Sataye Shinoda

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『若人』 ―帰米二世文学の芽生え- その4/5

>>その3

3. 比良男女青年会機関誌『若人』

1943年2月に忠誠登録が実施されると、青年会の活動は難しくなった。会員の大多数は合衆国への忠誠を拒否し、隔離収容所への移動または日本への送還を希望した。したがって当局は青年会を危険分子の集団と見なし、役員を逮捕してユタ州モアブ抑留所へ送った。当局に反する目立つ言動はなかったにもかかわらず、会長の山城譲治はじめ幹部の土井静夫など10名が逮捕されて、青年会以外の人びとと合わせて50名ほどがモアブへ送られた。指導者を失った青年会が体制を建て直すには約2ヶ月を要したが、丸山郁雄が会長となって4月から再び活動を開始した。丸山は北海道出身の父を持ち、収容前はロサンゼルスで庭師をしていた24、5歳の帰米二世であった。

このようなわけで発足当時からの懸案であった機関誌の発行は大幅に遅れ、5月15日、ようやく『若人』第一号が発行された。戦争中で必要な紙にも事欠く時期であったが、やはりアメリカは物資の豊富な国で、質の良い紙ではなかったがともかく確保することができた。一号と二号は赤い紙で三号まですべて謄写版印刷である。鉄筆は、所内の新聞の日本語版『比良時報』で鉄筆を担当していた加屋良晴が引き受けた。印刷ができると、青年会のメンバーが集まって、楽しくおしゃべりしながら、すべて手作業で製本した。この機関誌は忠誠登録が終わった後、トゥーリレイク隔離収容所への移動が開始される1943年秋までほんの短い期間に発行されたものである。

『若人』創刊号の表紙には自由の女神像が描かれている。民主主義を標榜するアメリカ合衆国で、市民権を有しているにもかかわらず、当時もっとも非民主主義的な扱いを受けていた青年たちの創る機関誌が、自由の女神像を掲げたのは、皮肉な思いをこめたからである。自由の女神に象徴される合衆国はどこへいったのか。彼らは市民として、心からそう叫んでいたにちがいない。しかし青年たちが目指したのは、声高く合衆国を非難したり、暴力を用いて戦時転住局に反抗することではなかった。あくまでも穏やかに、収容所を精神修養の場と変えることで、この時期に自らを磨こうというのである。彼らの精神的指導者の役割を果たした一世のひとりに木村義文がいる。彼は開教使で、創刊号に「収容所か修養所か」という一文を載せた。木村は「心現在を要す事未だ来らざるに心邀ふるべからず事既に往けば心追ふべからず」という佐藤一斎のことばを引用して、過去を振り返って愚痴を言ったり、あてにならない未来を想像して取り越し苦労するなど愚かなことであると述べている。そして将来をあれこれと思いわずらうのではなく、現在を大切にして収容所を精神修養の場にしようと呼びかけている。木村の主張は、青年会の基本的姿勢を示すもので、会の指針となっていた。

創刊号の内容は、越智道順の人生訓「毒語寸経」に始まり、収容所での感想、短編小説、詩、短歌、俳句など雑多である。伊藤正の「感じたまゝ」、平野凡人の「所内結婚可否論」などは当時の若者が直面していた問題を論じたもので興味深い。伊藤は、財布を拾って届けた正直な日本女性が誉められて、「アメリカ人として当然のこととしたまで」と答えたことが新聞紙上で紹介された件を取り上げ、彼女に「人間として当然のこと」と言ってほしかったと述べている。アメリカ人であるのに日本人の血を持っているという理由で鉄柵のなかに囚われている作者は、アメリカ人か日本人かを選択するのではなく、人種にこだわらず人間として生きるのだと自分自身にも言い聞かせているように思われる。

