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ENTREVISTA: Emi Meyer, Cantora e Compositora - Parte 1

シンガーソングライターのエミ・マイヤーさんは、京都生まれ、シアトル育ち。デビュー10周年を迎えた今年は、7月にシアトルで約7年ぶりとなる凱旋公演を行いました。妊娠、出産を経てカムバックしたエミさんに、これまでのこと、これからのことをじっくり語ってもらいました。

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人との出会いが 新しい世界への扉

シアトルで過ごした日々
エミさんが生まれたのは、ワシントン大学大学院で美術史研究をしていた母親が、1年だけのフルブライト奨学金プログラムで京都に滞在していた時のことだ。「だから、シアトルには本当に生まれてすぐ帰って来たんです。最初はバラードに住んでいて、バラード・ロックスがすごく好きだったのを覚えています。散歩をして、公園で土遊びをしたり草で遊んだり。そんなバラードでの自然との思い出が、シアトルでの最初の記憶ですね」

シアトル・アジア美術館に勤める父親の影響で、絵を描くことも好きだったというエミさん。家族3人での旅行ではいつも、父親と同じテーマで一緒に絵を描いていた。「クリスマスや正月は日本で過ごし、スペインやイタリアにも行きました。10歳頃の私の絵って最高なんですよ。自由で、描き方とか全然気にしてない。子どもってすごいなあって感心します。シアトルでは、いろんなアート・クラスを受講しました。完全に趣味だからプレッシャーもなく、思いのまま楽しんでいました」


︎現地校、補習校に通いながら、シアトル生活を満喫する6歳の頃
ピアノを習い始めたのは6歳の時。ベルビューでレッスンを受けていた。「先生はもう亡くなってしまったんですが、私にとってはおばあちゃんみたいな方。こうしなさいとか、ああしなさいとかではなく、自分らしさを引き出してくれる先生でした。大好きなのはドビュッシー。曲がすごくカラフルなんです。夢中になって弾いていました」

平日は現地校に行き、土曜日だけシアトル日本語補習学校に通っていた。エミさんは、現地校での自分と補習校での自分では、性格が違うと感じていたと告白する。「補習校にはハーフやミックスの仲間がいたので、あまり緊張することもなく、社交的に振る舞えたんです。だけど現地校では、ほかの子たちがすごく強くて、私はシャイになっていた。誰とでも仲良くはできても、本当の仲間っていうのがいなかったように思います」

自分の居場所がよくわからないまま、ずっと「私ってふたりいるのかな」と、違和感を持ち続けていたエミさん。その「ふたりの自分」を統一する役目を果たしたのがピアノだった。ピアノを弾く間は、どんな人にならなきゃいけないのか、何を言いたいのか、そういう問題が全部消えて、ピアノに集中できた。また、そのパフォーマンスは、現地校でも補習校でも評判となる。

ピアノの前に座っていれば、
自分の居場所があると感じられた

ピアノを弾き始めた5歳当時のエミさん
「ピアノがあれば、自分をカッコ良く見せるとか、もっとアウトゴーイングにならなきゃとか考えなくても、みんなに受け入れてもらえる。こういう風に人と触れ合えるんだって。それが、私の音楽との関係でした。ピアノの前に座っていれば、自分の居場所があると感じられたんです」。エミさんは音楽を通して、自身のアイデンティティーを見出してきた。「日本人なのか、アメリカ人なのか、白人なのか、アジアン・アメリカンなのか、それとも移民なのか。そういう部分ではなく、ミュージシャンとして、アイデンティティーを確立してきたように思います」

大切な人たちとの出会い
「自分がいちばん落ち着くのは、ミュージシャンの仲間に囲まれている時。音楽の話をしながら絆を深めていきます」。実家のピアノはスタインウェイで、幼い頃に初めて触れた恩師のピアノと同じ。子どもの頃からずっとなじんできた音だ。生で弾く時は特に、スタインウェイに手が伸びる。「先生のことを思い出すこともあります」

初めはアップライトピアノだったが、「真剣にピアノをやるならグランドピアノを」という話になった時、たまたま近所に住む男性から、弾かないまま家に置いてあるというピアノを譲ってもらえることに。「高価なものですから、親にはきっと負担だったと思います。ピアノに夢中になっている娘の才能を信じ、成長をサポートしたい、そう思ってくれたんだと。本当にありがたいです」


︎お気に入りのぬいぐるみと共に
子どもの頃から、ジャズのトランペット奏者を父に持つ幼なじみから、ジャズのカセットテープをいっぱいもらっていた。「セロニアス・モンクとか、マイルス・デイビスとか。ずっと聴いてなくて溜まる一方だったんですけど、中学生の時、友人からジャズバンドに誘われて、ようやくテープを聴き始めました。それまで全然興味がなかったのに、気に入ったものなんかはすごくハマってしまって、繰り返し聴きました。それで、幼なじみのお父さんに、ジャズについていろいろ教えてもらうようになりました」。それからは高校卒業まで毎年、ポートタウンゼンドで行われるジャズのワークショップ・キャンプに参加した。7月のシアトル公演で一緒にステージに立っていたバンドメンバーも今、そのキャンプで教えているそう。

