Shigeo Nakamura

立教大学アジア地域研究所研究員。2005年から2年間、JICA派遣の青年ボランティアとしてブラジルサンパウロ州奥地の町の史料館で学芸員をつとめ る。それが日系社会との出会いで、以来、ブラジル日本人移民百年の歴史と日系社会の将来に興味津々。

(2007年2月1日 更新)

 

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ブラジル国、ニッポン村だより

笠戸丸は「明治の精神」をのせて

「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残っているのは畢竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」(『こころ』より)

日本の高校生で、現代国語の時間にこの作品を読んだひとは多いと思う。もちろん全部ではなく、上の一節を含む「先生の遺書」の部分だけだ。どんな文 学作品でも教材になってしまうと退屈なものになる。私など、ほとんど一学期間かけてだらだらと読み続けたような、明らかに誤った記憶があるばかりで、中身 はまったく印象に残らなかった。『こころ』をおもしろく感じたのは、ずいぶん後に江藤淳の評論を通してのことだ。

江藤淳によると、「エゴイズムと愛の不可能性という宿痾に悩む孤独な近代人として生きなければならなかった」漱石(先生)は、天皇崩御とそれに続く 乃木の殉死に遭遇して、「『明治の精神』が、彼の内部でまったく死に絶えてはなかった」ことを悟ったのだという。それを悟って作家は、「自分が伝統的倫理 の側にたつものであることを明示するために」『こころ』を書き始めたと。(江藤淳「明治の一知識人」より)

「明治の精神」というのは、実は私にはわかるようでわからない。国家と自己が同一化され、政治家だろうと文学者だろうと当然のように分け持たれてい る、自分たちの国づくりに何らかの貢献をしなければならないという使命感、といったのでは浅薄にすぎるだろうか。いずれにしても今のわれわれ日本人の大半 にとって、理解が容易ではない「精神」だろう。

夏目漱石は慶応3年、その8年前の安政6年に水野龍が生まれている。水野は、自分の会社の名前に『皇国』の一語を高らかに掲げ、ブラジル移民事業は 私利私欲で携わるべき仕事ではなく、国家的事業であると主張した。私利私欲から離れた事業、などというものに今の世の中では滅多にお目にかかれないものだ から、そんなことを言われても私たちの耳には空々しく響くばかりで、金儲けのための大義名分ぐらいだろうとしか思えない。もし「これは私利私欲を離れた事 業です」といいながら近寄ってくる者があったとして、警戒心なしに誰がそれ以上の話を聞くだろう。しかし水野の言動を追跡し、生前身近にいた人たちから話 を聞くと、この人は本気でそう考えていたとしか思えなくなってくる。彼も「明治の精神」の保持者であり、夏目漱石と同じ時代を生きていた、そう考えれば、 ようやく水野の事業を言葉通り受け取ることができる。

『こころ』の先生(漱石)に「明治の精神」の終わりをはっきりと意識させたのは、明治天皇の死と乃木将軍の殉死だったわけだが、終わりの兆候はそこ までにすでに現れていた。日露戦争に勝利したことで、明治維新以来皆で目指してきたものがすべて達成されたかのような高揚した気分が国内に満ち、自己肯定 と個人主義が謳いあげられる大正時代に活躍する新しいタイプの人間が出てくる。資本制も確立し、多くの人は自分の利益を追求することに余念がない。一方で 社会主義者や無政府主義者の活動も目立ってくる。水野や漱石の世代にとっては、時代が変わりつつあることが実感されるような日々だったはずで、おそらくそ れを彼ら「明治の精神」の保持者たちは違和感を持って眺めていた。それは「明治の精神」そのものであった明治天皇も同様だった。その現われが、建国の精神 を忘れるなと呼びかけた「戊辰詔書」だ。「戊辰詔書」が出されたのは明治41年、笠戸丸と同じ年だ。

