Sataye Shinoda

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『鉄柵』 発展途上の帰米二世の文学 -その4/6

>>その3

編集者のひとり河合一夫は、樋江井良二のペンネームで書いている。彼はたいへんな文学青年で、岩波文庫をほとんど全巻揃えて収容所へ持ってきたほどの読書家だったという。

詩は「君が像を彫れり」(創刊号)、「鮭」(第2号)の2篇、長編小説「時代」を創刊号から第6号を除く第7号まで6回連載している。長編小説となっているが、一貫したストーリーはない。第5号までは、ひとりの青年と隣に住む人妻が姉と弟のような交際をするが、近所の人びとのうわさの種にされ、自分の純粋な気持ちが理解されずに苛立つ心の動きを描いている。しかし第7号から突然日記形式になって別の話に変わる。収容所と言う閉ざされた小さな世界で、若者たちが他人の目を気にしつつ、出会い、愛憎、別離を繰り返す日常を描きながら一貫性がなく、まとまっていないのが惜しまれる。

広小路敏雄の名で書いた河合のもうひとつの短編小説「出発前夜」(第3号)は、仮収容所で日本送還を希望し、転住所を経てトゥーリレイク隔離収容所へ移送される若者とその恋人の別れを描いている。若者は帰米二世で、日本に自分の将来を託す。恋人はともにトゥーリレイクへ行きたいが、合衆国に忠誠な父親に従わねばならない。恋人に心惹かれる若者は、トゥーリレイク行きをためらうが結局、決心して出発して行く。自分の信念と恋人の間で揺れ動く心を描いて、河合の作品のなかでは佳作である。

もうひとりの編集者野沢襄二は、ロサンジェルス生まれで東京の神田で育ち、1938年に帰米して高校を卒業した。父はロサンジェルスの日系新聞『羅府新報』に係わっていたため、襄二も文学に親しむ青年になった。彼は「勝安房の悩み」(創刊号)、「思慕」(第2号)、「自画像」(第5号)、「早春の夜」・「ひとり」(第9号)の5篇の詩のほか、短編小説「流される者」(第6号)、「志願兵の父」(第7号)、「禿鷹先生と私」(第8号)を書いている。このなかで「禿鷹先生と私」は創作となっているが、彼の中学時代の思い出を書いたと思われる。生意気盛りの生徒たちは担任教師に「禿鷹」というニックネームをつけて反抗やいたずらの限りをつくすが、教師が辞めたあとその存在の大きさを知り、彼の誠実さに気づくというストーリーである。野沢は収容所でさまざまな経験をするなかで、多感な少年時代の彼の心に刻まれた禿鷹先生を懐かしく思い出したのであろう。「流される者」は弟の目から見たアメリカ兵である兄の恋愛遍歴を、「志願兵の父」は3人息子を戦場に送り、戦死させてしまう老夫婦の苦悩を描いた小説である。いずれも日系人の苛酷な運命をテーマとして、読む者の胸に迫る作品である。

第8号から編集に参加した伊藤正は、収容所のさまざまな問題を取り上げて論じている。「裸の言葉」(創刊号)、「資格について」(第2号)、「投稿と編集」(第3号)、「労働雑感」(第4号)、「波止場にて」(第5号)、「愛憎録」(第6号)のほか第7号から第9号までの連載小説「メス争議」がある。伊藤はかなり多作である。ヒラリヴァー収容所でも『若人』に多くの作品を載せている。彼は鶴嶺湖男女青年団のメンバーであり、『怒濤』にも小説「この道を行く」を連載している。

彼は「波止場にて」のなかで自分が饒舌であると告白している。黙っていよう思っても自分のなかに湧き上がるものを抑えることができずに書いてしまうと述べているが、これら一連の作品のなかに、かつて合衆国兵士であったにもかかわらず、不忠誠となってトゥーリレイク行きを選んだ彼の苦しみがうかがえる。