パイクプレイス・マーケット内のイタリアン・レストラン、ピンクドアなどで、ジャズやクラシックのピアノ演奏をするアルバイトを始めたエミさん。曲も書き始め、アルバイト中にちょこちょこ自分の曲を混ぜることもあった。「レストランのBGMなんて、誰もあまり聴いてないですしね(笑)」。そして、歌い始めて1年くらいの頃、大学でロサンゼルスに移ったエミさんの元に、補習校の幼なじみのお母さんから連絡が入る。「今度、こういうコンテストがシアトルであるんだけど、帰って来て出てみない?」と勧めてくれたのが、シアトル—神戸ジャズ・ボーカリスト・コンペティションだった。「そのお母さんは、本当に初期の、まだボロの機材を使っていたような頃のライブから来てくれていた方で。それでダメ元で出てみました」。ここでの優勝が、シンガーになるきっかけになった。エミさんが18歳の時のことだ。

シアトル育ちのせいか、
緑や自然が目に入ってくる

また、大学時代に出会った親友は、ロサンゼルス育ちで音楽業界に詳しかった。その親友に、大学の寮で弾き語りの曲を聴いてもらったことがある。自分で作った曲だと言い出せなかったエミさんは、「友だちの曲」とごまかしたが、その親友に「エミが書いた曲でしょう?」と指摘されてしまう。「お見通しでした(笑)。ほかの人の前でも歌うべきって、背中を押してくれたんです。せっかく作ったものを独り占めにするより、人の前で聴いてもらうのがアーティストだって」。その親友は早速、エミさんのためにスタジオを予約してくれた。そこで、4曲だけのEP盤を自主制作。デビュー作の「キュリアス・クリーチャー」の前の話で、まだ世に出たことはない。「 全部が手作り。『マグノリアス』というCDです。父が育ったニュージャージーの家では、窓の外にマグノリアの木が見えました。その木をイメージした曲。シアトル育ちのせいか、緑や自然が目に入ってくるんです。実家のピアノも窓に囲まれていました。だから、歌いながら見たり感じたりしていた木や枝、葉、風など、植物を歌うことが得意なのかも」

人との出会いが人生でいちばん大事と語るエミさん。「別の新しい世界への扉。出会いによって道が決まり、人を通して今まで知らなかった世界に招かれる。自分にとって大事な人が世界をシェアしてくれて、自分の力ではできないことができる、わからなかったことがわかる、嫌いと思ったことが好きになる。幼なじみのお父さんやお母さん、大学時代の友人、その人たちに出会わなかったら、今の私はいない。人との出会いは、今もとても大事です」

出会いによって道が決まり、
人を通して今まで知らなかった世界に招かれる

7月26日、シアトル美術館主催のワールド・ミュージック・シリーズにてボランティア・パークで無料ライブを開催。ニューアルバムからの楽曲や、代表曲「オン・ザ・ロード」などを披露。ニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」もカバーし、会場を沸かせた。ライブ映像はオンラインでも観られる
ボランティア・パークでのライブ
今回のシアトル公演は、直前にシアトル入りすることになっていた。「どういう風にバンドメンバーを組めば良いか、かなり悩みました。日本から連れて来る予算もないし、どうすればシアトルに溶け込めるライブができるのかなと」。シアトルで活動するジャズ・ミュージシャンがベストだと思い付いたエミさんは、普段からピアノを習っていて、よく相談しているビル・アンシェルさんに、出演するミュージシャンを選んでもらった。偶然にも、メンバーはみんな、シアトル生まれのシアトル育ち。「今回のイベントには本当に良かった。ビルさんはとてもマメな人で、私が来る前にバンドメンバーとリハーサルして、曲をさらってくれて。その音源を日本に送ってくれたので、私もそれを聴きながら調整できたんです。ミュージシャンは、そういう事務的な作業ができる人とできない人がいますが、彼はそれがすごく得意な人」

エミさんがメンバー選びの際、大事にしているのは、ライブ経験と性格の相性。日本のバンドを引き連れて行くというより、地元ミュージシャンとライブを作り上げるほうを好む。「言語のギャップがあると、うまくステージからコミュニケーションが取れないことがあります。たとえば、韓国でのライブで韓国語を話せるミュージシャンがいたら、私のMCを通訳してもらえれば、お客さんとの距離感がぐっと近くなる」。基本的にミュージシャン同士は英語でのやり取りとなるが、エミさんは言葉より音楽でコミュニケーションしているように感じるそう。「音楽の相性が良ければ、お互いの相性も合うんです」

