Takamichi "Taka" Go

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  

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「JRパス騒動」に対する、ブラジル日系人社会の反応

海外に移住した日本人、つまり、一世の人々にとって、移住後の日本訪問には、特別な意味があります。日本に住む親族や友人に近況を報告したり、旧交を温めるだけでなく、みずからの人生における日本との「つながり」を再確認するための一種の「儀式」でもあります。それは、日本の親類や友人にとっても、海を越えた人間関係を振り返るための、非常に良い機会です。


ニッポンは遠きになりにけり?

JRパスとは、1987年のJRグループ発足後に販売が始まった、日本を訪問する外国籍の人を対象とした、短期間有効の周遊乗車券、ジャパン・レール・パス(Japan Rail Pass)のことです。いくつかの種類がありますが、最も安価なものは、普通車使用で、7日間有効のものが、29,110円となっています。有効期間内であれば、JR各社の鉄道路線のほか、一部のJRバス路線、さらには宮島航路などが乗り放題となります。(参考までに、現在の、東京~新大阪間の東海道新幹線の普通車指定席の正規料金は、片道で14,450円です。) JRパスは日本人であっても、移住した国の永住権の取得、あるいは移住した国の出身者との国際結婚など、一定の条件を満たせば、「特例」として購入が認められています。この「特例」をめぐって、2016年の年末から17年の春にかけて、ひとつの騒動がありました。

2016年の11月、JR各社は2017年3月31日をもって、日本人へのJRパス購入を認めない方針を明らかにしました。その主な理由として、窓口業務と改札業務が、煩雑化していることを挙げました。事実、JRパスでは自動改札機が使用できないため、駅係員の改札を受ける必要があります。さらには、指定席券の購入の際には、自動券売機が使用できず、係員のいる窓口において発券する必要があります。人件費の削減が常に求められている日本の鉄道業界においては、このような乗車券の販売を廃止したいのが「本音」なのです。1

JRの「決定」にいち早く反応したのが、戦後移民が多く、現在もたくさんの一世が活躍しているブラジルの日系人社会でした。サンパウロ新聞やニッケイ新聞などの日系各紙が記事として大きく取り上げると、多くの一世からさまざまな意見が出ました。

ある一世は、JRパスが購入できないと出費がかさむので、「祖国が遠くなった」と、悲しみをあらわにしました。別の一世は、日本政府は観光立国を目指すためにさまざまな政策を行っているにもかかわらず、JR各社が移住者の存在を切り捨てようとしていることは許しがたく、それは「おもてなし」の精神に反するとして、怒りをあらわにしました。ある県人会の会長は、JR各社に翻意を促すべく、JR東日本(東日本旅客鉄道株式会社)に嘆願書を送ったところ、「JRパスは外国出身者を対象としたものであって、日本人の存在を想定したものではない」という回答が送られ、とても失望したと語りました。さらには、日本人のブラジル移住は、国策によるところが大きく、移住者は「民間大使」でもあるとして、JR各社はこれらを十分に考慮したうえで、JRパスの日本人への販売を継続すべきだという声も挙がりました。

これらは単なる声にとどまらず、社会運動へと発展しました。ブラジルの一世の人々が中心となって、日本政府やJR各社への陳情を積極的に行いました。また、インターネットを活用した呼びかけでは、ブラジル国内のみならず、世界の各地に移住した日本人の支持を得ることもできました。さらには、ブラジルに駐在する日本大使の佐藤悟氏は、日本の国土交通省を訪問した際に、国土交通大臣に直接、この決定の見直しを要求しました。

その一方で、日本国内では、日系人社会とは異なった「反応」がみられました。JR各社を利用する人々の大半は、日本に居住する日本人であり、肝心の「お得意様」の存在を無視するのは言語道断であるとし、日本に居住する日本人をもっと優遇すべき、という声が多くあがりました。JR各社はかつて、割引率が高めの周遊乗車券を数多く販売していましたが、長期休暇期間のみの販売となっている「青春18きっぷ」を除いて、今ではほとんどが廃止されています。人口減と、それにともなう鉄道事業の収益減少を理由に、JR各社は、割引乗車券や周遊乗車券の販売には非常に消極的です。2