伊藤は『若人』時代を除けば、ペンネームは使っていない。これもペンネームの下に隠れてではなく、偽らぬ自分を白日のもとに曝け出してものを書きたいという彼のまじめさの表れであろう。すべての作品は収容所の諸問題を真剣に論じたものである。

鶴嶺湖男女青年団の団員として『怒濤』の編集を担当していた藤田晃は、菅井良のペンネームで第7号から9号に小説「病院の人々」を連載している。入院した抑留者の父を見舞うため、トゥーリレイクからサンタフェ抑留所へと急ぐ息子の物語である。藤田自身はポストン収容所からトゥーリレイクへ来た。事実、藤田の父は逮捕されてサンタフェ抑留所へ送られていたので、この小説は藤田の経験そのものであろう。カリフォルニア州のトゥーリレイクからニューメキシコ州のサンタフェまでの旅の途中、白人の冷たいまなざしを感じたり、ホテルで宿泊を断られたりと、日本人であるがゆえに受ける差別や、収容所の職員、抑留所病院の職員たちのさまざまな対応、お互いに助け合う抑留者たちの優しさなどがきめ細かく描かれている。連載途中で『鉄柵』が終刊となり、完成を見なかったのは惜しまれる。のちにこれは1984年に出版された『立退きの季節』の最後の部分に挿入されている。

読みごたえのある短編を書いたのは水戸川光雄である。水戸川光雄は1919年生まれの帰米二世で、1937年にアメリカへ帰り、ヒラリヴァーを経てトゥーリレイクへ来ていた。彼の作品はすべて短編で、「蕎麦」(創刊号)、「コールクルー」(第2号)、「三週間」(第3号)、「反抗心」(第4号)、「赤い日傘」(第5号)、「沈黙の軽蔑」(第6号)がある。そのほか高井有象の名で詩「感傷」・「六月の窓辺」(第3号)を書いている。高井は本名である。

「蕎麦」は収容所で迎えた1943年の大晦日のひとこまを描いた作品である。所内にはブロックごとに食堂があったが、室内に備えられていた暖房用ストーヴを使って、自室で調理することも可能であった。材料は所内の売店や、通信販売で日本食料品店から買うことができた。四人の独身の帰米青年が年越し蕎麦をふるまわれて、それぞれが望郷の思いにかられる。収容所で迎える大晦日の淋しさが漂う短編である。

ほかに「三週間」、「赤い日傘」は収容所内での恋と別離を、「反抗心」は母のように慕っていた叔母が知らない男と同棲したことへの反抗をテーマとしており、いずれも若者の潔癖で一途な気持ちが描かれている。水戸川はその純粋な気持ちゆえに、市民である自分を収容所へ送った合衆国を許すことができず、次第に親日派の活動にのめりこむ。彼はトラブルメーカーのひとりと判断されて、1944年12月にサンタフェ抑留所へ送られてしまった。そのため彼の作品は第6号が最後となっている。

その5>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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『鉄柵』 発展途上の帰米二世の文学 -その3/6

>>その2

3.『鉄柵』の内容

他の収容所の出版物と比べると、『鉄柵』には小説が多く掲載されている。その小説は圧倒的に短編だが、3篇の連載長編小説もある。このほかに随筆、評論、詩と短歌・俳句などの短詩型文学が配置されているが、川柳は掲載されていない。編集者はあくまでも「文学」にこだわり、文学的水準の高い作品を望んだ。編集者のひとりはのちに、同じ収容所で発行された『怒濤』との相違点は作品の質の高さだったと筆者に語っている。さまざまな作品が持ち込まれたが、質の低いものは掲載せず、そのために人びとの間で感情的摩擦を生じたことも度々あったらしい。

作品の質を問題にする一方で、日本語学校の生徒の作文も掲載されている。創刊号、第2号、第5号、第6号、第9号には「綴り方教室」または「作文」というページが設けられて、小学校低学年から中等科までの生徒の作文が載っている。これは一見、文学作品に限るという編集方針と矛盾するようであるが、二世の日本語学習を奨励するという重要な意味があった。たとえば山城正雄が一時期、所内の国民学校長をつとめたように同人の中には日本語教育にたずさわっていた者も多く、生徒の作文を読む機会があり、彼らが日本で暮らす将来を思えば日本語作文は重要であるという理由から掲載された。