水野が、サンパウロ州と移民契約を結んだ時に詠んだという歌がある。

    としを経し磯の醜草根を絶へな移し植なむ大和撫子

笠戸丸はもしかすると、失われつつあった「明治の精神」をブラジルに移植して生き延びさせるための、水野にとって箱舟のようなものだったのかもしれ ない。「戊辰詔書」が出されたこと、水野によってブラジル移民事業が構想・実現されたこと、漱石が『こころ』で描いたことも、同じ状況を踏まえての、それ ぞれの表現だったのではないか。明治天皇は直接的に戒めの言葉を発し、漱石は主人公に「時勢おくれの感じ」を持たせて死なせる作品を「明治の精神」のいわ ば墓碑銘として残し、漱石の8つ年長であったせいとその資質の違いによって「エゴイズムと愛の不可能性という宿痾に悩む孤独な近代人」にはならず、生涯 「明治の精神」を見失わなかった水野は、行動することを選んでブラジルに日本移民を送る。

移民史に外からかかわっているにすぎない者が勝手な思い入れから物語をつくるのも迷惑な話だろう。ともあれ移民百周年だ。次の区切りは二百年だろう か。いずれにせよ、起源には常に笠戸丸があり、水野龍がいる。たかが起源、されど起源というところで、その意味は、この先何度でも読み替えられ、語りかえ られていくのだろう。

結局最後まで狙いの定まらなかったこの連載も今回で終了。特にまとめの一回というわけでもなく、前回の末尾を引き取って水野龍と笠戸丸の話をもって締めくくりとしたい。

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ブラジル国、ニッポン村だより

笠戸丸移民について考える

100年前の今頃、移民781人の契約移民と自由渡航者たちを乗せた笠戸丸は洋上にあった。サントス港に到着する6月18日まで、神戸港を出てから60日の航海である。

この笠戸丸移民の集合写真、というものがありそうでない。私が知っていたのは、ずっと鹿児島県出身者が神戸の神社で撮影したという一枚の写真だけだった。だけだった、と過去形にできるのは、つい最近、別の一枚を見る機会があったからで、その一枚をここに掲げる。笠戸丸甲板上に勢揃いした移民たち の、おそらく出港前の記念撮影である。

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画像というのは不思議なもので、私のように想像力の羽ばたきの弱い人間でも、一見すればどこかが刺激されるらしく、いろんな思いがひっぱり出されて くる。どうやらこの写真、知っている人にはとっくに知られていたものらしいが、ブラジル日本移民史に興味を持ちながら、これまで笠戸丸移民についてはあま り明瞭なイメージを描けないまま来た私にとっては、ひとつの新しい、ちょっとした出会いだ。

はっきり見えるのは前のほうに写っている数名にすぎないが、移民たちの顔、というより面構えと言いたくなるような彼らの表情をどう読み取ればよいのだろ う。不安でもなく、かといって決意といった清々しいものでもない、なんとなくふてぶてしさすら感じるのは、ブラジルでコーヒー農園に入った彼らの多くに、 待遇に怒ってストライキを起こしたり、さっさと見切りをつけて都市や遠くアルゼンチンにまで行って働く主張と行動力があったこと、一方で農園に残った人び との、そんなトラブルにもかかわらず日本移民はダメだと烙印を押させなかった粘り強さを知っているからだろうか。いずれにしろ私の目には、この後大正、昭 和、平成と生きて今日にいたった同じ日本人の表情には見えない。

そもそも今のわれわれには、60日かけてようやく行きつく未知の土地などというものが残されていない。ほとんど情報のない土地へ自分と家族の生活を かけて出発するという選択もまずないだろう。ネットを通じて綿密な情報収集ができる旅行者は、メールを通じて知り合った現地在住者とまるで旧知であるかの ように「再会」し、その土地のネットワークに苦もなく溶け込んでいくのが珍しくもないご時勢だ。

甲板上で撮られたこの写真が出港時のものだとすれば、われわれには想像もできない旅に向け、もう後戻りができなくなった時点ということだ。そんなときに人はいったいどんな表情をするのだろう。私には読み取れなくて当たり前かもしれない。