一部の日本人からは、外国に居住している日本人には「既得権益」があるとして、強い非難の声があがりました。割安なJRパスを外国人にのみ販売するのは、「逆差別」であるという声もあがりました。しかし、このような意見は、利用者の実情や歴史的経緯への認識不足からくるものであると、わたしは考えると同時に、強く反論します。実際に、JRパスを利用する日本人のなかには、「案内役」として、外国出身者の日本旅行をサポートする重要な役目をになう人々が少なくないことを、多くの日本人は知りません。海外在住の日本人がJRパスを購入できなくなると、観光立国を目指す日本政府や、海外からの観光客による収入を期待している、地方の経済界にとっては痛手になるとわたしは考えます。3

JRパスをめぐる騒動に、新たな展開がみられたのは、2017年3月31日のことでした。各方面からの数多くの陳情や嘆願書、さらには、観光立国を国是とする政府からの要請を受け、JR各社は当初の決定を撤回し、これまで同様、日本人のJRパス購入を東京オリンピックが開催される2020年末まで認めると発表しました。さらには、政府は2017年の9月、JRパスの高速道路版にあたる、“Japan Expressway Pass”の販売を検討していることを明らかにした。外国出身者、さらには在外邦人が、日本を訪れやすくするための「準備」が、着々と整えられているようです。4 

JRパスについては、オリンピックの年までという、極めて限定的なものではありますが、ブラジルの日系人社会をはじめ、関係者の多くは、この決定に一定の理解を示し、安堵しました。ある一世は、今後もJRパスを購入することが出来るので、死ぬ前に再び日本を訪問して、オリンピックを観戦したいと語りました。また、海外に移住したある日本人は、まだ日本を訪れたことのないわが子のために、JRパスを使用して、日本のさまざまなところに連れて行きたいと、心をはずませました。

海外に移住した日本人の日本訪問は、単なる里帰りではなく、日本の文化を次の世代へと継承するための、大切な機会でもあります。JRパスは、そのための重要な役割を果たしていることは、誰もが否定できないことです。しかしながら、そのJRパスの存在をめぐって、一部の国民から「非難」の声が挙がったことは、無視できない事態であると、わたしは考えます。

また、JRパスをめぐる「騒動」の根底には、業務のさらなる効率化と、収益増を目指す、JR各社の厳しい経営事情があると、わたしは考えます。単に、JRパスの販売を一部の人々に認めないという選択肢ではなく、利用客の理解を得たうえで、利用条件や料金を変更することもできたはずです。海外で暮らす一世の人々が引き続き簡単に日本を訪問できるよう、JR各社は来日観光客や移住者の実情把握し、オリンピック後のJRパス販売継続について、再度検討していただきたいと思います。

注釈

1. 『JRパス「在外日本人は使用不可」撤回の舞台裏』 東洋経済 (2017年05月27日)

2. 現在の日本の鉄道業界は、不動産業や小売業といった副業を強化することで、公共交通としての社会的義務を果たすと同時に、生き残りをかけています。都市部においては、通勤時間帯における、いわゆる着席保証列車(有料制の通勤ライナー)の運行によって、収益の改善を図る鉄道会社もあります。

3. 観光客向けの割引乗車券は、韓国のほか、ヨーロッパ各国でも販売されています。

4. 国交省の報道発表による。

 

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柔道見学団―日系アメリカ人と日本人の「つながり」を振り返る

アメリカの日系人社会ではその黎明期より、柔道は重要な文化的活動のひとつでした。1930年代、世界恐慌下であるにもかかわらず、各地で柔道を通した国際親善に取り組む日系人団体がありました。南加(南カリフォルニア)においては、南加講道館柔道有段者会が中心となって、優秀な成績を収めた二世の若者たちを、柔道見学団として日本に派遣することになりました。このとき、代表に選ばれた二世のなかに、オレンジ郡で不動産業を営み、当地の日系人社会の歴史を調査したことで知られる、西津クラーレンス巌(Clarence Iwao Nishizu)さんがいました。

西津さんによると、柔道見学団の一人あたりの旅費の総額は275ドルで、現在の価値に換算するとおよそ40万円でした。これは、当時の一般家庭では大きな負担でした。西津家でもこれほどの大金を準備することは難しく、西津さんは一世の知人、村田氏に農作物の収穫の仕事を紹介してもらい、みずから旅費を工面しました。1

1931年の9月中旬、柔道見学団として選抜された二世の若者たちは、サンぺドロ港で日本郵船の大洋丸に乗り込み、横浜港を目指しました。彼らは途中、ホノルルに立ち寄り、現地で開催された柔道大会に参加しました。それからおよそ1週間後、横浜港に到着した彼らは、桜木町の駅から列車に乗り、神田のYMCAホテルに向かいました。ここが、東京での宿泊地となりました。

