Seiji Kawasaki

1965年愛媛県松山市生まれ。筑波大学第一学群社会学類法学主専攻卒業。筑波大学大学院修士課程教育研究科修了。筑波大学大学院博士課程教育学研究科単位取得退学。東京学芸大学教育学部専任講師、助教授、准教授、ハワイ大学教育学部客員研究員(2001-2002年、2008年)などを経て、現在、東京学芸大学教育学部教授、博士(教育学・筑波大学)。専門分野は社会科教育・多文化教育,ハワイ研究,授業研究方法論。著作は『多文化教育とハワイの異文化理解学習―「公正さ」はどう認識されるか(単著、ナカニシヤ出版、2011年)ほか。

(2014年7月 更新) 

education ja

ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第8回(前編) 日系人に教わった、学校で教わらなかった基礎英語

第2回の「オシャレをしてもお洒落ではない?」で言葉の変化について触れた。継承されている日本語が本来の意味を失って変化していることを取り上げて、一世の生活を想像しながら考えた。海を渡ってきた彼らが日々懸命に働き、祖国に送金した残りの中から少しでも蓄えに回していたであろうことを。そこに「オシャレ」の意味の変容の理由がある、という仮説を立ててみた。 そうした気づきは、今のハワイの日系社会で日系人の友人たちに親しく付き合ってもらう中で得られたものである。家族同様のMさんとLさん夫妻、とくに奥さんのLさんは小学校の教師だった経験もあり、私が英語の表現に強く興味を持っていることをすぐに見抜いていたのだった。 今回はフィールドワーカーとしての自己開示も兼ねて、私自身の経験を紹介してみようと思う。 1996年に職を得て、私はハワイの小学校に毎年通うようになった。アメリカ本土で仕事があれば、どんなに短期間でも帰りにハワイに寄るようにしていた。そうすることを5年ほど繰り返し、2001年には1年近く住み込んで、Mさんの小学校を集中的に観察することになる。 今と較べるとその頃の英会話力は惨憺たるもので、よくあれほどたくさんの観察記録を残すことができたと不思議に思うほどである。中学校時代から英語は一番の得意教科で、英語にまつわるあらゆることを身につけていくのが楽しくて仕方なかった。「暗唱文」と…

continue a ler

community ja

ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第7回(後編) ハワイの日系人は個人主義的か

第7回(前編)を読む >> 日系人のメンタリティ ハワイに通い始めて20年が過ぎ、その間何度か住んでみたりしていると、計らずも現地社会の儀式に参加することにもなる。英語での日常会話能力が十分でなかったころ(日常会話のほうが自分の専門分野の議論よりもずっと難しいと思う)は、それが億劫で仕方なかった。だが、自分の研究フィールドのより深い理解のためと考え、誘われれば断らずに出かけることにしていた。 儀式にもいろいろあるが、ここで取り上げるのは「ハレ」の儀式ではなく「ケ」のほうである。 Mさんはワイキキの有名ホテルの総料理長を経て小学校のカフェテリアのマネージャーを務めた人である。頻繁に食事のケータリングの依頼があり、実費だけで快くそれを引き受けていた。ハワイ州知事からも依頼があるほどで、その時手伝ったのが私のケータリングの最初の経験である。 ある時、Mさんはハワイ系の友人から、身内の葬儀の際のケータリングの依頼を受けた。私はハワイに長期滞在していたので、MさんLさんの手伝いとして早朝から加わることになった。10時頃にホノルルのヌウアヌ通りにある葬儀場の廊下に料理を搬入して準備を整え、私は式の様子を外から見ていた。次から次へと車が到着して、大柄なハワイ系の人たちが続々と式場に入ってくる。亡くなったのはごく普通のお婆さんである。身内だけでなく縁のある人たちが大勢やってきて、そ…