それにしてもこの写真を見ていると、彼らをブラジルに向かわせたものが何だったのか、もう一度よく
考えてみたいという気持ちにさせられる。

人はなぜ移民となるのか。いちばん一般的で、説得力もある答えは、その時の経済状況からされる説明だろう。近代日本の景気状況と移民送出数を示すグラフを 重ねると、相関関係は明らかだ。人は食うために、家族を食わせるために、生活を豊かにするために海を渡る。実に簡明な説明である。

それだけだろうか、と、しかしもうひとつ胸に落ちない思いがいつもあった。

移民という選択肢以外に生計を成り立たせる方法はほかにもありはしなかったか。あえて家郷を離れ、言葉すら通じない人の間に入り、金のなる木がある という噂(本当に信じたのか?)だけを頼りに保証のない生活に飛び込むほどの賭けに出なければならなかったと簡単に納得はできない。

そんな考えを持って思い入れたっぷりに写真を眺めていると、笠戸丸に乗り込んだ移民たちが、やはり当時としても特別な「冒険心」(もっと適切な言葉 がありそうだが思いつかない)を持った人びとのように見えてくる。それは今でも、個性的な移民一世たちと実際に接する中で時々感じるものでもある。ほんと うの冒険心というのは、だれにでもある資質ではなく、ある種の人にだけ宿るものだというのが私の考えだ。

それは、合理的な思考を鈍らせ、まわりの人びとを巻き込んでありえない進路を選ばせ、おそらくは「失敗」という結果に帰着することが多い。「失敗」 といってももちろんひとつの価値観に基づいての評価にすぎないが。かれらはただ、見たこともないものを見たい、行ったことのない土地に行ってみたい、人が 経験できない生活を経験したい、という思いに憑かれた人たちだったのではないか。この写真から私は不思議なエネルギーを感じるのだが、それはそんな精神を もった人間が一同に会しているところから発するものかと思う。

世界は結局、そういった人びとがいて、得にならない、不合理な選択を時々しながら新しい道を切り拓いてきたからなんとかここまで存続してきたという こともいえる。個人としては損になることが多そうな冒険心を持つ人間がいつまでも淘汰されずにいるのは、その存在が長い目で見れば人類に利益もたらすからだという考え方もあるだろう。笠戸丸移民の係累は、そう考えると人類史上にたくさんいることになる。

笠戸丸移民については、ウソの宣伝にだまされてブラジルに来た被害者という見方もある。その側面を認めない訳ではないが、それ一辺倒の見方はかれらに失礼だと思えてくる。

さて、写真の彼らの視線の先にはカメラがある。その傍らにまさに立っていたかも知れない、彼らをブラジルに導いた張本人である水野龍がいったい何を考えてこのような企てをしたのか、これも再考に価するテーマだ。

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ブラジル国、ニッポン村だより

「移民の父」とその子供たち

100年の歴史を持つブラジル日本移民には、「移民の父」と呼ばれる存在がいる。ハワイ移民の父とかペルー移民の父というのは聞いたことがないがないから、「父」がいるのはブラジル日本移民だけかもしれない。

なるほど、ブラジルぐらい遠いと、受け入れ先を準備したり、移民船を調達したり、つまり誰かが言い出しっぺになって事業を立ち上げないことには始まらないわけで、そういったところで「父」も生まれる余地があるのだろう。

一連の仕事を手がけ、「移民の父」となったのは、水野龍という人物である。

移民の父といわばその「子どもたち」、第1回ブラジル日本移民約800名は、笠戸丸という船で1908年4月27日にブラジルに向けて出発した。そ の航海中、水野がつけていた日誌はサンパウロ州内陸部の町の史料館に保管されている。表紙の文字はかすれて読めなくなった、手のひらにのるぐらいの小さな 薄い手帳である。