彼らは1週間ほど東京に滞在し、講道館での稽古に励むかたわら、日光と泉岳寺を訪問したほか、当時の日本社会における各界の著名人と面会する機会を得ました。その中には、「柔道の神様」として知られている、柔道家の三船久蔵、鳩山一郎(元総理、自由民主党の初代総裁)、野間清治(講談社の創業者)、荒木貞夫(陸軍大将、A級戦犯)、床次(とこなみ)竹二郎(元内務大臣)、山本達雄(元日本銀行総裁)、竹下勇(海軍大将)、藤沼庄平(元警視総監)らがいました。西津さんによると、柔道見学団の旅程を調整した人物のなかに、当時の日本社会における各界の著名人と親しい間柄にあった人物がいたことから、各界の著名人との面会が実現したとのことです。

彼らにとって極めて貴重な体験となったのは、東郷平八郎(海軍大将)との面会でした。彼らは、日露戦争を日本優勢に導き、日本近代史に名を残す名指揮官であった東郷の腰の低さに驚きました。

西津さんによると、東郷の言葉は思慮深く、重みがあり、このようなことを二世の若者たちへ話してくれたそうです。

君らはアメリカで生まれ育った。
君らはアメリカ人である。

アメリカがどこかの国と戦争をすることになったときは、
君らはアメリカ人として戦わねばならない。

また、君らはアメリカ人ではあるが、
日本のご先祖様の存在を忘れることのないように。

(アンダーラインによる強調は著者による)

東京での日程を終えた彼らは、翌朝、東京駅から列車に乗り込み、名古屋、京都、奈良、広島、熊本、鹿児島など、日本の各地を訪れました。そして現地の道場や学校、警察署において、合同稽古と交流試合に臨みました。

この間、西津さんは父親の出身地であった福岡を訪れ、父親の兄弟姉妹や親類を訪問することができました。彼にとっては、これが初めての親類訪問で、とても感慨深い思い出となりました。福岡の西津家も、加州からの訪問者である西津さんを温かく迎えてくれました。

日本各地での稽古を終えた二世らは、鹿児島から船で一路、外地2を目指しました。はじめに、釜山と京城(ソウル)を訪れ、現地の警察署において、日本人と朝鮮半島の人々との合同稽古と交流試合に臨みました。その後、彼らは列車で中国大陸へ移動し、ムクデン(奉天)、ハルピン(哈爾浜)、さらには大連を訪問しました。そこでも現地に住む日本人との合同稽古と交流試合に臨みました。

中国大陸訪問を終えた彼らは、船で内地に戻り、数日後には横浜の港を離れ、南加に戻りました。彼らが柔道見学団として来日した期間はおよそ2ヶ月でした。日本列島のみならず、外地を訪問したことは、柔道の研鑽のみならず、当時の日本事情を理解するための、非常に貴重な経験となりました。

二世の異文化体験

日本を訪問した二世の若者たちにとって、日本社会は異文化の空間でありながらも、独特の居心地の良さを感じさせる「空間」でもありました。地元の日本語学校に通っていた人も多く、日本の文化や習慣に関する知識をある程度もっていたものの、初めて日本を訪れた人がほとんどでした。西津さんはのちに、長女のジェーンさんに当時の経験を、「まるでマジョリティのようであった」と語りました。

彼らが日本でまず最初に驚いたのは、ホスピタリティーのレベルの高さでした。特に、訪問先で著名な旅館に泊まることのできた彼らは、そのサービスの良さに感心しました。食事の時間になると、女将さんと女中さんが、何段にも重ねたお膳を丁寧に部屋に運んでくれました。そして、夕方近くになると、再び女将さんや女中さんが部屋にやってきて、蒲団を綺麗に敷いてくれました。彼らにとって、このような待遇は、生まれて初めてのことでした。

一方、アメリカ生まれでアメリカ育ちの二世の若者たちにとって、生活様式のギャップは、驚きの対象でもありました。椅子のない生活を体験した彼らは、美味しい料理に舌鼓を打った一方、食事中、座布団の上にずっと座っていたため、食事が終わった頃には足がしびれてしまい思うように歩けなくなりました。