リーダーである加川文一は創刊号から9号まですべてに作品を載せている。加川の詩は、「鉄柵」・「砂塵」(創刊号)、「鉄柵」(第2号)、「廃園の像」(第3号)、「風景の弓」(第4号)、「あした」・「高原の日」(第6号)、「朝焼」・「雁」・「暴徒」(第7号)、「祖国よ」(第8号)、「空腹」・「闇を破るもの」(第9号)と全部で13篇を数える。その他先に述べた「発刊の辞」(創刊号)のほか随筆が4篇、詩論が1篇ある。

加川が毎号に複数の作品を発表していたことから、彼が同人の育成に並々ならぬ情熱を傾けていたことがわかる。加川はこれらの作品のなかで、詩とはなにか、創作とはいかなることかを示して『鉄柵』同人を啓蒙すると同時に、いかに生きるべきかを示唆している。例をあげると「写生」(第5号)のなかで、彼は文学手法のひとつとして「写生」をとりあげ、「全人間的に生きんとする私たちの血と肉を私たちの写生に通わせた時はじめて写生は生きてくる」のであるから、「文芸家は文芸家として人生を写生する前に先づ人として生き、人としての経験の撓みに耐えなければならぬ」と述べている。同じ「鉄柵」と題する2篇の詩のなかでも「柵を出づる日は/たじろかざる汝のうちにあり/その日きたるまで/空虚なることばを吐きて/また己れを吐きすつることなかれ」(創刊号)、「たれにゆだねんゆめにしあらず/ひと日ひと日をおのれのものとはせよ」(第2号)と書いて、収容所の日々を無為に過ごさないようにと戒めている。彼は青年たちが真摯な人生を送り、その人生を反映した作品を生むことを望んだ。

しかし、結果は彼の期待通りにはならなかった。加川が期待していたような詩人は育たなかった。第9号の詩「闇を破るもの」が、彼の落胆の気持ちを表わしている。「にはとりは哀し/人は足もとに汝を飼えど/汝のうたに紅く焼くる/天を捕へ得ず」と彼が詠うとき、「にはとり」は『鉄柵』同人の象徴であるという。この詩から、加川が一向に向上しない同人の作品に苛立ちを感じていたのだと、のちに同人のひとりが筆者に語った。

編集を担当した3人の帰米二世のなかで、山城正雄はもっとも多くの作品を載せている。山城は1916年にハワイ州(当時は準州)カワイ島で生まれた。1924年から32年まで両親の故郷沖縄県で教育を受けてハワイへ戻り、36年から開戦までロサンジェルスで暮らした。

山城の作品は、詩、評論、随筆、短編小説と多岐にわたっている。詩には「徴兵」(第2号)、「火影」(第3号)、「たそがれ」(第4号)、「底火」(第6号)があり、短編小説には「転住所」(第2号)、「木の節」(第6号)がある。山城は先住民モドック族(本文ではモダック)と合衆国軍が闘ったトゥーリレイク周辺の歴史に興味をもち、歴史物語にして人びとに知らせようとして資料を探した。その過程を書いたものが「史実を訪ねて」(第3号)、収容所内で入手できる乏しい資料を使って書いた物語が「ツルレーキ物語」(第4・5号)である。山城は、収容所の彼方に聳えるキャプテンジャックの砦を毎日眺めているうちに、ジャックの生涯を知りたくなったのであろうか。合衆国軍と戦った結果、捕らえられて1873年10月に死刑になったモドック族長の生涯がこの物語のテーマである。山城は一族の行く末を案じつつ、族長として誇り高く死んだジャックの生涯を先住民への同情をこめて描いている。彼は合衆国に抵抗するジャックの姿と、不忠誠になって収容されている日系人の運命を重ね合わせたのかもしれない。