史料館学芸員としてこの手帳の持ち主であった水野龍のことを少しずつ調べていたのが縁で、最近になって水野龍の息子、RZさんと出会うことになっ た。比喩的な「子ども」ではなく、正真正銘の血を分けた息子さんである。その気になれば簡単に訪ねることのできる距離にいながら、ずっと機会がなかったの は、江戸時代の終わりに生まれた水野龍の息子さんが健在のはずがないという思い込みがあったせいだ。探してみようという気すらおきなかった。
「僕はお父さんが75歳のときの息子。いま僕は77歳」ということだった。

「移民の父」という言い方には、当然敬意が込められているのだが、ブラジル日本移民にはたくさんの苦労もあったせいか、水野龍の評判は芳しいものばかりではない。水野龍をして移民の父とは笑止千万という意見もないではないのだ。

第一回の頃は、移民、というよりまだ海外出稼ぎ人という呼び名の方が一般的だった時代である。ブラジルに行くのはてっとり早く儲けるためで、そこで根付こうなどという料簡を最初から持っていた人はほとんどいなかった。

それがいざ行ってみたらとてもではないが短期間で一財産つくって故郷に錦を飾れるような状況ではない。笠戸丸でやってきて、サンパウロ州のコーヒー農園に契約労働者として送り込まれた移民の多くが、騒ぎを起こしたり、脱走することになった。「話が違う」というわけだ。

話は確かに事前の宣伝と違うところがあった。そうなってしまったのには、不可抗力といってもよい部分もあったし、移民会社社長である水野が責めを負 うべき部分もあった。当時、移民会社というのはずいぶんあくどいこともやったようだから、水野に騙されたと感じた人がいても不思議はない。儲からなかった からといって帰ることもできずにブラジルで亡くなった笠戸丸移民のなかには、水野を最後まで恨んでいた人もあったと聞く。

水野はブラジル移民事業を死ぬまで投げ出すことはせず、徐々に軌道にのせて行くのだが、ブラジル日本移民史のなかで第一回の笠戸丸移民は、ひとつの「悲劇」として記憶されることになる。その物語で水野に割り振られるのは、どちらかといえば悪役だ。

しかし一方で、水野の仕事を評価する人びともいた。一時帰国中に戦争がはじまり、結局10年近く家族と離れ離れに暮らすはめになった水野が、最晩年 になってようやくブラジルに戻るその費用を調達したのはブラジル移民の有志であった。「移民の父」と呼び始めたのはおそらくそのグループだろう。

考えてみれば実際の父親というものも、本来それほど尊敬されるばかりの存在でもない。憎しみの対象になる父親というのも世間にはざらで、そんな父親 との関係のなかで一人前に成長する人もいる。そういう意味でも、水野を「移民の父」とすることでいいのかもしれない。歴史の起源に必ず英雄が必要というこ とでもないだろう。何はともあれ、ブラジル日系社会は現在世界最大の日系社会としてあり、少数民族ながらブラジル国家の中で存在感を示している。

さて、本当の親子関係における父親水野龍はどんな存在だったのだろう。自ら移民としてブラジルに骨を埋める覚悟をした水野龍が、80歳にもなって拓いた「植民地」で幼いころを過ごしたRZさんに聞くと、やはりなかなかやっかいな親子関係だったようだ。

移民事業にほとんど身を捧げてしまった父親と、それに振り回されて苦労する母親。若いころのRZさんが、いつもその母親側に立ってものを見て、母親 に対して常に同情を感じながら寄り添っていた様子が話しぶりからうかがえた。かといって父親の存在は小さくなかったようだ。それは父親の言動を実に細かい ところまで記憶していることからも感じられた。

思春期の頃は日本とブラジルで離れ離れに暮らし、再会した父親とは2週間しか一緒にいなかったという。水野龍がブラジルに戻って一年ほどで亡くなってしまったせいもあるが、父親不在の間、家族が嘗めた苦労を思うとそう素直に再会を喜べなかったのかもしれないと思う。