一番のカルチャーショックは、和式のトイレでした。アメリカでは、トイレでしゃがむという経験など一度たりともなかったので、和式のトイレを使うことは彼らにとっては「苦痛」でした。西津さんによると、旅館のトイレが男女兼用であったこともまた、さらなるカルチャー・ショックだったそうです。アメリカの宿泊施設や公共の施設のトイレは、男女別であることが当然だったからです。

1931年の秋から冬にかけて日本に派遣された二世の若者たちの柔道見学団。それは、先の戦争が始まる前の日系人社会における、日系人と日本人の関係の歴史における重要な1ページでした。この頃はまだ、日系社会と日本社会との間に「絆」とよべる関係があったとわたしは思います。しかしながら、日米戦争が勃発したため、残念ながら日系人との関係は事実上の「断絶」となりました。日本敗戦後は、日本や日本文化と距離をおいた日系人も少なくなかったのですが、ララ物資、農業労務者派米事業(短農)、1964年の夏期五輪招致運動といった一時的な「関係」が再構築されました。しかしながら、どれも長期的なものには至らなかったほか、日系人社会では、日本人と日系人はそれぞれの道を歩むことが望ましいという声も聞かれました。

21世紀をむかえた現代、日系人と日本人との間に新たな試みが行われています。小規模なものではありますが、東日本大震災後、JACL(日系市民協会)の日本支部が中心となって、明治学院大学に通う、被災地出身の学生を対象にした、奨学金制度(返済義務なし)を始めました。このような動きは、柔道見学団が日本へ派遣された戦前の頃ように一時的なものになるかもしれませんが、今後も関心をもって注目していきたいと思います。

注釈

1. 西津家は当初、羅府(ロサンゼルス)で酒屋を営んでいましたが、禁酒法の施行後、一家は羅府からオレンジ郡に移り住み、農業で生計を立てるようになりました。1930年代初頭、世界恐慌の影響を受け経営が困難になりましたが、30年代の後半には当時の最新鋭の農業機器類などを購入できるまで経営状況は改善しました。しかし先の戦争が勃発し、農業経営は破綻寸前に追いやられ、一家はハートマウンテン収容所に送られました。戦後は、数年間の紆余曲折を経て、1950年代に再びオレンジ郡に戻り、農業を営んだのち不動産業に進出しました。

2. 当時、沖縄や朝鮮半島、さらには台湾など、明治維新以降に日本が支配するようになった地域は、外地(がいち)と呼ばれていた。

参考文献:

Nishizu, Clarence Iwao. Interviewed with Arthur A. Hansen. Honorable Stephen K. Tamura Oral History Project. California State University, Fullerton. Interviewed on June 14, 1982. Published in 1991.

 

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日本を去った若者たち―21世紀における日本人の海外移住事情

日本政府主導による日本人の海外移住は1973年の春、最後の移民船、ブラジルを目指したにっぽん丸が横浜を出港して以来、その波が途絶えたとされますが、その後も、留学や国際結婚、就業などを理由に、海外に移住する人々が続いています。その数は、1年あたり十数万人とされます。

21世紀をむかえた日本社会における日本人の海外移住事情とは、どのようなものなのでしょうか。わたしのように留学(わたしは2002年にアメリカのコミュニティ・カレッジに入学しました)を理由に海外に移住した人々がいた一方、まったく異なる理由で海外に移住した日本人の若者たちがいました。彼らが海外に移住した背景には、さまざまな問題をかかえた日本の社会事情がありました。彼らは、どのような理由があって日本という国を去り、海外のどこに移住し、どのような生活を送っているのでしょうか。

2012年の8月、フジテレビが大変興味深いドキュメンタリー番組を放送しました。『サヨナラニッポン~若者たちが消えてゆく国~』と題された番組は、放送時間が深夜帯であったにもかかわらず、大きな反響をよびました。

この番組の主役は、20代から30代にかけての若者たちです。彼らが目指したのは、中国大陸(中華人民共和国)でした。彼らはこの地で、主に日本企業を対象とした、コールセンター、経理、ホームページのデザインと製作、さらには、プログラミングの業務などを、現地の中国人と一緒に行っていました。日本社会と比較して、賃金が割安な中国大陸という地域の事情と、日中間の経済的な格差を利用した「商売」を、彼らは活きる糧にしていました。

番組で最も焦点があてられたのは、30代の男性でした。彼はいわゆる好学の士で、日本では教育歴に恵まれ、著名な大学の大学院で研究活動に励んでいました。しかし、博士号を取得し、就職活動を行ったものの、20代の新卒生ばかりが「崇拝」される日本社会で、彼の能力が認められ、それを十分に活かすことのできる就職先は、ひとつもありませんでした。