第二号は6月20日に発行された。15日に発行の予定であったが、直前になって戦時転住局は、『「若人』を発行禁止処分にした。担当者が内容の詳細な翻訳を提出して充分に説明したのち、19日に許可がおりたが、発行は遅れてしまった。その上、検閲を通らず掲載できなかった作品もあったという。内容は前号よりさらに充実している。創刊号に掲載された木村義文の主張は、ここでも加久多須というペンネームの「現在を有意義に生きよ」と題した文のなかで次のように繰り返されている。「所内は社会の縮図である、求めやうとする志があればそこには道は色々開けてくる。このキャンプ生活は天から与えられた修養の時代だ……戦後の活躍に対する細心の準備を怠つてはならない」。このようないましめが繰り返されている背景には、人びとがいかにデマに惑わされ、疑心暗鬼で右往左往していたかがうかがえる。この号には、野口蒼平(伊藤正のペンネーム)の「母の日に」、戸嶋綾子の「慰問の記」、スミ子の「珍客」など、収容所内のできごとを描写した若い人の随筆が掲載されている。収容所の食堂で働いている主婦は、母の日に休みになって、代わりに若い娘たちが働くことになっていたらしいが、「母の日に」は、その日に14年前に別れた日本の母への想いを綴ったものである。「慰問の記」は、青年会の女性会員が所内の病院へ図書館の本を届けて患者を慰める様子を書いている。社会の役に立ちたいという若い女性のひたむきな気持ちがよく表れていて、このような人びとが青年会を支えていたのだと分かる。「珍客」は、アメリカに出稼ぎに行ったまま行方不明になっていた日本の女学校時代の親友の兄に、偶然収容所のなかで会うというできごとを、作者の日本時代の想い出とともに綴った作品である。探し求めていた兄がこの収容所にいることを、何とかして日本の親友に伝えたい。しかしそれを妨げている戦争という現実と作者のもどかしさが素直なことばで書かれている。

第二号の詩「追憶」は、ループからヒラへ投稿された作品である。作者はジョーヂとあるが、会長の山城譲治である可能性が高い。しかし山城はこの他に作品を書いていない。忠誠登録後に逮捕されてモアブ抑留所へ送られた幹部が、次に移されたのがループ抑留所であった。モアブも町はずれの巨大な岩山が果てしなく続く所にある施設で、幹部たちはそこへ到着したときは、見たこともない風景に、地の果てに来たかと絶望したという。しかしループはそこからさらに断崖絶壁を通って州境をこえたアリゾナ州の奥地であった。ループはかつて先住民インディアンの青少年を合衆国市民として教育するための収容施設で、青年会の幹部たちはしばらくここに収容されていた。この詩の内容も、ヒラと同じアリゾナであってもさらに辺境の地に送られた身の寂しさを嘆く内容であるが、逮捕、隔離されても文通などは自由だったようで、友達の温かい友情への感謝の気持ちがうたわれている。

いずれの号にも一世の作品は少ないが、第二号で「偶感」の癡風生の他、「土に学ぶ」の作者青木ヒサは一世、すでに山元麻子の名で随筆集『心のかげ』を出版していた。青木は1900年、山形市生まれ、日大高等師範部を卒業してホノルル、オークランドなどの日本語学校教師を歴任した。彼女は教師の傍らロサンゼルスの日本語新聞『加州毎日』の寄稿家でもあった。彼女の夫は開教使であったために、日米開戦の翌日、連邦捜査局に逮捕されて抑留所へ送られていた。彼女は収容所内で尊敬される存在であり、所内の新聞に記事を書くようにと頼まれたりしたが、流言蜚語が飛び交い嫉妬が渦巻く収容所では目立たないことがよいことだとして文筆関係の仕事はすべて断って、農園の仕事をしたという。第二号の随筆も、若者の作品ばかりで優れた作品がないことを案じた編集者が、すでに安定した評価を得ていた青木に原稿を依頼したと思われる。彼女が筆名を使わず、本名の青木ヒサで書いているのは山本麻子で或ることを知られたくないという理由からと推測される。

その5>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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『若人』 ―帰米二世文学の芽生え- その3/5

>>その2

2. 『若人』創刊の背景 -比良男女青年会の活動-

収容所への移動が完了してほどなく、帰米二世たちが集まって帰米男女青年会が発足した。急激な環境の変化によって落ち着かない生活を送っていた若者たちも、収容所生活を少しでも楽しいものに変えようと考え始めた。そして親睦会という形で始まったのがこの会であった。若者の中には、将来に絶望して非行に走り、ぞろぞろと群れをなして所内をのし歩き、顰蹙(ひんしゅく)をかう者もあった。帰米二世たちはアメリカの民主主義を信じていたにもかかわらず、市民である自分たちを守ってくれるどころか、その自由を奪って収容所へ入れたアメリカに絶望していた。しかし収容所内で秩序を守り、この時期をなんとか有意義に過ごそうと考える若者たちはたしかに存在した。そのような人びとが集まって結成したのが青年会であった。

