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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第15回 米國産業日報の編集長となるが……

前回、加藤新一が記者として所属していたロサンゼルスの日系新聞「羅府日米」をめぐるスト問題について簡単に触れたが、加藤が編集した「米國日系人百年史」のなかの「米国日系人の刊行物」のなかに、この点について詳しく書かれている。

それによると、実業家でもある安孫子久太郎はサンフランシスコで新聞「日米」を創刊し、ついでロサンゼルスにも進出を図り、「北米報知」(1915年発刊)を買収し、「羅府日米」を創刊した。

サンフランシスコの新聞「日米」では、安孫子久太郎社長と従業員側とが対立した結果、社長が編集部員に退社を求めた。これに対し従業員側は、退職者の復職や未払賃金の支払などを求めたが聞き入れられなかったため、ストライキに入った。

このとき、ロサンゼルスの「羅府日米」にいた加藤は、羅府日米の社員を代表し、いわば兄弟紙の「日米」の争議調停のため、同僚ひとりとともにサンフランシスコに出向いた。しかし、「日米社側が一応妥結案を承諾しながらも翌朝に至り寝返りを打ったため、社側に誠意なしとして直ちに羅府へ飛行機で帰り、従業員に報告」、そして加藤をはじめ幹部社員の三人は未払給料三ヵ月分の支払を受けて退社した。

自分が正しいことと思ったことは、実行に移すという加藤の性格を表わしているようなエピソードだが、同じようなことは戦後、加藤が中国新聞に記者として籍を置いていたときもあった。


「米國産業日報」で

「羅府日米」のあと1931年創刊の「加州毎日」の立ち上げとともに健筆をふるった加藤だが、本人によるプロフィールでは「1933年から南加中央農事会幹事、南加農会連盟支配人を勤め、その間朝の羅府農産物市況放送を創始」とある。加州毎日の記者の仕事をしばらく兼務していたようだ。

そして、農業関係の仕事の経験を生かしたのだろう、農家の支持を得て1937年からは「米国産業日報」という新聞の編集長に就任した。「米國日系人百年史」によれば、「同紙は、はじめ加藤が南加農会聯盟幹事としての傍らその週刊機関誌を発行していたのを、のち沼田利平その他の協力と、佐々木雅実らの有力者の後援下で「加州産業日報」という日刊紙として、1938年に改組、名を『米國産業日報』と改めたもので南加一円を地盤としていた」という。

ここに登場する沼田利平氏は、加藤と同じ広島の出身で、さらに戦後郷里広島で加藤と同じ中国新聞の記者となった。

米國産業日報は、「日刊紙のほとんどが夕刊(午後発行)であったのに対し、朝刊だったことも有利に作用し、日米開戦まで継続した」1

また、同紙は、羅府新報、加州毎日と並ぶ存在となり、購読料の値上げの際にも三紙合同で広告を紙面で掲載していた。


全米に広がる日系新聞

日米開戦前年の1940年の時点で、ロサンゼルスにはこの三紙のほか、週刊紙の「南加時報」があり、海岸地区のサンペドロ市では「南加沿岸時報」が発行されていた。中部カリフォルニアではフレスノ市に「中加時報」が、また州都サクラメントには「桜府日報」があった。

サンフランシスコ地方では、1899年創刊で全米に読者のある「日米」と、同じく広く読者を抱える「新世界朝日」があった。後者は、1935年に「新世界日日」と「北米朝日」が合併して誕生した。このほか週刊紙「太平洋時代」などがあった。

「米國日系人百年史」によれば、当時全米で日系の新聞は25紙発行されていた。

新聞社一覧。「米國日系人百年史」より作成

1940年に「全米日本人産業総覧」を編集した加藤は、この年一度日本へ戻った。昭和15(1940)年8月4日付の「日米」紙に、小さく「加藤新一氏 鎌倉丸 帰朝」という記事が載っている。ロサンゼルスの産業日報編集長の加藤が、妻と一緒に鎌倉丸で日本へ行き、四ヵ月滞在したのちアメリカに戻るので、その挨拶に日米社を訪問したとある。この記事の通り、戻ってきたと思われる加藤は、ひきつづき同紙の編集長をつとめた。

翌1941年5月21日付の加州毎日には、「米國産業日報社 創立七周年記念演藝會 一流の師匠總出の豪華版」の見出しで、三段の記事が掲載されている。

出演者の顔ぶれと、会のプログラムが載っているが、その一項目として 「在米同胞万歳 編輯長 加藤新一」とある。おそらく、加藤が編集長として万歳の音頭をとったのだろう。

まだ、このころは開戦の緊迫感はそれほどなかったのかもしれない。しかし、紙面のトップは「米國よ参戦してくれ 英紙が公然泣き付く 武器や慰問袋では足らぬ」との見出しが踊っている。「ロンドン発のニュース」として、すでにドイツと戦っているイギリスの新聞が、社説で対独戦勝利のためアメリカに参戦を求めている、という記事である。

この約半年後、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、日系新聞の編集長という職にあった加藤は、アメリカ連邦捜査局によって身柄を拘束された。

(敬称一部略)

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注釈
1. 「アメリカの日系新聞」(春原昭彦、『ソフィア:西洋文化ならびに東西文化交流の研究』28(4)1980-01-15) 

 

© 2021 Ryusuke Kawai

Beikoku Sangyō Nippō California Japanese Newspapers Journalist Los Angeles Shinichi Kato

Sobre esta série

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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