日本社会では、単純労働者の活用を長所とした一方、長年にわたり、高度人材の活用を不得手としています。数多くの日本企業が、彼のような高度人材を正当に評価しなかったことは、深刻な社会的損失につながりました。現在、日本社会の一部においては、高度人材の活用のあり方を改めようとしているものの、その行く末に未知数の部分が多いのが実情です。

国内の就職活動で大きな挫折を味わった彼は、大学院修了後、就職活動を積極的に行うことはなく、短期間のアルバイトを繰り返して、毎日の食事にありついていました。しかしながら、数年が経ったとき、このような生活が続くわけにはいかないと悟り、海外の求人情報を探した結果、中国大陸は大連での就職を決意しました。日本を去ることで新たな将来がもたらされると、彼は考えたのです。

日本と比較すると、中国大陸における賃金は割安の傾向にあります。しかしながら、大連は経済成長の目覚しい、中国大陸を代表する都市のひとつです。経済的に凋落している日本社会とは事情が異なります。この、新たな経済成長の「恩恵」を受けるべく、彼は大連で人生の再起をかけました。

大連で、彼は日本企業を対象としたコールセンター委託業務の責任者となりました。そして、彼には数十人の、中国人の部下がいました。彼の部下には、大学で日本語を学んだ経験のある人々がいるほか、日本への留学経験をもつ人々もいました。日本語が達者な、数十人の中国人を束ねることに、彼は活きる(生きる)目的を、見出そうとしていました。

また、大連での彼の生活事情は、日本で経験したそれとは、大きく異なるものでした。会社が彼に与えた住宅は、中国大陸では、比較的豪華なマンションでした。この、およそ60平米のマンションの賃料は,およそ3万円。日本では考えられない金額です。彼は、番組のなかで、このような条件の良いところに住むことは、みずからの人生において二度とないだろうと語りました。

さらには、大連での生活がはじまって数年後、彼の人生に大きな転機がやってきました。中国人のガールフレンドとの交際がはじまったのです。もしも、彼が大連に行くことなく、日本においてアルバイトの生活を続けていた場合、ガールフレンドに恵まれることは難しいことだったかもしれません。しかしながら、新天地において、責任者という仕事を任された彼には、徐々にではあったものの、人間関係においても恵まれるようになりました。

多くの日本人からは、羨望のまなざしが注がれるだろう、彼の大連での生活ぶりの一方で、彼の心の奥底には、将来にたいする不安が高まっていました。テレビ局が取材した時点では、仕事場においては責任者という立場ではあるものの、近い将来、その立場を維持できるかどうかをめぐって、彼はひどく悩むようになりました。それは、ガールフレンドの一言が、大きなきっかけとなりました。

ガールフレンドは彼に、仕事場には日本語と北京語、ふたつの言語を流暢に話す中国人がたくさんいるので、日本人の代わりに中国人が責任者になったとしても、業務に支障はないと言ったのです。その彼女は、つい先日、職場での昇進が決まったばかりでした。彼女が近い将来、彼よりも多くの報酬を獲得することは、火を見るより明らかでした。

日本語しかまともに話すことのできない自分は、いつかはバイリンガルの部下に追い越され、会社にとって不要な人材になってしまうかもしれない。そうなったら、日本に戻ることになるかもしれない。しかしながら、もしも自分が日本に戻ったとしても、納得のいく就職先は、あるのだろうか。彼は、新天地における、みずからの地位を守るため、さらにはガールフレンドとの人間関係を守るため、大いに悩んでいました。彼女はそんな彼を見るたび、励ましの言葉をかけるようにしていました。

番組が取材した別の若者たちも、彼と同様、大なり小なり、将来にたいする不安をかかえていました。彼らのなかには、将来のために、北京語の勉強に励む人々がいました。それは、新天地における、みずからの地位を守るためでもありました。

富の分配が十分に機能しない日本社会。閉塞感が支配する日本社会。さらには、先細りし続ける日本経済の将来をひどく悲観したことが、番組が密着取材をした若者たちが、大連への移住を決意した、主たる理由でした。日本の経済事情と比較して、より豊かな生活を手に入れられるだろうという期待をもって、彼らは大連を、人生の新天地としました。

