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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(5)

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2. 1944年

交換船で日本からの慰問品届く———早春

収容所内同胞への日本からの贈り物 
(ヘンリー・杉本画・和歌山市民図書館所蔵)

日米間の捕虜の交換船で懐かしい祖国の薫りが届きました。日本での「敵国在留同胞救援資金募集」で集まった資金で調達した物資が、赤十字経由で届いたのです。1 第一次交換船では緑茶が、第二次交換船では緑茶、味噌、醤油、薬品、娯楽品、書籍が届いています。シアトルの日本語学校の先生をしていたミニドカ収容所の吉武とみかの日記から——— 

二月一日  
二十度 [摂氏マイナス6度]。晴天。雪もとけて道の悪い事おびたたしい。然し、暖い事、春のやう。日中は七十度 [摂氏21度] を越した。夜、日本からの慰問品として、亀甲萬(当エリアに四百四十樽)をそれぞれ分配して頂き、一人あたり一パイント [約2カップ] と少しで、うちでは、一ギャロン一パイント [約4リットル] を頂だいした。今更乍ら祖国の有がたさをしみじみと感じた。祖国は今や未曹有の非常時に遭遇して居て、物資も無限に必要であらうのに、我々の事まで心にかけ、かくて多量の品をはるばると送り来り、直接、拝領したといふ事は、感謝惜くあたわざるものがある。三拝九拝して頂だいす。2

どんな薬品が届いたかは、3月25日付けハートマウンテン・センチネルに「太田胃散十六箱、タカヂアスターゼ百九十九壜、マキュリクロム百二壜」と懐かしい薬の名前があがっています。同じくハートマウンテン・センチネルの4月1日付けに「日本から在米同胞への慰問品着く」との見出し記事の中で、「娯楽品は将棋盤三面、同駒七組、碁盤四面、碁石七組、楽器類は尺八五管、明笛二管、ハーモニカ一個」とあり、書籍類はすべて検閲済みのもので、『大衆文学全集4、正木不如丘集』『宇野浩二集』『源氏物語』『新日本文学全集第九巻』『歎異抄』『十字架の救』等の文学書や、宗教書に、偉人伝や欧米式礼法などの教養や科学に関するもので、総数百冊余りとあります。3 多分、文学全集は各巻別々の収容所に行ったものと思われます。もう一つ嬉しかったのは、懐かしい故郷からの便り「赤十字通信」が交換船で届いたことです。母親からの便りを手にしたミニドカの小平尚道はこう記しています。

……一番嬉しかったのは母のズーズー弁丸出しの生き生きしたハガキだった。「尚ちゃん。元気でしか?今年の夏はしじしい」なんて書くので嬉しくなってしまう。母親のズーズー弁は素晴らしい。これを読んでいると、母の暖かい声が聞えてき、顔が見えてくる。そして「八月十四日の晩はとても良い月夜でした。月皎々照萬里海 母黙々想異郷児 噫知誰老母心中 只祈天帝汝至誠」と漢詩がかかれていた。4

戦争になると交戦国間の外交のルートは機能しなくなります。そんなとき表舞台にでることなく、苦しむ人々に寄り添ってくれた国際赤十字社、各国の赤十字社、各中立国の働きがあったことも忘れられません。アメリカ国内では、日本政府の依頼をうけて、在米スペイン領事が度々各収容所に足を運んで、日系人の話を聞き管理局との折衝にあたってもいました。


ヘンリーの選択

「アメリカにおける民主主義­­­­­———それが私に意味するもの」これがミニドカのハント高校2年生、ヘンリー・ミヤタケが公民のクラスをとった時の期末レポートの課題。公民のクラスではアメリカ合衆国の憲法や政府の仕組みについて学びます。一年の時に聞いたゴードン・ヒラバヤシの話(本シリーズ第三章)も心に残っているヘンリーは自分でもアメリカ合衆国の憲法と基本的人権を擁護する権利章典をていねいに読み込み、資料を集め、レポートを書きあげました。

キャンプに入れられたフラストレーションや僕たちに起こっていることで権利章典とにらみ合わせて、おかしいとおもわれることを、つらつらと13枚も書いたんです。ええ、もちろんトルーマン(下院非米活動)委員会のインチキ報告書(本シリーズ第三章)のことも、南部での黒人に対する扱いについても書きました。5