continue a ler

community ja

ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第7回(前編) ハワイの日系人は個人主義的か

このエッセイは今回から全12回の後半に入る。これまでの6回の内容はハワイの日系人の文化的側面に焦点を当て、日本文化と日系文化を対比させながら考えてきた。とりわけ私の現地の保護者のような存在であるMさんの忠告に従って、ハワイの日系人の多様化に注意を払いながら、一般化し過ぎることのないように心がけてきた。迷った時には、毎年の定期的な滞在に加えてぶらりとハワイに行ってみたりもしている。 後半に入る今回は、「第2回 オシャレをしてもお洒落ではない?」の冒頭に書いた「日系人の多様化」について今一度考えてみようと思う。さらに、それが理由となってハワイの日系人は個人主義的になっているのかどうか確かめてみることにしたい。 海外に出ると日本人はよく集まって一緒に行動すると言われてきた。パック旅行はその典型的なもので、多くの日本人は海外では一人で何もできない、などと言われたものだった。集まるか単独行動をするかは、旅慣れているか、現地に適応できているか、などのバロメータとして判断されることも多かった。 しかし、日本人に限らず人間は他人に自分と似たところを見つけて、互いによく集まるものである。日本でも、たとえば私が働いている大学でも、同じ国や近い国同士の留学生たちで集団をつくっている光景は普段からよく目にしている。 日系人が個人主義的といわれる理由は何か MさんLさん宅のガレージ前でゴルフ…

continue a ler

education ja

ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第6回 『精一杯やる』とはどういうことか ― 日本文化とハワイの日系文化

小学校の話を続けよう。前回(第5回「失われつつあるのかもしれない日本的価値観―変わりゆくハワイの文化―」)MさんLさんの優しさや思いやりの深さに触れた。二人によれば、日系人たちが受け継いできた日本文化の美徳は、「やってあげられることを精一杯やる」ということだった。これについて、第3回「Tシャツ」で話題にしたA先生の学校に注目してみることにする。 A先生の勤務する小学校はホノルルからフリーウェイを使って1時間以上かかる僻地校である。古くは日本人移民が最初に入植した地といわれ、オアフ島で最後までサトウキビ栽培が行われていた田舎の町にある。そこより先に小学校はない。映画「Picture Bride」の舞台になったと思われるエリアでもある。 A先生は長く副校長を務めたが、2009年度より自ら降格して、現在はカリキュラム・コーディネータ役の教諭である。Milken Awardという全米の優秀な教員に与えられる賞を授賞している。従妹のC先生も重要な役割を担うスタッフである。ともに学校から車で数分の集落に住んでいる。Lさんの同級生はみな引退し、現役でフルタイムで働いているのはA先生一人とのことである。 2001年の冬に初めて学校を訪問したときに、日本では考えられない学校の取り組みについて話を聞くことができた。それ以後毎年訪問しているが、2006年11月と2007年9月には3名ずつ学生…

continue a ler

identity ja

ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第5回 失われつつあるのかもしれない日本的価値観 ― 変わりゆくハワイの文化 ―

ハワイの日系社会をテーマに連載を始めたこのエッセイだが、はたしてハワイに「日系社会」なるものがあるのかという疑問に突き当たることがある。チャイナタウンのような民族コミュニティが見える形で存在しているのはむしろ例外的である。アラモアナ・ショッピングセンターの山側に、コリアンタウンの始まりのようなものを感じることはある。だが、ハワイ系の多いワイマナロやカポレイ、フィリピン系が多いとされるカリヒやワイパフなどはあるものの、それらの地区にも様々な民族が共住している。カポレイでは最近大規模な宅地開発が進んでいるし、ワイパフにはかつて日系人が多く住んでいたが、製糖業の衰退とともに人口構成は変わってしまった。養豚業を営む沖縄系が多く住んでいたハワイ・カイは今や高級住宅地である。このように次第に地域は変容し、「その民族ならここ」と言うことが難しくなってきている。異民族間結婚もそれに拍車をかけている。 ハワイでは「メルティング・ポット」的な状況と「サラダ・ボウル」的な状況とが共存していると言われる。WASPのような絶対的な多数派が存在しないために、アメリカ本土とは状況が大きく異なっている。長い航海の末ハワイに到達した移民たちは、もともと存在しなかった「ローカル」文化を創り上げ、それを共有することで「ハワイ人」というまったく別の存在に「なる」と信じてきた。このことは「メルティング・ポット」的な状況…

continue a ler