長じて事業を興したRZさんは、一時期大成功をおさめるが、仲間の裏切りにあってうまくいかなくなった。その欺かれ方に、父親と共通する自分の性格 を感じたそうだ。そうして77歳になり、振り返ってみると自分がどうやらいつのまにか父親と同じような価値観を持ってこれまで生きてきたことに気づいたと いうことだ。

もちろん今、RZさんにとって父親は大切な存在で、移民百年で改めて脚光を浴びようとしていることを喜んでいる。

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ブラジル国、ニッポン村だより

出稼ぎにまつわる話

2008年にちょうど100年になるブラジル日本移民史を、まずおおざっぱに頭に入れるために知っておいてよい数字は、約25万、約150万のふたつだろうか。

約25万というのはブラジルに移民した日本人の総数だ。戦前と戦後に分けると約19万人と約6万人ということになる。

約150万というのも人の数で、こちらは現在ブラジルにいる日系人の人口ということになっている。ということになっているというのは、しっかりとし た調査が行われていないからだ。150万人というのは日本で言えば山口県の人口に匹敵するが、ブラジル総人口の1パーセントにも満たない。ちなみに今もっ とも世代の進んだ日系人は、6世の少年だとされている。

そのほか最近よく話題になる数字に、約30万―これも人数である―というのがある。「出稼ぎ」に行って日本にいる日系ブラジル人の数である。移民としてブラジルに渡った数をはるかに上回る人数が現在日本で働いています、というのは近頃よく耳にする表現だ。

見た目は日本人と変わらないのに生活様式はすっかりブラジル式の日系ブラジル人たちと日本人との間には軋轢も生じる。ひとつの地区にどんどん集まる 日系ブラジル人に不安を感じる日本人もいる。そんなことから対立や騒ぎが起きることも珍しくない。何しろ30万人いるのだから犯罪も起きる。メディアはと くにそのなかから凶悪事件や事故に焦点を当て、日系ブラジル人の犯罪として報道する。出稼ぎ現象は、ブラジルと日本にとって大きな問題となっている。

一方、当然のことだが、一家で海外に引っ越したり、家族が長期間ばらばらに暮らす出稼ぎは、ひとつの家族にとって家族史上の大事件である。新聞記事 になるようなものではないが、出稼ぎにまつわるエピソードも、家族それぞれに持っている。残念な話もあるが、いい話もある。これから紹介したいのは、 ちょっとしたドラマのような話である。

KAさんには、定年したらすぐやろうと考えていたことがあった。日本に行き、行方不明になった息子を探すことだ。

10年ほど前、KAさんと息子はふたりで日本に出稼ぎに行った。何年かして、さあブラジルに戻ろうかというときになって、ほかの町を見がてらもうひと稼ぎして帰りたいと言い出して息子だけ日本に残ることになった。

出稼ぎで日本にいる日系ブラジル人の間には、今どこでどのような条件の仕事があるという情報交換のネットワークがある。そのネットワークで得た情報 を頼ってより好条件の職場に移る人も多い。ブラジルに戻り、故郷の田舎町で新しい商売をはじめたKAさんは、あるとき息子から西日本のある町に移るという 知らせを受け取った。そこでいい仕事が見つかりそうだと。

その知らせを最後に息子からの音信は途絶えた。半年たち、1年、2年たち、便りが無いのがいい知らせなどと暢気なことは言っていられない年月がた ち、知り合いに連絡をとって消息を尋ねもしたが手がかりすら得られなかった。おそらく前の仕事を辞め、次の仕事が決まる前に何かあったのだ。身一つで日本 にいるということはそういうことだった。日本がどんなに狭かろうが、はじめての町で、仲間ができる前に事件にでも巻き込まれてしまえば、人間一人の痕跡な ど容易に消えてなくなる。

