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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(1)

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またもや受け入れ準備不完全なまま、陸軍は「集合所」から人里はなれた内陸部にある「転住所」に日系人を移動させることを決行。ピュアラップ仮収容所から、普段使われていない古い車両で、2日間、窓のシェードを下ろしたまま、硬い座席に座って煤だらけになり、ようやくミニドカについた日系人を迎えたのは、見渡す限りの砂漠と砂嵐。1

カリフォルニア州マンザナー強制収容所での砂嵐
(写真:ドロシア・ラング、アメリカ国立公文書記録管理局)

それと、1942年9月10日付けキャンプ内新聞、ミニドカ・イリゲーター創刊号に掲載されたこの言葉でした。

我々がここにいるのは自らの意志によってではない。しかし抵抗によって、ここにいるという事実を変えることも、戦勝するまでい続けるであろうという可能性を消すことも、できるわけではない。我々一万の民が意を決するべきことは一つである。力を合わせ全力をもって、この不毛の地を住みよい共同体に生まれ変わらせることである。我々が自らに課した責務は、この異常な状況から可能な限り尋常な状況を絞り出すことである。オアシスを創ることが我々の目標なのである。「大地や自然と闘ったパイオニア達の偉業を再びここに実現する」ことが我々の大きな冒険なのである。

我々の未来は我々自身の手にかかっているのであり、絶望する必要など全くないのである。2

* * * * *

見渡す限りの不毛の地で、セージブラシュが突風にふかれ丸くなって地面にへばりついている。3生きているものといえば、セージブラシュとヘビやさそりなど砂漠に住む動物のみ。湿地帯にあるローワーとジェロームではダニと蚊の大群。夏は摂氏45度近くまで、冬は零下30度近くになる苛酷な気候。内陸部のワイオミング、アイダホ、カリフォルニア、ユタ、コロラド、アリゾナ、アーカンソー各州の10カ所に瞬く間に、収容人口1万人をこす「急ごしらえの人口の市」が現れたのです。

転住所の地図(筆者作成)

戦時転住局(WRA)が管理にあたり、キャンプ内には学校、病院、図書館、消防署、警察、郵便局……と、一般の市行政と同じような仕組みです。仮収容所の時と同じく、キャンプ内運営は日系人にまかされていて、選挙で役員を選んだ自治組織も発足し、消費組合も作られ、そのなかには売店、花屋、靴修理店、クリーニング店、時計修理店、理髪店、美容院、ラジオ修理店、通信販売サービス、眼鏡店、なんと鮮魚店までありました。

マンザナーには「子どもの村」という孤児院もあり、100人近い子どもたちが一緒に生活していました。ロサンゼルスやサンフランシスコの孤児院にいた子どもたちに、親をFBI(アメリカ連邦捜査局)につれていかれ孤児になった子どもたちも、事情があって親が育てることのできない収容所生まれの子どもが加わっています。子どもたちは、キャンプ内の学校にも通い、子どもの村以外の友だちもたくさんいましたが、院長のリリアン・マツモトが子どもたちと約束していたことは、「食事は必ずここで一緒に」だったそうです。4

  転住所 開所日 閉所日 最高収容者数
ワイオミング州  ハートマウンテン 1942年 8月12日 1945年11月10日 10,767 
アイダホ州  ミニドカ 1942年 8月10日 1945年10月28日  9,397 
カリフォルニア州   マンザナー 1942年 6月 1日 1945年11月21日  10,045 
 ツールレイク 1942年 5月27日 1946年 3月20日 18,789 
ユタ州  トパーズ
(セントラル・ユタ)
1942年 9月11日 1945年10月31日 8,130 
コロラド州  アマチ
(グラナダ)
1942年 8月27日 1945年10月31日 7,318 
アリゾナ州   ポストン
(コロラド・リバー)
1942年 5月 8日 1945年11月 8日 17,814 
 ヒラ・リバー
(ヒーラ)
1942年 7月20日 1945年 9月28日 13,348 
 アーカンソー州   ローワー 1942年 9月18日 1945年11月30日 8,475 
 ジェローム 1942年10月 6日 1944年 6月30日 8,497 
参考:http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/accmass_jp.html


1. 1942年

子どもたちの強制収容所———夏から秋にかけて

子どもたちの生活が生き生きとした筆致で綴られている、ベーコン・サカタニのエッセイを見つけたのは、ビル・マンボーによるハートマウンテン強制収容所の写真集でした。これは、当時使われはじめたばかりのコダクロームで撮った物で、カラー写真です。もう少し後でその中の一枚をご覧に入れますが、まずは、カリフォルニア州ポモナ仮収容所からワイオミング州、ハートマウンテンに向かう汽車の中で13歳の誕生日をむかえたベーコンに、子どもたちの日常を語ってもらいましょう。