これは1942年10月1日に「山の市」で結成され、同年11月1日、比良男女青年会と改名して発会式が行われた。会長は山城譲治。山城は当時30歳の帰米二世だったが、アメリカで大学を卒業し、サンフランシスコで仏教青年会の仕事をしていた。彼は青年たちから兄のように慕われており、そのリーダーシップを評価されて会長となった。発会式には65歳以上の人々が招待され、敬老会も兼ねた催しとなった。会長は帰米二世で、程度の差はあったが、日本で教育を受けていたことから、日常生活ではおもに日本語を使っていた。収容所では英語が公用語であったため、英語の分らない一世は不自由な思いをしていた。帰米二世にも英語が不得意な者が多く、この点では一世と同じ悩みをもっていた。彼らは、日本語を媒介として一世と意思の疎通をはかって役に立ちたいという気持ちから、敬老会と発会式を結合させたと思われる。一方、老人を尊敬するという儒教思想、すなわち日本古来の美徳を尊重することを示したものであろう。一世を楽しませるために歌や劇などが披露されて、出演者は100名あまりのかなり大規模なものであった。日系社会の指導的立場にいた一世は、真珠湾攻撃の直後に逮捕されて抑留所に送られ、指導者不在になっていた。収容所にはいった一世は、監督当局に協力する純二世に主導権を握られ、取り残された思いであったにちがいない。帰米二世は一世の心情を理解して、手を差しのべたのである。会員たちは、一世から感謝と賞賛をもって受け入れられた。青年会は一世を賛助会員として組織に迎えた。会は親睦と娯楽だけでなく、精神修養もすべきであると意見が出て、当時50歳台であった一世の開教使・越智道順を顧問に迎え、日曜日ごとに仏教講和の勉強会を開くようになった。

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青年会は会員以外の人々にも貢献する意味で、結成の一ヶ月後に手工芸展覧会を開いた。とくに老一世たちは、仕事に就くこともなく、暇を持て余していた。彼らの間で流行したのが、工芸であった。根気よく探せば、砂漠でも美しい石や変った形の木の根を見つけることができた。巨大なサボテンやモスキートトゥリーも工夫次第で、花立やパイプの材料になった。老人たちは、丹念にそれらを磨いたり、削ったりして、驚くべき熱心さで美しい工芸品を作り上げたのである。女性たちは、紙切れを集めて彩色し、日本人形を作った。1942年の暮れ、手工芸展への出品は2,200点にも及んだ。いくつかの食堂を会場として開かれたこの会は展示即売会をして、作品の販売も行った。日本人形は人気があって、たいへんよく売れたという。殺風景な収容所の部屋に飾って、少しでも彩りのある生活をしたいという気持ちが人びとに人形を買わせたのであろう。あまりの人気に三日の会期をさらに二日延長しなければならなかった。入場者は延べ1万5千人で、大成功であった。この手工芸展が開かれていたころ、マンザナ収容書では暴動事件が発生しているが、ヒラではきわめておだやかに月日が過ぎていった。

青年会のもうひとつの活動は、日本語図書館の開設であった。これは会の結成とほぼ同時にスタートし、帰米二世の加屋良晴が責任者になった。彼は収容所内を駆けまわって人びとに呼びかけ、約300冊の日本語の本を集めた。ひとつの部屋を確保して図書室とし、朝9時から夜9時まで開いた。貸し出し業務が中心で一日に平均41冊を貸し出した。翌年には蔵書は1,329冊に増え、1日平均90冊を貸し出すまでになった。戦争中であるから、雑誌はもちろん新しい日本語の本は輸入されなくなっていた。されに強制立ち退きの際に日本語の書籍を所持していると逮捕につながるとして、処分した人も多かったため、一世や帰米二世は日本語の本に飢えていた。戦時転住局の運営する図書館の蔵書は英語の書籍のみであった。したがって日本語図書館の運営はこのような人びとの要求を満たすものであった。青年会は社会的活動の一環として、年末に餅つきをしたり、マラソン大会や運動会といったスポーツの行事も行った。青年会は、若者らしく活発に活動して人々のすさみがちな生活に彩りを与えた点、重要な役割を果たした。また、対立しがちな純二世と一世の関係とは異なり、日本語を媒体として一世とのきずなを深めたことは、一世にとって大きな慰めとなった。1943年8月、比良男女青年会に正式に登録した会員は359名を数える。彼らの大多数は、不忠誠組となってトゥーリレイク隔離収容所へ送られることになった。会員は、トゥーリレイクで活動を再開することを誓いあって、最後に会員名簿を発行して解散した。