と語るヘンリーですが、公民の先生、ミス・アママンに呼び出されて、書き直さなければ受け取れないと言われます。悪いことに、その頃、学生の真面目に勉強する意欲がなくなっていることに苛立ちを感じていた学校側が、もし一科目でも落とせば、その学期の全科目を落第にするという、なんとも不可解な規則を作っていて、学生側はこの規則を変えさせようと運動していた時だったのです。このクラスを落とさなければ、卒業に必要な単位は全て取り終えていたヘンリーでしたが、断固として書き直すことはしませんでした。


シローと442連隊———春から秋にかけて

5月、シロー・カシノは日系二世だけで編成された部隊、第442連隊戦闘団の一員としてヨーロッパ戦線に出かけて行きました。イタリアでハワイからの二世の部隊、第100歩兵大隊と合流、まずイタリア戦線でドイツ軍、イタリア軍と戦い、その後、9月にフランスに。10月、フランス東部にある山岳地帯アルザス地方で、ドイツ軍に包囲されていたブリエラの街を攻略。なにしろ一帯は、山岳森林地帯であるため戦車も、上空からの援助も使えず、激戦を繰り返しながらの徒歩での戦い。死者、負傷者も多数出しながらの苦しい戦闘でした。

ブリエラ開放後も、町の東方の攻略を続けていた折り、10月24日には、テキサス大隊がボージュの森でドイツ軍に包囲され、孤立する事件が起こります。同じテキサス出身の連隊が救助を試みたものの失敗し、25日にルーズベルト大統領から直々に、第442連隊に「失われたテキサス大隊」救出命令が出されます。満足な休息もないまま、再び山岳森林地帯での厳しい戦闘を「当たって砕けろ」を合い言葉に4日間闘い抜き、ついにテキサス大隊を救助しますが、212名のテキサス兵を助けるために、日系連隊は216名の死者を出した上、600名の負傷者を出すことになりました。6

この間、手紙だけが、ルイーズとシローを結びつけていました。ルイーズはシローを元気づけるために毎日のように手紙を書いていましたが、たまに来るシローからの手紙は、戦線のことには何も触れず、書く内容にも注意していたのでしょう、検閲で消されていた箇所はなかったとルイーズは言います。シローはイタリア・フランス戦線で6回負傷していますが、病院にいる時はいつも赤十字の便せんで手紙が届くのでルイーズにはすぐ分かりました。シローはそんな時でも「あぁ、ちょっと鉄砲の弾があたったので休憩している。もうすぐ戦線にもどるさ」と明るく伝えてきます。

二人が知り合うきっかけとなったのは、なんと、ピュアラップ仮収容所でジム・アクツが始めたトレイ・サービス(本シリーズ第二章)で、ボランティアのルイーズが足指の手術をしたシローに食事を届けたのがきっかけだったそうです。7


まだ見ぬ土地で仕事を探す———晩秋

ハートマウンテンのビリーは、お父さんとお母さんと3人で小さなバラックに住んでいました。ちょうど、お母さんの実家、イタヤ家の人々が同じバラックの二軒先に住んでいたので、ビリーはみんなに可愛がられていました。イタヤ家の人々とビリーを一緒に撮った写真もたくさん残っています。それらの写真と比べてみて、ビリーにアイススケートのレッスンをしていたのは、おじさんのサミーではないかと思われますが、1943年の秋までには、そのサミーおじさんも兵役で、18歳になったユニスおばさんもシカゴで仕事をするために、収容所を出て行きました。イタヤ家のご両親、ジュンゾーとリヨのもとに残ったのは、ビリーの母親メアリーだけになりました。ビリーの父親、ビル・マンボーも妻子を残し、クリーブランドに仕事を探しに出かけています。11月、いずれ自分達だけになると考えたジュンゾーはニュージャージーにある冷凍食品会社、シーブルック社の面接を受けに出かけました。シーブルック社は戦争中から人手不足解消のため、収容所内の一世、二世を積極的にやとっていたのです。採用の通知を持って、ジュンゾーはリヨを迎えにハートマウンテンに帰って行きましたが、ジュンゾーの留守の間に、リヨは強度の精神的緊張からか、神経衰弱で長期療養が必要となっていました。ジュンゾーはリヨの側にいることにし、シーブルック社には断りの連絡をいれました。8


