アメ呆け」(第10号)などがある。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その6/9

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(2)創作(その2)

西茂樹(本名は西岡重幸)(1916‐1989)は太平洋戦争中、アメリカ政府によって捕虜交換要員として中南米諸国から合衆国へ強制移住させられた2,262人の日本人の中の1人である。愛媛県で生まれ、義兄を頼ってペルーへ移住し、1944年、突然逮捕されてアメリカのテキサス州にある収容所に抑留された。終戦、アメリカへの「不法入国者」の身分のまま収容所を仮釈放され、ニューヨークで時計店を開いた。日本で『ケネディー収容所』(1983)を出版している。なお中南米諸国から合衆国へ強制移住させられた日系人がアメリカ政府に対して起こした謝罪・補償要求訴訟は、1998年6月にようやく和解が成立している。

西は6編の創作と2編の紀行文を書いている。西が創作の中で描くのは、多民族社会の生活の中で生まれる日本への回帰志向と日本人ペルー移民の悲劇である。

「第二の脱船」(第6号)はアフリカ系の妻を持つ一世を通して典型的な、日本への強い郷愁を描いている。「孤影」(第2号)では主人公がメキシコ系の妻と息子の許を去り、衝動的に日本行きの飛行機に乗る。

「写真」(第4号)は一人の日本人ペルー移民が辿った失意の人生の物語である。ペルー移民としての西の体験が生かされた非常に優れた作品で、合評会でも高く評価された。主人公は生活の苦しさからペルーに渡り順調な商売をしていたが、日米開戦後に逮捕されてアメリカの収容所へ送られ、戦後日本へ帰って再出発を期したものの失意のうちに病死する。このような人生を物語る時間的空間的スケールは大きく、技法的にもそれが成功している。

「インカの廃墟を訪ねて」(第9号)は旅行中の見聞と思索が結びついた、優れた紀行文である。荘厳な大遺跡との感動的な出会いが描写され、インカ帝国興亡の歴史から学ぶ弱肉強食の歴史観・世界観が述べられ、アメリカ政府が引き起こした、戦時中の日本人ペルー移民の不幸な体験が強く暗示される。変わらぬ大自然と興亡を続ける民族そして人間の姿を対比する中に、一種の諦観、無常観が感じられる。

西野鉄鎚(本名は西野喜一)(1889-1963)は滋賀県出身である。1910年、サンフランシスコへ行き美術学校で彫刻を学んだ後、炭鉱や鉄道、アラスカ鮭罐詰会社での労働、家事労働など様々な仕事を経験して1920年頃、ニューヨークへやってきた。そこで家具制作に従事し、その技術を高く評価された。 

西野は8編の創作と1編の狂言を発表している。彼はマルキストとしての立場を明確にして労働者の生活を、また反戦平和、反軍国主義、反人種差別を実践する人々を描く。「マシコの罐詰会社」(第7号)は戦前、日本人青年が中国人やポルトガル人とともに季節労働者としてアラスカの罐詰会社で働いていたときの厳しい生活を明らかにする。この「マシコの罐詰会社」には被差別部落に対する人権上不適切な表現があるので、注意を喚起しておきたい。「凧に尻尾があった話」(第2号)は日本の軍国主義、中国への侵略に反対するニューヨークの「下町のアカ」たちの話である。狂言「鵺者」(英語の原文を秋谷一郎が翻訳)(第9号)は日本の演劇様式を用いて黒人差別の撤廃を迫っている。西野の作品は主張点が明確であるが作品としての構成上のまとまりを欠き、表現が素朴で政治的イデオロギーが生のままで展開されるなど、問題点も多い。

橋本京詩(本名は橋本清)はロサンゼルス生まれの帰米二世である(篠田左多江「『怒濤』解説」『日系アメリカ文学雑誌集成3』)。福井県で育てられ、立教大学で学び、太平洋戦争開始直前にアメリカへ帰った。戦時中、トゥーリレイク収容所で青年団の機関誌『怒濤』の編集に携わっている。戦後はニューヨークに住み、クリーニング業を営んだ。現在もニューヨークで健在である。

橋本は5編の創作を発表している。いずれも性に焦点を当てて男女の愛を描いている点が特徴である。例えば「雪子」(第7号)は19歳のとき日本で出会ったアメリカ兵とニューヨークで再会する物語である。この中で、かつての二人の熱烈なデートや兵士たちと旅館従業員たちとの性を目的とする集団パーティーの様子が煽情的に描写される。「国境の南」(第6号)では収容所における著名な歌手との恋、そして彼女の死後はその娘との恋を描いており、ここでも長い官能的描写が見られる。さらに「碧眼夜叉」(第4号)では猟奇的要素が加わる。妻の浮気を想像して嫉妬する男の眼は手術によって碧眼となり、顔半分は黄疸色である。

男女の愛が文学の最も重要なテーマの一つであることは誰も否定できない。しかし橋本の作品を読むとき、安易な性描写が多くあるために、彼が男女の愛を通して何を訴えたいのか良く分からない。生きることの意味を問う姿勢が、人間を社会的存在として捉える意識が、人間の尊厳に対する認識が、弱いといえる。このような弱さを露呈したのが「男性遍歴」(第5号)である。この作品は被差別部落への偏見と差別を助長する作品となっている。