裏社会とつながりのある事件に巻き込まれてしまったのではないか。KAさんの周囲の人はそう考えるようになっていた。ありえない話ではない。KAさんはその話を聞き流したが、月日はさらにたち、とうとうKAさんの奥さんがその話を受け容れ、そのときから病気がちになった。

KAさんにもそれほど強い信念があったわけではなかった。息子が生きている可能性は高くないかも知れない。それでも定年して時間ができたら、とにかく一度日本へ息子を探しに行くことに決めていた。

10年たった。元気でいれば息子は30歳を越えている。KAさんの定年もそう遠くない。

州都からKAさんの田舎町まではバスで約7時間。長距離バスの発着場は、KAさんの家から歩いて10分ほどのところにある。

ある日、町で用事を済ませたKAさんは、発着場の横を通って家に向かった。州都から着いたばかりのバスから乗客が降りるのが遠目に見えた。再会を抱 き合って喜ぶ人たちがいる。ありふれた光景だ。日本から帰ったばかりの青年が降りてくる。そういうのは服装をみれば一目瞭然だ。

発着場のところから家のある住宅街に向けて歩き出すと、さっきバスから降りた出稼ぎ帰りらしい青年が後ろからやってくるのに気がついた。出迎えはな かったらしい、というよりそもそもこの町に馴染みが無い様子であちこち風景を確かめるようにして歩いている。KAさんと似たような歩みで、どうやら同じ方 向を目指しているらしい。KAさんは、近づいていって「どちらに行かれるのですか」と尋ねてみた。その青年の答えは、「この辺に私の家があったと思うので すが」という奇妙なものだった。

「そうやってすぐ側で話しているのに私には息子がわからなかったんだ。でもあっちも同じ。息子のほうも親父だとわからなかった」その青年が探しているという家に行ってみたら自分の家だった、というのがこの話のオチである。

KAさんの息子は、新しく暮らし始めた町の近くで、知り合ったばかりの仲間の車で事故を起こした。ふた昔前のサスペンス小説のような話になるが、頭 を強打したせいで記憶喪失となり、怪我は治ったものの自分の身元は思い出せないまま日本で仕事について暮らすようになったのだという。それでも時間がたつ と、少しずつ記憶が戻ってきた。そうしてどうにかこうにか故郷の町のたどりつけそうな気になったところで休暇をとり、ここまでたどりついたのだった。

KAさんは、この話をいろんな人に、もう何度もしたに違いない。いつもこんな風にしみじみと満ち足りた表情で語っているのだろうと思わせる話しぶりだ。

日本では責任を持たされた仕事をしているという息子は、わずか2週間たらずでまた日本に戻った。

もちろんKAさんは、定年したらすぐ息子のところへ遊びに行くつもりだ。

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ブラジル国、ニッポン村だより

2008年正月 三番叟の復活上演

ここまで何回かにわたって、ブラジルのある町の歴史にかんする話題を取り上げてきた。
原野に突如日本人移住地として現れたこの町は、今年、開拓からひとつの区切りになる年を迎える。ひとつの町の歴史としては長いとはいえない、ちょうど人が 平均的に生きる程度の年月というところだろうか。記念の年を、その歴史の最初から立ち会っている移民一世、その子供たち、その子供たち、その子供たち、つ まりおそらく四世あたりまでを含め、日系人皆でお祝いしようとさまざまな計画が立てられている。

2008年のお正月、その最初の催しとして「三番叟」の復活上演が行われ、大成功を収めたという知らせが届いた。今では町の人口の8割を占めることになったブラジル人にも大好評だったといい、翌日、舞台を提供した文化協会の役員は現地の新聞の取材に追われたそうだ。

[inline:sanbasou.jpg]