しかしながら、新天地での生活事情は、表向きには、比較的豪華なマンションでの生活といった、満足のいく生活環境を手にすることはできたものの、将来性という観点においては、さまざまな不安要素があることから、彼らには中国社会への適応という、新たな試練が課されています。彼らがみずからの努力で北京語を習得することが、今後の人生を大きく左右することは、言うまでもありません。

また、彼らの存在から読み取れることは、彼らはみずからの意思で日本を去ったものの、その背景には、日本社会では、人材の活用という点において深刻な課題をかかえていること、さらには、日本経済の先行きが不透明であることなど、ただ単に、彼らがみずからの意思で、海外移住を選択したとは言い切れない、非常に複雑な事情があります。日本という国家の凋落が、日本人の海外移住を促したことは、多くの日本人にとっては不都合な事実であると同時に、非常に悲しい事実でもあると思います。

 

参考:

第21回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『サヨナラニッポン ~若者たちが消えてゆく国~』 (制作:フジテレビ)(2012年8月16日、フジテレビ)

動画『サヨナラニッポン~若者たちが消えてゆく国~』(“Daily Motion”より)

 

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福田太郎―「ニッポンの黒幕」を支えた日系人

1990年の法改正によって、多くの日系人が来日したものの、依然として、日本人にとって彼らの存在は身近なものではありません。しかし、日系人の存在は、昭和初期より、日本社会のさまざまなところで見られるようになりました。今回は、「ニッポンの黒幕」を支えた日系人について紹介したいと思います。

彼の名前は、福田太郎。そして彼が支えたのは、児玉誉士夫。数多くの会社経営者のみならず、国会や地方の有力な議員とも深い人脈をもち、同時に右翼団体や反社会的組織の幹部とも通じたことから、「ニッポンの黒幕」として、多くの日本人が児玉を恐れました。

福田は1916年に、ユタ州ソルトレークシティで日系二世として生を受けました。両親は広島県からの移住者でした。福田は小さい頃にアメリカを離れ、日本で生活するようになりました。来日したばかりの頃、彼は早稲田国際学院(現在の早稲田奉仕園)で日本語を学びました。

1939年、彼はアメリカに戻ることなく、当時は「新天地」とされた満州行きを決意しました。満州電信電話会社で仕事を得たからです。しかしながら、満州での生活はそう長くは続きませんでした。1945年8月、多くの日本人がアメリカによる新型の爆弾投下に驚愕したさなか、赤軍(ソ連軍)が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に侵攻したからです。幸いにも福田はその年、日本に戻ることができました。

敗戦後の日本で福田が得た仕事は、進駐軍での通訳の仕事でした。当時の進駐軍は、アメリカで日本語の訓練を受けた二世のみならず、戦前から日本に住んでいた二世も、軍の通訳として採用していました。福田は当初、進駐軍の高級将校の通訳をつとめていましたが、進駐軍が戦争犯罪人の逮捕に踏み切ると、こんどは戦争犯罪人とされた日本人の通訳をつとめるようになりました。このことが、児玉との出会いにつながりました。


「ニッポンの黒幕」との出会い

進駐軍は福田を巣鴨プリズン(池袋サンシャインシティは、この施設の跡地に建てられました)に連れて行くと、児玉を紹介しました。当時、進駐軍はまもなく開廷される極東国際軍事裁判のために、日本社会における政財界の大物を、戦争犯罪の疑いを理由に、次々と逮捕していました。そして進駐軍は、通訳である福田の立ち会いのもと、A級戦犯の疑いのある児玉に厳しい尋問を行いました。このとき、進駐軍は児玉に「不問」という決定を下したので、彼は自由の身になりました。この決定には諸説ありますが、アメリカ政府の今後の外交戦略上、児玉を「利用価値のある存在」とみなしたことが、理由のひとつとされています。これを機に、彼は「アメリカの操り人形」という、新たな肩書きを得ました。

同時に、児玉は福田との交流を深めるようになりました。それは、福田にとっては青天の霹靂でした。1951年、福田は児玉の著書『われ敗れたり』(英名“I am Defeated”)を英語に訳しました。この頃のふたりの間柄は非常に親密で、児玉は福田のみならず彼の家族をも厚遇したといわれています。

一方、福田は1948年に進駐軍を去り、東京銀座で、ロマンス社という出版社を興し、主にアメリカの出版物を日本に卸すようになりました。しかし、経営難の状態が続いたため、数年のうちにその会社をたたみました。その後1958年、当時の日本社会では非常に珍しかった広告会社、“Japan Public Relations Inc.”(ジャパンPR社)を興しました。アメリカから発信されたニュースを日本のマスコミに配信したほか、アメリカの企業が日本に製品を売り込むための窓口としても、その業務の幅を大きく広げました。