山城の現実を見つめる鋭い目は、このころから養われたものであろう。「キャンプ雑感」(創刊号)、「脱皮の期間」(第8号)、坂本というペンネームで書かれた「文化寸評」(第3号)などの評論に彼の才気が発揮されている。「キャンプ雑感」は彼が収容されたサンタ・アニタ仮収容所およびグラナダ収容所の生活をおもしろおかしく観察したものである。サンタ・アニタは競馬場を改造した収容所で、臭気ただよう厩舎に起居するのはどんなに辛い毎日だったか想像に難くない。人びとは住みよくするために工夫をこらした。それぞれの個性を生かした表札をかかげ、家具や部屋の仕切り(パテーション)を作ったりした暮らしぶりがよくわかる。彼の本領は小説よりもむしろ評論にあるといえよう。

小説は2篇のみである。いずれも収容所の生活がテーマで、「転住所」は彼が経験したグラナダ収容所での生活を描いている。家具を作るために板きれを盗み出す人びと、外部の農園労働者の募集に応じて出て行く人びと、ひそかに思いを寄せる女性を家に招待して断られ、用意したご馳走を独身者同士で淋しく食べる話などいくつかのエピソードを織り混ぜているが、あまりにもいろいろなことを一度に書こうとしたため多少冗漫に流れている。しかし文章力、描写は優れている。「木の節」は好きな女性の誕生日に木の節を包装して贈った若者と、相手の女性の心の交流を淡々と描いた小説で、主人公の帰米二世は生まじめで理屈が勝っており、若い頃の山城を髣髴とさせる。前作よりも完成度の高い作品である。

その4>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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『鉄柵』 発展途上の帰米二世の文学 -その2/6

>>その1

2.『鉄柵』の創刊と目的

1943年の晩秋、3人の帰米青年が毎晩のように加川文一の家に集まっていた。彼らはグラナダ収容所から来た山城正雄と野沢襄二、ポストンからの河合一夫であった。お互いにロサンジェルス市立ポリテクニック・ハイスクールを卒業した友達同士で、文学という共通の趣味で結びついていた。その頃は忠誠者と不忠誠者の交換がほぼ終了し、次第に過激な親日派が勢力を伸ばし始めており、3人は不忠誠を選択したものの、所内の雰囲気に馴染めなかった。過激な帰米青年たちの運動に巻き込まれたくないと感じた3人は独身で生活の心配もなく、あり余る時間を使って何ができるかを模索していた。加川と文学談義を重ねるうちに、文学誌を発行する話がまとまった。

加川は14歳で渡米し、カリフォルニア州パロアルトで父とともに農業に従事するかたわら独学で英語と詩を学び、1930年に英詩集Hidden Flameを出版した。当時、英詩を書く一世はごく少数で、ヨネ・ノグチの後継者として注目を浴びた。その後、加川は『收穫』の発刊にも大きな役割を果たした(『收穫』については『日系アメリカ文学雑誌集成(1)』を参照)。加川は喜んで文学青年たちの相談にのり、文学同人会を作ることに賛同した。加川はかつて『收穫』時代に内部の人間関係の悪化から、リーダーの役割を果たせなかったのを残念に思っていたにちがいない。収容所という好ましくない状況ではあったが、もう一度若い文学者を育てる機会が訪れたと喜んだようである。

雑誌を発行するには監理当局の許可を得なければならない。とくに当局からトラブルメーカーの烙印を押されている帰米二世が集って日本語の雑誌を発行するといえば、そう簡単に許可が下りるわけはなかった。3人は当然、加川文一を代表にすべきだと考えた。しかし加川は呼び寄せ一世(父が先に移民として渡米、のちに呼び寄せられた子)で市民権を持たなかったので、敵性外国人であった。加川に迷惑がかかることを恐れ、市民権を持つ3人が編集責任者となった。加川は3人の気持ちを理解し、顧問という形で参加した。