部屋の広さは7人家族で6メートルx7メートル。裸電球一つ、石炭ストーブ、モップ、ほうき、バケツ。この部屋に七つの軍隊用簡易ベッドをいれると、ほかにはなにもいれられないほどの大きさです。まあ、食堂とトイレ、洗濯場に近かったのが幸いでした。

最初は家族一緒に食事をしていましたが、まもなく子どもたちだけのグループができ、子どもたちだけで食べるようになりました。朝起きて、顔を洗いに行き、食堂に寄り、ひとりで朝ご飯をたべるか、そこに友達がいれば一緒に食べました。末っ子だった僕の仕事は、部屋を掃いてモップをかけることと、ストーブのために石炭用バケツを一杯にしておくことでした。石炭はバラックの側に積んであったので、そこまで行って補充すればよかったんです。それが終われば、一日中友達と遊んでいました。

でも、有刺鉄線のフェンスの外には出られないので、食堂の裏で見つけたダンボール箱で盾をつくって、友達と泥団子の投げ合いをしたり、今や20ブロックもあり、人口一万人にもおよぶキャンプ内を隅々まで探検したりしました。僕たちのグループの一番下の子をちょっと乱暴にあつかったとき、その子の親が訴えて、警察署長にこっぴどく怒られたこともあります。幸いにも、この件は親には連絡されませんでした。

キャンプの周りに監視塔があったのですが、銃をもった見張りは、大きなサーチライトと共に夜だけ立っていました。初秋になると早くも雪になり、僕たちは材木の切れ端を集めて、そりをつくりました。このへんで唯一の丘で、でもフェンスのちょっと外にあるんですが、そり遊びをしました。子どもたちで一杯でしたよ。何年もあとになって聞いたんですが、ある日、その丘で32人の子どもたちがそり遊びをしているところに陸軍の警察がやってきて、キャンプの外に出た罪で引っ張って行ったとのことでした。こわかったでしょうね。でも、僕もその場にいたら、今頃武勇伝を話せていたのにと、ちょっぴり残念なような気も……。5

アリゾナ州ヒラ・リバー強制収容所についた9歳のジーンは、今まで見たことのない美しい砂漠の夜空に触れています。お兄さんたちは野外で星空を見上げながら寝ていたそうです。しかし、ジーンは狼、コヨーテ、ガラガラ蛇やサソリが怖かったので、外で寝ることはありませんでしたが、お兄さんのゴローといつも同じ岩山に登って夕日をながめたり、友だちと砂漠の探検に出かけています。

季節は9月、気候は温和であった。空はあくまでも澄み、見上げる夜空には、それまで見たこともないたくさんの星が輝いていた。星はカリファルニアで見るよりも大きく明るく、空の一角には、誰かがタルカムパウダーの粉をこぼしながら歩いたかのように、星が帯の形をつくっていた。6

次は、「後になって考えれば、わたしは自分で思っているより勇敢だったのね、いや、それともちょっと頭が……」と笑うタカヨ・ツボウチの冒険談です。いつかご主人が肺炎で入院なさっていた時、「ベッドの側で手持ちぶさただったので、あの日の思い出を書いてみたんです。いままで書いたことなんてなかったんですけど」とおっしゃっています。

「痛い、姉さん。そんなにひっぱらないで」髪の毛を引っ張られて、思わず声がでました。日溜まりで姉に三つ編みをしてもらっていた時のことです。わたしは、今日の出来事を姉に話はじめました。「怒らないでね、今日した冒険の話をするから。聞いてもらいた­いの、姉さんには。でも、お父さんとお母さんには内緒よ。姉さんが私のためにしかられるのはいやだから。今日は心配かけてごめんなさい。もう二度としないから。初めてだったのよ。本当よ」と、私は話し始めました。

すごくいいお天気だった。線路のそばにいたの。そしたら、汽車が通ったので、一番後ろの車両に乗った車掌さんに手をふったの。わたしもあの汽車にのって、あの汽車の窓から見えるものを見たいなぁと思ったわ。黒いタール紙に覆われたバラック以外のものを見たかったの。そう、よく気はつけていたのよ。だあれもいなかったから、有刺鉄線の下をくぐって、線路を横切って、しばらく歩いたの。なんにも見るものなんてなかった。なんにもきれいなものはなかった。芝生も、花も、木もなかったわ。あったのは長い、ほこりっぽい道だけ。太陽はぎんぎんに照りつけるし、本当に暑かった。遠くを見ると、道の先の方はキラキラ輝いて、湖のように見えたわ。のども乾くし、暑いし、疲れていたけど、もう少し行くと、何かきれいなものが見れるんじゃないかと思って、歩きつづけたの。そうしたら、埃っぽい細い道があって、向こうに小さな小屋と木と草、それに犬がみえたから、その細い道をたどって行ったの。犬は私を見るとしっぽをふってよろこんだわ。私のほうに走って来て、頭をなでさせてくれたの。犬を見たのはしばらくぶり。姉さん、家に残してきた犬のことを思い出してしまったわ。

