屋良家は1970年ごろに出聖して縫製業を始めた。家族総出で朝7時から夜12時まで働いた。屋良さんは「うちは姉妹が多くて縫物なら女、子供でもできた。寝る間も惜しんで働きました」と言う。
今は一人暮らし。週に一度、近郊のグアルーリョス市から息子が訪れる。屋良さんは「ブラジルに来たばかりのときは日本に戻りたいと思っていました。でも『住めば都』という言葉の通り、今はここが私の場所のように感じます」と話す。
「米軍に土地を奪われてブラジルに来たことをどう思いますか」と尋ねた。
数秒の沈黙の後、屋良さんは「昔のことは昔のこととして割り切らなくては」と静かに答えた。一方で「私たちが土地を取られたことを沖縄の人たちには忘れて欲しくない。それだけ苦労しましたから」と話した。
田里雪子さんは「語り継ぐ必要はないわ。もう昔のことは忘れて前を向いていきましょう」と笑って話す。
それに対して記者が「再び戦争を起こさないためにも、みなさんの辛かった経験は教訓になると思います。そのうえで将来、伊佐浜のことが語り継がれなくなるのは残念だと思いませんか」とたたみかけると、「それでも前を向かなきゃね」と小さな声で言った。
雪子さんの家はコザ市(現沖縄市)にあった。終戦後、米軍が道路作るという理由で強制的に家を取り壊した。父親が長年ハワイに出稼ぎにいった蓄えで建てた家だった。「父は壊されたことについて何も…