物資の豊富なアメリカでも戦争中であるから、大量の紙の入手は困難であった。たとえ許可が下りても謄写版の鉄筆担当者、紙、印刷手段などを確保しなければならなかった。創刊号から3号までの鉄筆を担当したのは国民学校教師であった河合の教え子の大城真砂子である。彼女は純二世(帰米二世と区別するために、アメリカのみで教育を受けた二世をこう呼ぶ)にしてはめずらしく日本語の読み書きも堪能で、達筆であった。たぶん大城は河合の担当するクラスの優等生であったのだろう。創刊号に『クオレ』の感想文も載せている。のちに鉄筆は加屋良晴、宮迫宗和などが担当した。

紙は野沢が奔走して売店のマネージャーに頼んで手に入れた。3人はまず所内の日本語新聞『鶴嶺湖事報』で雑誌の創刊を知らせ、原稿を募集した。集った原稿を注意深く英訳し、監理当局を刺激する表現は極力避けるよう自己規制をした結果、許可が下りたという。3人とも雑誌の発行は初めてだったため試行錯誤の連続で、発行されるまでに4ヶ月を要したという。創刊号の編集はおもに野沢が担当した。実際に雑誌が世に出たのは3月であった。正確な日付は不明である。

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『鉄柵』の目的は創刊号の加川文一による「発刊の辞」のなかに書かれている。彼は強制収容所という劣悪な環境のなかでも日本人はその文化を見失っていないこと、戦後の新生活に向けて準備をしなければならないことをあげ、そのあかしとして文芸誌を発行すると述べている。第2号の「巻頭言」には、トゥーリレイクは日本へ帰る途中の「ホテル」であり、その後「北米移民の幕」を閉じるとあって、日本帰還が明言されている。収容所を「帰国後の生活力の養成所」であるとして、そのために思索し、創作する。この雑誌の目的はその発表の場を提供することであった。そしてその創作は質の高いものでなければならない。同人の目標は、戦後に発行されたなかでもっとも充実した文学誌『收穫』であり、努力してこれを凌ぐ文学誌を作りたいというのが希望であった。第2号の編集後記には「移民文学史の立派な最後を飾りたい」とあるが、編集者たちには移民文学もこれで終わり、継承する者はいないのだという悲壮感が漂っている。彼らは帰国の日を待つ間に作品を書くことに専念して、文学を通じて日本人(日系人)が文化を喪失していないと主張したかったのである。

文学誌という性格上、作品は慎重に審査された。第2号には「創刊号を語る」という座談会があり、3人の編集者のほか加川文一・(桐田)しづ夫妻に泊、矢尾を加えた7人が、創刊号の作品批評を行っている。作品の評価が公表されたのはこれが最初で最後になったが、毎号批評会が行われたようである。同じ号の編集後記には、たくさんの原稿が集まったが、基準に達していないものは断ったと書かれていて、かなりきびしい審査が行なわれたことがわかる。

創刊号は約800部発行され、所内のキャンテーン(協同組合形式の売店)で25セントで販売された。戦争勃発以来日本語の雑誌は輸入されていなかったため、人びとは日本語に飢えていた。発行と同時に飛ぶように売れて、他の収容所からも注文が殺到した。各収容所では新聞が発行されていたがいずれも英字新聞が中心で、日本語新聞はあくまでも翻訳という役割であった。日本語で生活している人びとはそれをもの足りないと感じ、収容所のさまざまな問題や小説を日本語で読みたいと思っていたのである。

順調な売れ行きにほっとした編集者は、第2号はページ数を増やして特別号とした。発行部数は号を重ねるごとに増え、第6号の新年特大号は140ページで1,200部以上発行され、35セントで販売された。平均して毎号1,000部が発行された。創刊号を発売したとき、編集者たちは売れ行きを気にして、そっとキャンテ―ンをのぞいたという。売り上げ金は同人に分配せず、経費を差し引いた残りをすべて貯めて次の号の資金にした。同人はときどき、その資金のなかからチキンを一羽買う。それを鍋にいれて部屋の暖房用ストーヴの上に乗せてスープにし、それを飲みながら文学を論じたという。お互いの作品を批評し合って、あまり酷評されたときは蒲団をかぶって寝てしまう。そしてもう文学はやめたとふさぎこむが、何日かたつとまた気をとりなおして書き始めるという状況の繰り返しで、このようななかから帰米二世たちの作品が生まれたのである。『鉄柵』はこのような青年たちの情熱に支えられ、加川という指導者を得て、次第に文学誌として充実していった。しかし1945年7月21日、第9号が発行された後、日米戦争は日本の敗戦で終わった。『鉄柵』第10号はついに発行されなかった。