その小屋はね、本当にちいさいの。ちいさい田舎のグローサリー・ストアなんだけど、だれがそこで買物をするんでしょうね。周りに、家なんてないんだもの。ハードウイックに居た時の離れよりもちょっと大きい位かな。姉さん、この店はわたしたちのバラックよりもひどいのよ。ゆかは土なの。店に入ると、壁板の隙間から暑い太陽の光線が射して。でも、中は暗くて、電球はないの。店主と奥さんと二人の子ども、私よりちょっと年下の男の子と女の子がいて、わたしのことを穴があくほど見つめていたわ。ちょっと怖かったけど、わたしみたいな子、東洋人の子を見たことがなかったんだと思う。ええ、わたしも黒人にあうのは初めてだったから、眼をまるくしてじっと見つめていたの。……長い間お互いに見つめ合っていたけど、ちょうどその時、店の人たちが微笑んでくれて、それで私も微笑み返したの。ここで何か買いたかったけど、お金を持ってなかった。ここの食べ物や飲み物は収容所の大食堂でたべるものより、ずっとおいしいだろうと思ったのよ。姉さん、あの人たちはすごくいい人だったわ。私にキャンディとソーダをくれたもの。本当においしかったわ。もちろん、ありがとうは言ったわ。話はあんまりしなかったけど、ただ見つめ合って、微笑んでいたの。あんまり長居はしなくて、すぐにお別れを言って、スキップしたり、歩いたり、走ったりしてキャンプの方に戻ってきたの。

あんまり嬉しかったから、今度は周りに注意していなかったみたい。キャンプに忍び込もうとしたときに、ジープに気がついたの。隠れようにも、道のそばに溝もないし、隠れる茂みもないし。その兵隊は銃をもって、怖そうだったけど、いい人だったの。有刺鉄線の下をくぐるのも手伝ってくれたわ。マシンガンを持って高い見張り小屋にいる怖い兵隊にだけは見つかりたくなかった。ねぇ、姉さん、心配しないで。わたしは大丈夫だったし、キャンプの外に出て、今日はとっても楽しかったの。7

第三章(2)>>

注釈:

1. ミニドカに着いたばかりのモニカ・ソネは、砂嵐のことを、コンクリートミキサー車のドラムに砂をいれてモーターで回転させた中にはいったようだったと説明しています。

2. 竹沢泰子著 「日系アメリカ人のエスニシティ———強制収容と補償運動による変遷」東京大学出版会 1994 The Minidoka Irrigator, Vol. I  No. 1, September 10, 1942.

実はもう一つ、日系人を迎えたものがあります。シアトル日本語学校長婦人の中河喜千代さんの残されたものに、ミニドカに着いたときのようすが書かれています。「……1942年の8月31日、もやのかかったうすら寒い朝だった。特別仕立ての汽車で……ミニドカには、翌日の午後、着いた。キャンプまで鉄道は通じていなかったので、途中でバスに乗りかえた。おどろいたのは、多くの白人が出迎えていたことである。不幸なわれわれを迎えてくれる人もいるものかと、心あたたまる第一印象であった。ところが、そうではなかった。まだ、日本人を見たことのない白人達は、われわれにツノでもはえているのではないかと、見物にやってきたのだという。米国の片田舎にありそうな話に、私たちは、大笑いさせられた。」排日の新聞の風刺画をみて、日本人にはツノがあると思ったのでしょう。このエピソードは伊藤一男著『アメリカ春秋八十年』に収められています。

3. 砂漠に生えている常緑低木の植物。山よもぎと訳されていることもあります。

4. Lindquist, C. Heather(ed). Children of Manzanar. Independence: Manzanar History Association, 2012.

5. Muller, Eric L(ed). Colors of Confinement: Rare Kodachrome Photographs of Japanese American Incarceration in World War II. Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2012.

6. ジーン・オオイシ著、染矢清一郎訳「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」岩波書店 1988

7. Takayo Tsubouchi Fischer, interview by Sharon Yamato, October 25, 2011, Densho Visual History Collection, Densho.

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第135号(2013年10月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

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Sobre esta série

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。