そうして集まったメンバーでの初ライブ。本番中は、テンポがずれてやり直すというハプニングもあった。「正直、探りながらのぶっつけ本番的な要素がありましたが、そういうのも含めてセッション的なライブと割り切っていました。一瞬ヒヤっとするんですけどね(笑)。でも、シアトルのお客さんって優しいんですよ。メンバーはみんな、大勢の聴衆を目の前にして、かなり喜んでいたみたい。あとからライブ音源を聴いても、演者側が生き生きと楽しんでいる様子が伝わってきました」

2011、2012年のシアトル公演は、ファーストヒルにあるソレント・ホテルで行われた。レトロな雰囲気を持つホテルの暖炉脇で、カクテル片手に聴ける無料ライブ。「ホテル改装後はライブができなくなって残念。かなり間が空いてしまい、久々のシアトル公演だったので、どんなお客さんが来てくれるか、わからない部分がありました」。しかし、蓋を開けてみてびっくりだったそう。会場は老若男女であふれ、シアトルにいた頃の幼なじみたちも家族で集まってくれた。「みんなが親になっていて、不思議な感じでした。現地スタッフから『今までのボランティア・パークのライブでいちばんダイバース(多様)』という声も聞けて。すごくうれしかったです」


アットホームなライブでは、観客席の子どもたちがエミさんの歌声につられて踊り出すひとコマも。エミさんにとってうれしいサプライズとなった
10年目の今
10年の活動を通して、エミさんが最近思うのは「近道はない」ということ。今はネットで火が点いて一気に売れることもあるが、当時はメジャーレーベルからデビューしてこそ初めて売れる時代。「私の場合、大きいレーベルのサポートもなく、売りやすい音楽を作っているわけでもない。日本で英語の曲を歌っているのも、ちょっと謎じゃないですか。でも、10年前に華々しくメジャーデビューした子も今、私と同じような場所にいて、同じように悩んでいる。デビュー当時の苦しんでいた自分に言ってあげたい。『10年かけて、ここにたどり着けるんだよ』って」

エミさんのように、自分でミュージシャンを雇って自分のアルバムの原盤を作るミュージシャンは、当時の日本にはあまりいなかった。そうした「DIYメンタリティー」が、いかにもシアトルっぽいとエミさんは笑う。「レーベルにサポートされていると、どうしても他人のああしろ、こうしろっていうのを取り入れなければいけなくなる。世界に出す第1歩は、ピュアに自分の作り出す音で、というこだわりが強かった。自分の音楽性を守りたかったんです。次は日本語にしてみよう、なんて自由にチャレンジする中で、アーティストとしてのアイデンティティーを発見してきたところもある」

エミ・マイヤーというアイデンティティー
日本で生まれ、アメリカで育ったエミさんに、アジアン・アメリカンという自覚はない。母親と日本からやって来たこともあり、むしろ移民という意識のほうが強かった。ところが、アメリカのメディアではアジアン・アメリカンのジャズシンガーとして扱われるため、「私って何なの?」と感じることも、たびたびあったそう。大学時代、アジアン・アメリカンやミックスのクラブに入ってみても、やはりそれぞれが全然違う経験をしていてピンと来ない。「別にここに居場所がなくても良いかな、なんて。ところが今度は音楽でも、ジャズにもポップスにも入らない、エスニックでもないし……って。だからもう仕方ない!と(笑)」。自分が好きな人と付き合い、自分が好きな仲間と一緒に、自分が好きな音楽を自分のお金でリリースして、それを認めてくれるファンがいればいい。そう思うようになったエミさんは、言葉で自分の音楽やアイデンティティーを自分から表現するというよりも、どういう友人が自分を認めてくれて、どういうファンが自分の音楽を聴いてくれるのかが大事と、今は自分の内側よりも、外へと目が向いている。

私の音楽を聴いてくれるファンや友人たちに私の言葉が響いていると思うと、自分のアイデンティティーがはっきりわからなくても、うまくいってるんだなって感じる

バンドメンバーをコーディネートしてくれたベテラン・ジャズピアニストのビルさん(左端)
「最初のアルバムでは、 自分のアイデンティティーを探りながらで、中へ中へと意識が向いていました。でも、私はこういう人間だと訴えたところで、人は見たいように人を見るものだから意味がない。私の音楽を聴いてくれるファンや友人たちに私の言葉が響いていると思うと、自分のアイデンティティーがはっきりわからなくても、うまくいってるんだなって感じる。そのうち、それを超えて『私はこういう人なんだ』と気付く日が来るような気もしています」