その4>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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『若人』 ―帰米二世文学の芽生え- その2/5

>>その1

所内には戦場で使用するカモフラージュネットの工場があり、住民に戦争努力への貢献を求め、市民権を持つ人のみが働くことを許された。また、早くも1942年9月から戦時転住局の斡旋で、綿花摘みの労働者が求められた。アリゾナ州は全米の4分の3の量の長い繊維の綿花を産出し、それは戦時国防必需品であった。戦時中の労働者不足のため、収穫には収容者の労働力がぜひとも必要であった。戦争努力に貢献すると同時に賃金も得られるとあって、多くの男女が応募し、一度に約100名ずつ外部へ就労していった。

1943年2月に忠誠登録が行われたが、ヒラでは目だった混乱はなかった。登録拒否を強要した者が当局から注意を受けたくらいであった。3月はじめまでに17歳から38歳の男女で登録した者は5,200名であった。ヒラで問題とされたのは政治的なことではなく、もっぱら賭博や青少年の不良化といった社会問題であった。いずれの収容所にも程度の差こそあれ、このような問題が存在したが、ヒラでは合衆国に忠誠な者、不忠誠な者との間の深刻な対立がなかったために、社会問題がいっそうクローズアップされたのであろう。

1942年秋から、「山の市」で賭博によって24名の検挙者を出す騒動が起こっている。当局は、職業的に賭博場を開く者があり、善良な人々を誘惑して金銭を巻き上げているとして厳重に取り締まった。賭博をした者は、発覚する逮捕されて、髪を丸刈りにされてしまったという。戦前の日系人社会と賭博は切り離せないものであった。在米日本人会やキリスト教団体が早い時期から賭博撲滅運動に乗り出したにもかかわらず、移民地は娯楽の少ない男性社会という事情もあり、賭博で身をあやめる人はあとを絶たなかった。収容所内での賭博はこのような風潮が持ち込まれたことを裏付けている。
    
1943年3月にはヒラから101名が志願兵となったが、その一方でパチューコと呼ばれる不良青年も増えていった。彼らは収容所生活に希望を見出すことができず、群れを成して所内をのし歩き、けんかをしかけたり、恐喝をはたらいたりした。特にこの次期には揃いの赤い帽子に赤い靴といういでたちで、鳥の羽のような独特の髪型をして一目でそれと判別できた。これに対して親たちは、財産を失った日系人の唯一の希望は後継者の育成であるのに、その大切な子供たちに悪影響を及ぼす不良青年たちは許せないとして、ブロックごとに自警団を作って、子供の不良化防止に努力した。収容所では三度の食事を作る必要もなく、希望しなければ就労の必要もなかったため、生活の基本が崩れて両親が子供を放任する結果となった。子供がある程度の年齢になると、食堂では友人同士で食事をし、母親は同年齢の人同士、父親も仲間と食事を共にするという家族がばらばらの状態がいたるところでみられた。家族の団欒が失われ、次第に家族関係が崩壊していき、子供を育てるには最悪の環境であった。親たちは毎晩9時以降は子供を外に出さないなどの申し合わせをして、ブロックごとに子供たちの動向を見張った。このような対処法は、日本人独特の「町内会」的発想であった。

忠誠登録を境に所内の人びとは忠誠組、不忠誠組に二分され、不忠誠者はトゥーリレイクへ隔離された。これとは逆に軍隊に志願した者は徐々に入隊のために移動して行った。忠誠を表明した人びとは外部へ出ることができた。トゥーリレイクへ送られた人びとは1,818人で、1943年10月1、2、3、6日の4回にわけて出発した。これらの人びとが去ってしまうと、ヒラには合衆国に忠誠な人びとばかりが残った。44年6月にはアーカンソー州ジュローム収容所の閉鎖にともなって、2,300名が移動して来た。ヒラではとくに騒動も起こらず、平穏な明け暮れであった。人びとの関心は、再定住の場所とよい仕事を探すことに向けられた。45年8月、日本が降伏したのち、この月の終わりまでに収容所は閉鎖された。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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『若人』 -帰米二世文学の芽生え- その1/5