その3>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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『鉄柵』 発展途上の帰米二世の文学 -その1/6

トゥーリレイク収容所の文学同人誌『鉄柵』は、収容所で発行された雑誌のなかでもっともよく知られている。『カリフォルニア強制収容所』(白井昇、1981年)で詳しく紹介されているほか、『南加文芸選集』(藤田晃編、1981年)および『遠い対岸』(山城正雄、1984年)、『帰米二世』(山城正雄、1995年)など日本で出版された本のなかで言及されている。そのため帰米二世文学のルーツは『鉄柵』にあると言うのが定説になっている。しかしその全容は明らかにされていない。当事者の野沢襄二は『南加文芸選集』のなかで、『鉄柵』は第10号で終わったと述べているが、実際は第9号が最後である。第10号は計画されていたが実現しなかったのであろう。このように当事者でさえ記憶違いがあり、それがそのまま受け入れられてきたのである。

『鉄柵』はすべての収容所の日本語雑誌のなかでももっとも充実した内容をもち、文学的水準も高い。日系文芸人のご厚意によって『鉄柵』全9号の復刻が実現したことは日系アメリカ文学の研究上意義深いことである。とくにこのなかに藤田晃、山城正雄などのちに作家となった人びとの若き日の作品を見るのは興味深い。

トゥーリレイク収容所では、定期刊行物としてほかに鶴嶺湖男女青年団の機関誌『怒濤』、短歌誌『高原』があり、加川文一の随筆集『我が見し頬』、矢尾嘉夫の歌集『歸雁集』、泊良彦の歌集『渦巻』などの単行本も発行されて、日本語文学の隆盛をみた(『怒濤』については『日系アメリカ文学雑誌集成③④』を参照)。

1.トゥーリレイク収容所の生活

オレゴンとカリフォルニアの州境に近いニューウェルという小さな町のはずれにトゥーリレイク収容所はあった。はるかに雪をいただいたシャスタ山をのぞみ、深い森や水鳥の棲息する沼地を通り抜けたところにかつて巨大な湖があった。トゥーリという葦が生い茂っていたことから「トゥーリレイク」と呼ばれていた。1940年、政府はこの湖を購入して湖の水を抜いた。なぜ排水したのかは不明だが、たぶん農地にする目的であったのかもしれない。しかしここは周囲の美しい環境とは異なって荒れ地のまま放置されていた。強制収容所はこの広大な国有地に急造された。収容所の名称の片仮名表記は、「ツーリレーキ」「ツールレーク」「ツルレーキ」など、日系人の出版物のなかでさまざまに表わされているが、先住民が生活用具の材料に使う「トゥーリ」が生えた湖であったことから、地元では「トゥーリレイク」と発音している。

収容所の西には先住民の古戦場キャッスルロックが聳え、その頂上には十字架が建っている。収容者はそれを直訳して「城巌山」と呼んだ。キャッスルロックの左手の彼方にはシャスタ山が美しい姿を見せており、75、76、79、80の各ブロックから眺めることが出来た。収容所の北東部、つまり裏側にはアバロニ・マウンテンという鮑の形をした溶岩丘があって、「鮑山」または「鮑ヶ丘」として親しまれていた。これらの丘は一本の木もない殺風景な収容所のなかの数少ない風物として、歌や詩のなかに詠まれている。日本人は古来から花鳥風月を文学の主題としてきた。トゥーリレイクには見るべき花はなかったが、鳥や月を眺めることができた。他の収容所と比べると風はおだやかであったが、鳥が来るような木はなかった。人びとは数少ない自然のなかで、空を飛んで行く鳥の姿に注目した。矢尾嘉夫の『歸雁集』からも分るように、収容所の上を飛び去るたくさんの渡り鳥が短歌や俳句に詠まれている。