娘が誕生したことで、娘自身やアイデンティティーも大事にしなければならない。どういう風に守って、うまく背中を押してあげられるのかと、娘を思いやる母親の一面も覗く。「母親になって、角が取れて優しくなったってよく言われます。もともとギザギザしていたわけじゃないんですけれど(笑)」

母として、アーティストとして
自分ひとりの時は、私はこうしたい、あの人がこう言ったと、いろいろ気にしていたエミさんだったが、娘が生まれてから、そういうことが全然気にならなくなったと明かす。「意識が自分ではなく、次の世代に移ってしまったような感じ。それで楽になりました」

子育てをしながらアルバム制作やツアーができることは本当にラッキーだったとも。仕事と育児の両立は大変だが、音楽にもプラスになっていると感じている。「ピアノの練習中でも、ライブの準備でステージにいても、娘はママを求める。そんな時に仕事が優先とは言いたくない。本番中以外、家で娘と一緒にいる時には、娘が第一。ピアノと競争していると感じて欲しくない。長時間の作業ができない分、短時間で集中して時間をうまく使えるようにしたい」

以前は歌詞を間違えたらどうしようと、ステージのたびに緊張していたが、今はそれほどでもない。それも、母親になってからの変化のひとつだ。「ステージ直前でもオムツ替えしてますからね。緊張どころじゃない(笑)。そういう意味で、地に足がついたような気がします。そして、全ての女性に対して尊敬の思いが強くなりました。母を含め、何世代にもわたり、女性たちが大変な思いをして子どもを産み、育ててくれたんだなって。忙しい中で合間を縫ってコンサートに来てくれるファンの人たちにも感謝の気持ちでいっぱいです。人の時間の大切さに敏感になりました」

6月に日本でリリースされたアルバム「ウイングス」は、妊娠中にナッシュビルでレコーディングしたもの。収録曲の「オリジナル」と「ナッシュビル・ララバイ」は、まだ見ぬ娘のために、自分らしく育って欲しいという気持ちで書いた。「この子が生まれ持つ自由な部分、ピュアな部分をどうやってサポートしてあげられるかなって。『ナッシュビル・ララバイ』は、ちょうど耳ができる時期と聞いて、お腹の赤ちゃんにこれが最初に聴いた音なんだよって語りかけるような、記念の意味もありました」

2009年から毎年アルバムを出す中で、「フィジカルなアルバムはこれで最後かもしれない」とエミさんは感じている。ほとんどがMP3の時代、アナログ・レコードが好きなマネジャーの頑張りもあって、10月に「ウイングス」のシングルカットがアナログ盤でリリースされた。レコードでは、圧縮されない音の暖かさや色鮮やかさ、立体感が全部聴こえる。ミュージシャンとしては、そういう形で聴いてもらえるのは本当にうれしいことだと言う。「これからまた地道に曲を作って、どういう形でアルバムを出そうか考えています。来年か再来年か、またシアトルでライブもしたい!」

ニューアルバム ウイングス Curious Creature Records
6月12日に日本でリリース。アメリカ南部、「ミュージック・シティー」とも言われるナッシュビルで制作された。テイラー・スウィフトやジョン・メイヤー、ベックなど数多くの著名ミュージシャンがレコーディングに使用した、ブラックバード・スタジオで録音。優しさと希望に満ちたポジティブな曲が多数収録されている。Spotifyなどでも配信。2020年にアメリカでもリリース予定。

エミ・マイヤー(Emi Meyer)■日米で活動するシンガーソングライター。日本人の母親とアメリカ人の父親の間に生まれる。2007年にシアトル―神戸ジャズ・ボーカリスト・コンペティションで優勝。デビューアルバム「キュリアス・クリーチャー」は iTunes Storeのジャズ部門で年間ベスト・ニュー・アーティストに選出。これまで、日本コカ・コーラの爽健美茶やトヨタのプリウスなど、さまざまなCMに楽曲が起用されている。Amazonとのコラボによるクリスマスソング「Everything This Christmas」もオンラインで配信中。今年は4年ぶりのニューアルバム「ウイングス」をリリース。https://emimeyer.jp

 

© 2020 Hitomi Kato / Soy Source / The North American Post

Emi Meyer identidade música pianistas cantores e compositores
About the Author

Nasceu em Tóquio. Graduado pela Universidade Waseda, Faculdade de Letras. Mestre em Artes em Estudos de Cinema e Mídia, City University of New York. Em 2011, mudei-me para Seattle devido à minha experiência como ex-barista. Depois de trabalhar como membro da equipe editorial da North America Hochisha , ele atualmente trabalha como escritor freelance. Eu moro a uma curta distância de ferry de Seattle. Suas habilidades especiais são tricô e dança de salão. Gosto de roupas, fotografia, café e livros.

(Atualizado em maio de 2021)

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