1. 『若人』創刊の地 ―ヒラリヴァー収容所―

『若人』が生まれたヒラリヴァー収容所、正式にはヒラリヴァー戦時転住所(以下ヒラとする)は、アリゾナ州のピマ・インディアンの居留地のなかにあった。第一次世界大戦中に戦死したピマ族の兵士の名に因んで名付けられたこの地には、アメリカ先住民が細ぼそと農業を営んでいた。ここはフェニックス市内から約64キロメートル離れており、外部の者との接触がほとんどないことから日系アメリカ人収容所の立地条件を満たしている。収容所は第一と第二の二つ区域に分かれていた。第一、第二と呼ぶのでは味気ないというので、第一は運河のそばにあったため「カナル」、第二は西側に溶岩丘があったことから「ビュート」と呼ばれることになった。殺風景な収容所を少しでも潤いのある所にしようと、収容者はカナルを日本語で「川の市(まち)」、ビュートを「山の市(まち)」と呼ぶようになった。「川の市」は85ヘクタール、「山の市」は117.1ヘクタールで、両収容所の間は約6キロメートルの距離があった。徒歩で約一時間を要するため、1943年になると往来を円滑にすべく午前7時45分から30分おきにシャトル・バスが運行していた。

最初に入った者は、1942年2月20日、トゥーレアリ仮収容所からの任意入居者520名であった。その後、おもにトゥーレアリ、ターロック、サンタ・アニタ仮収容所から人びとが送られ、移動は同年10月までに完了した。12月の調査によれば住民は男子8,195名、女子5,123名で圧倒的に男性が多く、男女比が著しくアンバランスであった。この中で帰米二世は約1,000名と推定される。ほとんどの収容所では外装に黒いタールぺーパーが使われていたため、全体的にくすんだ暗い印象を与えたが、ヒラの建物は屋根が赤いタイルだったため明るい雰囲気であったという。「山の市」は完全な砂漠で、巨大なサボテンが点在するのみで殺風景であるが、「川の市」は豊かな水をたたえる川と水辺の植物があるために、いくぶんか潤いが感じられる。

海抜457メートル、気温は冬が摂氏マイナス6.7度から15.6度、夏が摂氏26.7度から47.2度と温度差が大きいが、夏は長く暑いわりに冬は短く、寒さもそれほどひどくなかった。降雨量は年間わずか254ミリで、完全な砂漠地帯である。強い風が吹くと巻き起こるひどい砂嵐と、夏の雷が人びとを悩ませたという。灌漑用水路の整備の遅れなどもあり、慢性的な水不足に悩まされていた。

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収容所に落ち着くとまず、人々が努力したのはいかに住みよい場所にするかということであった。日本人は身のまわりに花や緑がないと精神的に落ち着かないようだ。人びとはこの不毛の地にコットンウッドを植えて、緑を増やす努力をした。1942年10月には60名のボランティアが35本のコットンウッドを植えた。この木は4メートルの高さになり、夏には人びとが憩う緑陰を作ったというが、この木は今でも跡地に残っている。また、それぞれのバラックで庭園造りも盛んだったようで、家の土台とともに、ひょうたんなどさまざまな形の池の跡も残されていて、人びとの努力を物語っている。のちには庭園部が設立され、柑橘類を中心に150本の苗木を植えて並木を作り、43年には「川の市」に楡の木200本が植えられた。さらにリヴァーズ種苗園ができて、花が栽培された。43年1月にはスイートピー、カーネーション、菊などが咲き、1月末には生花店が開店した。人びとの日常生活を飾るほど多量の花はなかったと思われるが、冠婚葬祭やパーティに使う花は予約すれば手に入れることができた。

戦時移転局は日系人の多くが優秀な農業専門家であることに注目し、収容者の食料の自給自足を計画した。10ヶ所の収容所のうち、土壌が農業に適さなかったのはマンザナーだけで、その他はすべて開墾されて驚くほど豊かな農地に変った。ヒラでも溶岩丘の東に大農場が完成した。灌漑用水の確保によって、ここは肥沃な農場と化したのである。ヒラでは最初、トゥーリレイクから農産物の供給を受けていたが、のちには自給できるようになった。野菜を作る農場は、チャプスイファームと呼ばれて22種の野菜が植えられていた。とくに外部から種を取り寄せて蒔いた大根が収穫されたときには盛大な「大根祭」が行なわれ、この収容所のおもな年中行事となった。

その2>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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