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トゥーリレイクは忠誠審査の結果、合衆国に不忠誠な人びとが多かったことから、1943年7月に不忠誠者を収容する隔離収容所に指定された。不忠誠者が多ければ、忠誠者をほかへ移動させる手間が省けること、野菜、肉、鶏卵などのさまざまな食料が生産されて自給できたことなどが指定の理由としてあげられる。所内には農事部があり、収容者が優秀な農業技術を生かして開墾した土地に大農園が作られた。現在、このあたりがホースラディッシュなどで有名な農業地帯となっていることからも分るように、土壌が肥沃であったと思われる。1944年11月の記録よれば1ヶ月23万600ポンドの野菜、8万ポンドの豚肉が収穫されて、自給してもさらに余剰が出るほどであった。

隔離収容所となってから所内の雰囲気は一変する。一部の過激な帰米二世集団が人びとを煽動して、収穫期の農園やモータープールでストを組織し、ことあるごとに監理者側との対立を深めていった。二世の市民権放棄を認める法律が成立したのち、1944年8月には帰米二世を中心とした「祖国研究青年団」が結成されて、日本精神の高揚を目的に早朝から勇ましい軍隊式の行進を開始した。さらに一世を中心とする「帰国奉仕団」、帰米二世の「報国青年団」などの極端な親日派集団が結成された。人びとが心の拠り所としたのは現実の日本ではなく、日本という名の幻の理想郷であった。収容所内の混乱によって1943年11月からは軍の監理下に置かれた時期もあり、トゥーリレイクの名はトラブルメーカーを収容する場の代名詞となって全米に知られるようになった。日本敗戦の後は騒動も鎮まり、市民権を放棄して日本への帰還を申請していた人びとは、ここから日本へ去っていった。トゥーリレイクは10ヶ所の収容所のうちもっとも遅く、1946年3月に閉鎖された。

その2>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その5/5

>>その4

青年団の機関誌であっても投稿者は団員に限られたわけではない。編集者はいっそう読みごたえのあるものにするために、すでに日系文壇で知られた人にも原稿を依頼した。そのためかなりの数の一世の作品が含まれている。

戦前、『收穫』に寄稿している森百太郎は一世で、団員の若者とは一世代年長であったが、小説「或る系譜」(第4号)、「幕末の或る数学家」(第5号)、「師の印象」(第6号)、「馬鹿庄」(第7号)、および散文詩「流れ」(第5号)、啓蒙読物「女性読本」(第3号)を載せている。「或る系譜」は東京美術学校長室井芳璃、「幕末の或数学家」は柳河春三の伝記に題材を求めた小説、「馬鹿庄」はたぶん森の故郷での見聞を書いたものであろう。「師の印象」を除いて他はすべて日本を題材としたもので、収容所の生活が反映されたものではない。彼は過去の日本の想い出の中に埋没することによって収容所の現実を忘れようとしたのかもしれない。

短詩型文学は毎号必ず掲載されている。若い団員の作品には詩が多く、恋心や懐かしい故郷をテーマにした抒情詩である。長谷峯春「かなしき想ひ出」(創刊号)、茜しげる「追憶」(第2号)、「胸の断片」(第3号)などは女性へのひそかな想いをうたったもの、幸之進「ふるさとのうみ」(第2号)、樹立繁「その男」(第6号)は望郷の気持ちをこめた詩である。また、鵜瀬澄夫「ぼく」(創刊号)や板谷幸子「瞬間」(第2号)など自己を見つめる内省的な詩もある。

