時代は1868年。鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰(ぼしん)戦争は8月には薩長軍が会津に攻め入り、会津戦争となった。白虎隊は飯盛山で自刃、鶴ケ城は落城した。会津最大の悲劇であるこの戦争での敗戦は、会津の社会や文化、歴史に深い傷後を残した。
この時、敗戦後の新天地を海外に求めた人々がいた。会津藩と貿易をしていた武器証人のプロシア人、ヘンリー・シュネルに卒いられた会津の人々だ。一行は1869(明治2)年春、蒸気船で横浜港から米国に向かった。これが日本人初の北米農業移民団「若松コロニー」。この中にシュネルの日本人の妻おようと娘、17歳の子守おけいの姿があった。
そのうちにシュネル家は謎の失踪、ビアカンプ家の子守となったが、19歳でその地で死んだ。その時墓石が日本を向いて建てられた。15年前、当時の福島県人会長小山信吉さんの計らいで彼女の墓を訪れた。墓石のあたりはゴールド・ヒルと呼ばれ、金が取れた。当時、カリフォルニア州のあちこちで金が採掘された。現在でもカリフォルニア州がゴールデン・ステートと呼ばれるのはそのためである。
福島民友新聞社報道部の藍原寛子さんは、南加福島県人会100周年を記念して、「波濤の向こうに-カリフォルニア移民の軌跡-」と題した特集のなかで「おけい」について新聞に連載した。日本人のアメリカ移民哀話の一つなのであろう、おけいブームが何回も訪れた。
2009年に川中美幸…