「男性遍歴」はニューヨークを流れる河で女性の死体が発見されるという場面から始まる。そして彼女が自殺するまでの経過として自由奔放な男性遍歴が明らかにされ、彼女が被差別部落出身であると述べられる。しかし主人公が被差別部落出身でなければならない必然的な理由は何も示されない。読む者にとって唐突な感じを与える安易な結びつけである。そもそも主人公がなぜニューヨークへやってきて、下町で働くようになったのかの説明がないのは、物語の展開の上、不自然といえよう。また主人公の郷里における被差別部落の人々の集会の描写も否定的な描写であり、偏見を助長するものである。最後の主人公の自殺も唐突である。つまり、この作品は生きることの意味を性の世界の中にのみ求めて人生を終えた女性を主人公とし、そのような主人公を安易に被差別部落と結びつけているのである。渡辺巳三郎によれば「大衆通俗文学の作家は、何故比較的多くの部落問題文芸作品を書いたのか。ひとつには思いも掛けぬ突飛な局面を切り開く道具として使われたり、猟奇的興味から取り扱ったのだろう」(『近代文学と被差別部落』、1993)という。この見解は「男性遍歴」においても説得的である。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その5/9

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秋谷一郎(1909-)はクリスチャンの帰米二世である。サンフランシスコで生まれ、6歳のとき日本へ送られた。関西学院在学中、内村順也(内村鑑三の弟)、河上丈太郎(後に日本社会党委員長)、賀川豊彦から思想的影響を強くうけた。1931年、徴兵の恐れからアメリカへ帰り、戦時中は陸軍日本語学校で教え、OSS(戦略事務局)に勤務した。戦後、ニューヨークに移住し、家具製作工、『北米新報』植字工を経て、東京銀行ニューヨーク支店に就職した。

この間、日本救援活動、労働運動、反核運動、公民権運動などに積極的に参加し、1987年、ニューヨーク州政府から、「マーチン・ルーサー・キング・ジュニア記念生涯の業績賞」が与えられた。短編「猫の孕む頃」(『北米新報』1950年4月13日号)は『新日本文学』(1950年9月号)に転載されている。1996年、自伝『自由への道、太平洋を越えて』を京都で出版し、現在もニューヨークに住んでいる。

秋谷は長編を1編(前編で打ち切りとなる)、中編を1編、短編を3編書いている。秋谷の作品のテーマは明確である。すなわち、差別批判、他民族との共生と連帯、反戦平和主義、強制収容所での忠誠組の活動である。

「サム、ちようという男」(創刊号)は部落差別と朝鮮民族差別を日本と日系アメリカ人社会を舞台とし、1人の帰米二世が回想するいくつかの体験を通して描く。彼に過去を思い起こさせたのは、「サム、ちよう」という男性(日本人と朝鮮人との間の子供である、あるいは被差別部落の子供であるといわれていた)との戦後の偶然の再会である。主人公が回想する最初の体験は主人公の少年が被差別部落の少年と結ぶ友情であり、警官と兵士によって連行される被差別部落の人々の血だらけの姿を見たときの主人公の恐怖と義憤である。読む人の心を圧倒するこの体験は主人公の差別問題を考える原点となる。関東大震災直後に朝鮮人殺害が始まったとき、追い詰められた少年を守る母のことばに自省したこと。強制収容所の中の教室で、日本における朝鮮人迫害を非難したために窮地に陥った主人公を弁護してくれた、「サム、ちよう」らしい男性への感謝と共感。これらもまた回想として語られる。

ただ、カリフォルニアでの結婚にからむ部落差別の場面や、ニューヨークのレストランでサムと呼ばれる男性が揶揄される場面で、主人公が積極的な態度や発言を示さないことは、それまでの彼の体験からすると説得力に欠けるといわざるをえない。また、この作品の冒頭で、部落差別は人種差別であるという誤った認識を与えかねない表現があるので、読む際には十分注意しなければならない。作品に込めた作者の意図とは別に、人権上不適切な表現が多々使用されているが、これは作者が日本を去ってから長い年月が経っているということから生まれる制約の結果と考えられる。

「異言の民」(第2-4号、6号)は多民族社会の中で、他の民族の人々との交流と共感の中で生きていく日系人を描く。これは他の同人にはあまり見られない、秋谷に特徴的な世界である。ユダヤ系、イタリア系、亡命ロシア人などがこの作品に登場する。主人公の友人の告白が新たな物語の展開を予想させるところでこの作品が中断し、その後、後編が書かれなかったのは惜しまれる。

「画の消えた一週間」(第5、6号)も多民族社会の中で生きる日系人を描くが、その焦点は人種差別である。主人公は、プエルトリコ人移民への自己の偏見を反省するとともに、このような人種差別を利用して私腹を肥やす弁護士に大きな怒りを覚える。プロットのよく工夫された、感銘の深い作品となっている。

「黒い雨」(第7号)は原水爆の悲劇からの解放を表現する版画の制作に打ち込む画家を通して、反戦の願いを強く訴える。物語の締めくくり方が心を打つ。中編「砂熱」(第9-11号)は忠誠組と不忠誠組の激しい対立が続く収容所の中で、民主主義を確立するために苦心する二世を描いている。

秋谷の作品は文章がしばしば説明的で長くなるが、政治的主張が生のままで顔を出すことはほとんどない。建設的な若いエネルギーに満ちた世界が展開されている。なお、『自由への道、太平洋を越えて』は自由主義者である帰米二世の波乱に富んだ人生を描く、心打つ自伝である。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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