 
「ニッポンの黒幕」の腹心となった福田

1960年代の末期、新たに導入する海上自衛隊の機材(哨戒機)を国産にするか、アメリカのロッキード社から輸入するかをめぐり、防衛庁(現在の防衛省)と大蔵省(現在の財務省)が対立していました。

このとき、アメリカ政府は児玉を通して、海上自衛隊にロッキード社のP3Cを導入させるように仕向けていました。福田は児玉を代表して、ロッキード社の関係者に会い、交渉を行いました。また、ロッキード社は取引成功のための工作資金として、多額の現金(現在の価値で約数百億円)を児玉に渡したとされています。その結果、海上自衛隊はP3Cを導入しました。

「工作」の成功を受け、ロッキード社は旅客機の取引においても、児玉を利用したいと考えるようになりました。当時、競合他社との熾烈な競争にさらされ、経営難にあったロッキード社にとって、児玉の存在は会社の将来にかかわる、非常に重要な存在でした。そして、児玉が利用されるたびに、福田の存在感は徐々に増していきました。

1974年、全日本空輸(ANA)はロッキード社製の機材(トライスター)を導入しました。しかし、この機材の導入をめぐり、マスコミによって大規模な疑獄事件が明らかとなりました。ロッキード事件でした。

この事件で、日本の検察(東京地方検察庁特別捜査部)が最初に目をつけたのは児玉でした。同時に、児玉の腹心の福田にも検察の手が及びました。検察は大物とされる児玉の身柄を拘束するのは容易ではないとして、手始めに腹心とされる福田の身柄を拘束したうえで、厳しい尋問にかけることにしました。

ところが、事件が明るみになった当時、福田は重い肝臓の病気を患い、新宿の東京女子医科大学病院に入院していました。彼の医師は、彼の余命が限られていることを検察に打ち明けたうえで、特別な条件下において、彼に事件の詳細を問うことを許可しました。そして彼も、検察の取調べを受けることを承諾しました。

しかしながら、検察は期待した以上の結果を、福田から得ることはできませんでした。彼は心身ともに、すでに病魔に蝕まれており、事件の大まかな事情を語ったものの、事件の詳細や核心については、ほとんど語らなかったからです。検察が彼から得た唯一の収穫は、児玉がロッキード社との取引において、いかなる不利益も被らないように工作を行ったことでした。彼は検察の捜査の手が及ぶことを察知して、大量の書類を処分するよう関係者に命令したとされます。

1976年6月、福田は事件のことを多く語らずに、病院のベッドの上でこの世を去りました。60歳でした。その8年後、渦中の人物であった児玉も、事件のことを多く語らないまま、この世を去りました。

ロッキード事件では、1976年7月27日に、警察が前総理の田中角栄を逮捕しました。「今太閤」とよばれた田中の逮捕に、多くの日本人が驚きました。同時に、彼の逮捕は、日本人の政治不信をより一層高めました。

福田太郎とは、どのような存在だったのでしょうか。いろいろな見解があるとは思いますが、日本社会に翻弄された日系人のひとりであると、わたしは考えます。彼のように、日本社会に翻弄された日系人の存在は、少なくなかったからです。

福田は、戦前は満州への移住、戦後は児玉誉士夫との関係をとおして、長年にわたって、日本社会に大きく翻弄された日系人のひとりでした。児玉に会うことがなければ、彼はおそらく、スキャンダルとは無縁の、ひとりの実業家として、その名前を戦後の日本社会のみならず、日系人社会においても、残したことでしょう。

 

参考文献

1. Hartung, William D. Prophets of War: Lockheed Martin and the Making of the Military-Industrial Complex

2. 猪瀬直樹『死者たちのロッキード事件』(文春文庫、1987年)

3. 竹森久朝『見えざる政府―児玉誉士夫とその黒の人脈』(白石書店、1976年)

4. NHKスペシャル「未解決事件シリーズ -- ロッキード事件 第1~3部」(2016年10月放映)

 

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長崎源之助が描いた日系人―『ボク、ただいまレンタル中』を読む

日本の児童文学においても、日系人の存在を見つけることができます。わたし自身、かなり前からこの作品のことを知っていましたが、長い間、この作品を強く意識することはありませんでした。しかしながら、数年前に日本社会における韓国系の人々の結婚事情に関する研究を知る機会を得たときに、ふとこの作品を思いだしました。