私の手元に、その舞台の写真がある。後述するある経緯から、三番叟鈴は私が日本から取り寄せて贈ったものだったが、その装束の本格的なことに驚い た。もち ろん自作である。無いものがあると、さてどこに行けば売っているかな、という発想をするのが普通になっていた私にとって、無いものはあるものを工夫して創 り出すという町の人たちの発想は常に新鮮だったが、装束?それは私が作るから、と事もなげに言った二人の舞手の言葉に、どこまで期待してよいのだろうとい う思いが実はずっとあった。インターネットを駆使して三番叟の舞台の画像を見ている姿など想像できないから、ふたりはずっと以前に教わった三番叟の記憶を 手繰り寄せ、つき合わせながら柄を決め、布地はいろんなものを流用してこれを作り上げたのだ。舞台を見ることはかなわなかったが、ブラジル人をも揺さぶる ものだったというのだし、きっと素晴らしい出来だったに違いない。写真とは言えこの見事な装束を見るとそんな思いになる。

日本人移民は、苦労もしたが、生活にまったく愉しみがなかったわけではもちろんない。野球のことはすでに書いたが、芝居もずいぶんあちこちで盛ん に行われている。戦後の一時期まで日本各地で普通に見られた村芝居の世界を、ブラジルに移民してきた日本人たちも同じように作り上げた。素人芝居だけでは なく、それを職業とする旅回りの一座があったところも日本と変わりない。

そんな旅回りの一座に、サンパウロ州の農村部を中心に活動する人気劇団があった。主宰は日本生まれの一人の女性である。幼少期に家を出て旅回りの一 座に身を投じ、憎まれ役として看板女優となったが結婚して引退、所帯をもった相手を口説いて家族でブラジルに渡ってきたが、不運にもご亭主は体を壊して働 けなくなり、一家を食わせていくために、昔とった杵柄ということでまた芝居に戻ったのだった。娘や息子を団員に、一座を旗あげした。

ちょうど各地に日本人集団地が勃々と出現する時期であり、芝居の注文はたくさんあった。ひとりだけとはいえ玄人のいる芝居である。見よう見まねの素 人の舞台とは一味違っていたのだろう。当初出し物は歌舞伎であった。三味線や太夫もちゃんと揃えた。サンパウロ州奥地のあちこち、にわか作りの舞台の上 で、例えば太閤記が、忠臣蔵が演じられていたかと思うと不思議な気持ちにならざるを得ない。三味線と浄瑠璃の音は、果てしなく広がるブラジルの土地で、ど こまで響いていったのだろうか。

三番叟のふたりの舞手は、この一座の役者であった。人気旅回り一座が日本人移住地に拠点をおいていたことで、戦後しばらくたって芝居というもの自体 の人気が落ち、主宰の女性も亡くなって一座が消滅したとき、そこがそのまま棲家となった。以後、ふたりはそこで踊りの師匠として暮らしてきた。ふたりが指 導する町の婦人会の踊りは評判で、あちこちのイベントに招待されている。

一座に関心をもち、いろんな話をうかがっているうち、話題になったのが三番叟だった。日本の民俗芸能の流れを汲んでいたと思われる、主宰の女性が日本で所属していた旅回りの一座では、必ず三番叟が最初の出し物だった。ふたりはその三番叟を仕込まれていた。

もう何十年もやっていないけれど、体が覚えているだろうからやろうと思えばできるだろう、開拓記念の年も近いから復活上演というのもいい趣向だ、や るなら装束は自分達で用意するよという先ほどの話、鈴がいるけどブラジルには鳴りのいい鈴がないからこれだけは日本から取り寄せるか、などなど話が弾ん だ。調べてみたら三番叟鈴というものが売られているから私がプレゼントしますよ、だから必ず復活上演やってくださいということで鈴を贈ったのが2006年 の10月ごろだったから、一年ちょっとの準備だったことになる。とうとう実現し、しかも大当たりだったというからうれしい話だ。どこかで再演してもらって この眼で舞台をなんとしてもみなければ。

ひとつだけ心残りがある。おふたりは三番叟鈴も自作するつもりでイラストを描いていた。日本から製品を取り寄せる、などというのは無粋なことだったかもしれない。ブラジル製の三番叟鈴が見られる機会だったのに。

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