少年の冬 

子どもには不思議な力があるようです。トイレやシャワーに仕切りのないことも楽しんでいるようです。ベーコンの三度目の冬のレポートです。

男性用のトイレは便器と便器の間は2フィート[約60センチ]も離れていなかったし、仕切りもなかった。時には、ぼくたちは並んで用をたしながら「今日何しようか」と相談した。仕切りのないシャワーでは濡れたタオルの一方を持って、もう一方を裸の友達めがけて投げ、どれだけ相手の皮膚をひりひりいわせられるか、競い合ったりした。一度は、トイレットペーパーをもちだし、トイレットペーパーを巻いてタバコのようにすった。ひどい味だったので、二度としなかったけど。だれかの父親のパイプ用タバコを盗んできてもらって、それを巻いた方がよっぽどましだった。凍るほどさむい雪の降る夜中にトイレまで走って行くのはたいへんだったが、他の家とちがって我が家はおまるを置いていなかった。おまるを使っている家の人は、朝はやくおまるに布をかぶせてトイレまで足早に通っていたので、すぐ分かった。雪の日には雪の上に黄色の点があらわれた。9


西部沿岸立ち退き令解除、間近

12月17日に米国陸軍省は「来年1月2日から西部沿岸立ち退き令を解除する」と発表。これで、西海岸にある立ち退き前の家に帰れるのです。翌日、マイヤー転住局長官が1945年末までに全部の強制収容所を閉鎖するよう指示。

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注釈:

1. 中立国スイスの仲介で日米は捕虜交換のための交換船を2度出しています。第一次交換船は、1942年7月、日本側の浅間丸とコンテ・ヴェルデ号がアメリカからのグリップスホルム号と、ポルトガル領東アフリカ(モザンビーク)ロレンソ・マルケス港で乗客と積荷を交換しています。この時に野村・来栖両駐米大使はじめ商社員、銀行員とその家族、都留重人や鶴見俊輔、鶴見和子のような研究者や留学生、中南米からの引き上げ者をふくむ約1500人が日本に帰国しています。第2回目は日本の東亜丸とアメリカのグリップスホルム号が、1943年秋、インドの当時ポルトガル領ゴアで、やはり約1500人の捕虜と物資の交換をしました。この交換でグリップスホルム号はお茶、味噌、醤油、楽器、薬品、慰問図書、また日本にいる親戚や知人からの懐かしい手紙、約1万5千通の「赤十字通信」を12月1日、アメリカに持ち帰っています。

桝居孝著、「太平洋戦争中の国際人道活動の記録(改訂版)」日本赤十字社 1994

鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創著、「日米交換船」新潮社 2006

粂井輝子著、「慰問品うれしく受けて」———戦時交換船救恤品からララ物資へとつなぐ感謝の連鎖­­ 海外移住資料館

2. 伊藤一男著、「アメリカ春秋八十年」シアトル日系人会  1982

3. Heart Mountain Sentinel, Vol. III No.13, March 25, 1944.

    Heart Mountain Sentinel, Vol. III No.14, April 1, 1944.

4. 小平尚道著、「アメリカ強制収容所———戦争と日系人」玉川大学出版部 1980

5. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, May 4, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

6. 陸軍に入隊した二世は、ヨーロッパ戦線で活躍したばかりでなく、アメリカ軍情報部で訓練を受け語学力をいかして太平洋戦線や戦後の日本においても仕事をしています。

7. Louise Tsuboi Kashino, interview by Yuri Brockett, Jenny Hones and Hitomi Takagi, August 22, 2013 at Bellevue, Washington.

8. 前掲 Colors of Confinement: Rare Kodachrome Photographs of Japanese American Incarceration in World War II

9. 前掲 Colors of Confinement: Rare Kodachrome Photographs of Japanese American Incarceration in World War II

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第136号(2014年2月)からの転載です。

 

© 2014 Yuri Brockett

442nd camps children Constitution lost battalion Red Cross resettlement World War II

Sobre esta série

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。