短歌は、戦前から活躍していた泊良彦の歌が2号から5号まで掲載されている。泊は1887年に鹿児島県で生まれ1907年に渡米、25年に南詠会という短歌会を主催した。彼は『收穫』にも作品を載せており、北米短歌協会の指導者のひとりであった。収容所ではすでに50歳を過ぎており、いちはやく日本への送還を希望していた。ここでは短歌だけでなく、「青年の意気」(第3号)、「血か理念か」(第5号)などを書いて、日本への帰還と奉仕を訴えている。

俳句ではやはり戦前から知られた一世俳人である中村梅夫、藤岡無隠などの作品もあるがごくわずかである。青年団の若者が集うのは「白砂短歌会」、溶岩丘アバロ二・マウンテンにちなんで命名された「鮑ヶ丘俳句会」であった。また川柳も盛んであったが、収容所で初めて短詩型文学と出会った人が多いようで、楽しみながら創作をするクラブ活動のような会であったと思われる。また、郵便による他の収容所の歌友や句友との交流も盛んだったようである。

5. 『怒濤』の特色と果たした役割

『怒濤』の第一の特徴は、鶴嶺湖男女青年団の機関誌ということである。青年団の活動報告の場であると同時に、青年たちを祖国日本に役に立つ「立派な」日本人にするための啓蒙雑誌であった。第二に帰米二世を中心とする不忠誠者のみの雑誌であること。第三には藤田・橋本の二人の編集者が文学志向であったことから、その内容には文学作品が多く見られること。『鉄柵』とは異なり、団員からの投稿は取捨選択せずすべて掲載した。したがってその内容も玉石混淆で、学校の作文程度のものも多い。しかし選びぬかれ文学としての体裁が整った作品ではなく、若者が自由に書いたもののなかにこそ彼らの真情が溢れているのではないか。作品の質を云々するよりもこの雑誌は、当時の若者たちが何を考えて生きていたかを探る貴重な資料といえるであろう。第四に、第2号からは当局による検閲が免除され、比較的自由に親日思想を表現していること。他の収容所の雑誌は検閲を受けており、編集者が自己規制をして親日的傾向の作品を最初から排除した。しかし、トゥーリレイクでは日本送還希望者が多かったことと、戦争でアメリカ側が圧倒的に優勢であったため管理者もデモなどには神経を尖らせたが、出版物には寛大な措置をとったのである。

『怒濤』は第7号をもって終刊となった。1945年6月、日本敗戦の二ヶ月前である。ただし、編集者はこれが最後とは考えていなかったようで、藤田の小説「影と蔭」は次号にも連載予定であった。収容所に「小日本」を作り、日本を理想化していた若者たちは日本の敗戦で大打撃を受けたにちがいない。

ヒラリヴァー収容所の『若人』に始まり、『怒濤』へと継承されていった帰米二世の文学の流れは、戦後の『南加文藝』および『NY文藝』へと繋がって行く。青年団の帰米二世たちのなかで市民権を放棄して日本への送還を希望した者も、やがてその意思を翻してアメリカへ残り、その90パーセントがアメリカ市民として生きる道を選択した。一度は日本へ行った者も1950年代に市民権を回復してふたたび帰米した。橋本京詩は収容所を出てニューヨークへ向かい、55年に創刊された『NY文藝』同人となって誌上に多くの小説を発表した。藤田晃、伊藤正はロサンゼルスの『南加文藝』同人となり、65年から85年まで20年間も文学同人誌に作品を書き続けた。『怒濤』第6号から謄写版の鉄筆を担当した帰米二世加屋良晴は、その後『南加文藝』編集長として鉄筆を担当した。さらに、藤田は日本で、『農地の光景』『立退きの季節』などの小説を出版し、帰米二世文学の存在を日本の人びとに知らせた。

若い日の藤田、橋本が『怒濤』と出会わなかったなら彼らののちの創作活動はなかったかもしれない。彼らは『怒濤』をめぐって多くの文学仲間と知り合ったことから大いに文学への興味をかきたてられたのである。『怒濤』が帰米二世文学を生み、育てたという点で日系アメリカ文学に果した意義は大きい。

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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