『ボク、ただいまレンタル中』は1992年11月に、作家の長崎源之助氏(1924-2011)がポプラ社から出版しました。そして出版の翌年、この作品は第39回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書に選ばれました1

この作品の主な登場人物は、主人公の小学6年生の井上一也君と、物語の展開において最も重要な鍵を握る夢野孫一郎こと花村健治のふたりです。

物語は、お年を召した人々の心のよりどころとして,小学生の子供たちを「レンタルまご」として派遣しようと画策していた夢野が、ひとりで公園で遊んでいた一也君に声をかけ、夏休みのアルバイトという名目で彼を「レンタルまご」として採用する場面から始まります。夏休みの間、一也君は「レンタルまご」として、さまざまなお年を召した人々の過去を知る機会を得ました。

一也君が出会ったお年を召した人々に共通するものは「先の戦争」でした。彼は広島の被爆者、「一億総火の玉」のプロパガンダのもと、多くの子供たちを戦場に送り込んだ元教師、日本人による民族差別に苦しんだ韓国系のハルボジ(おじいさん)に出会い、たくさんの話を聞くことになります。

ここで取り上げるのは、一也君が出会った日系人のアキコさんです。


アキコさんとの出会い

ある日のことでした。夢野はいつものように、一也くんにお年を召した人を紹介しました。その人は、アキコ・オノという名前の日系アメリカ人のおばあさんでした。彼女はとてもふくよかで、よくしゃべる人でした。都内のとある駅で待ち合わせたふたりは都電荒川線に乗って、とげぬき地蔵に近い庚申塚の停留所まで行き、「おばあさんの原宿」とよばれている巣鴨の町を目指しました。

アキコさんは日本で生まれたたものの、幼いときから加州(カリフォルニア州)は桑港(サンフランシスコ)の郊外で育ちました。アメリカで成人した彼女は結婚し、子宝にも恵まれました。しかしながら1941年に戦争が勃発した結果、彼女は家族とともに住み慣れた桑港の地を追われ、ユタ州に設けられたトパーズ収容所に入れられました。毎日のように砂嵐が吹くトパーズでの生活は、大変苦しいものでした。

強制収容に続いて、彼女はさらなる悲劇に見舞われました。愛する息子、ススム君が肺炎で亡くなったのです。医療設備や薬の乏しい収容施設では、十分な医療処置を施すことは不可能でした。

彼女はこのときのことを、一也君にこのように語りました。

「ススムは、ああ、不死身のはずのあの子は、その収容所のなかでブタのように死んだんだ。いや、殺されたといっていい。日本軍とアメリカに殺されたんだあの子は、砂あらしのなかでたおれていて肺炎になったが、栄養のあるものも食べられず、薬も注射されずに、苦しさにうめき、熱さにからだじゅうの水分をすいとられて死んだんだ。せめて、あの子に水をじゅうぶんのませてやりたかった。砂あらしによごれない、きれいな空気を胸いっぱいすわせてやりたかった」2
               (*下線部による強調は筆者による)

戦争さえなければ、愛する息子の死という悲劇に見舞われることはなかったのです。アキコさんは、向こう見ずな判断をして戦争を始めた日本政府ににたいして、憎悪の感情をいだくと同時に、日本との戦争を理由に自国民を強制収容したアメリカ政府にたいしても、極めて複雑な感情をいだいていました。

「ミーたち(私達)は長年アメリカに住み、アメリカを愛していた。籍こそ法律でアメリカ人にはなれなかったけど、アメリカを自分の国だと思っていたし、ミーらの子どもたちは、正真正銘のアメリカ国籍だ。それをまるで囚人あつかいにし、家畜同様に収容所にとじこめるなんて、あれはアメリカ民主主義の歴史に、大きな汚点をつけたと思うよ3
               (*下線部による強調は筆者による)

一也君は彼女の話に耳をかたむけていましたが、正直なところ、彼にとって彼女の話は面白いものではありませんでした。見たこともなく行ったこともない、日本から遠く離れた外国で起こったことなど、彼にとっては知るよしもなく、関心の対象ですらなかったからです。そんな一也君でしたが、アキコさんは彼のことを気に入りました。


長崎氏が子供たちに伝えたかったこと

長崎氏がこの本を出版する少し前の1984年、 …

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