Descubra Nikkei

https://www.discovernikkei.org/pt/journal/2014/08/11/

明治の重鎮がブラジルに抱いた稲作の夢(桂、レジストロ、セッチ・バーラス3植民地)

リベイラ河のほとりに建てられた鳥居と、川面を流れる灯ろうが不思議な景観を演出する「レジストロ灯ろう流し」

一枚の金属板が変えた日本移民の運命

サッカーW杯がブラジルで開催された6~7月の間に1万人近い日本人観戦者が訪れた。その中のほぼ誰も足を運んでいないが、明治期の歴史が好きな日本人なら見逃せない重要な場所がある。

第1回国際産業展覧会の金属板

サンパウロ市から南西に202キロにあるイグアッペ市立歴史博物館(Museu Municipal de Iguape)だ。まるで古い民家の様なその建物の2階にさりげなく、ある金属板が展示されている。

イタリア統合50周年記念してトリノで1911年に開催された第1回国際産業展覧会で、この地方の「イグアッペ米」がブラジルを代表して出品され、「世界優良の米生産者」として国際顕彰を受けた時のプレートだ。浮き彫りでイタリア語(Diploma d'Onore, Torino MCMXI)が刻まれている。

とはいえ、目線が届きやすい高さではなく、床スレスレの低い壁面に設置されているから、床に寝転がらないとまともに撮影できない。しかも、乱暴な手書きで簡単な説明が書かれているだけであることから、地元のブラジル人にとってすらも半ば忘れられたかのような存在であることが分かる。

なぜこの金属板が「明治期の歴史好きの日本人」に見逃せないのか。実はこの国際表彰があったからこそ、1913年にブラジル初の日本人移住地「桂植民地」が稲作を目的として、この町の上流に作られたからだ。

写真左:1787年に建設が始まったイグアッペ・セニョール・ボン・ジェズ大聖堂(Basilica do Senhor Bom Jesus de Iguape、左)の前の広場にあるイグアッペ市立歴史博物館(右); 写真右:イグアッペ市立歴史博物館の入り口

こんな辺鄙な場所にどうして?

想像してみてほしい。日本からはるばる40~50日間の船旅をしてサントス港に着く。初期の日本移民の大半が入ったサンパウロ州のコーヒー大農場は、サンパウロ市から鉄道で一~二晩あれば最寄り駅まで着いた。ところが州南部海岸地帯にあるイグアッペという場所は、桂植民地が創立した当時は、サンパウロ市から鉄道2線と蒸気船2隻を乗り継いで、4日がかりでしかいけない僻地だった。

若き日の青柳郁太郎(『イグアッペ植民地二十周年写真帳』より、1933年、安中末次郎(やすなか・すえじろう)

もしくは移民が上陸したサントス港まで再び戻り、そこから月に一度程度の船を待ってイグアッペ港まで行き、蒸気船でリベイラ河を上流にさかのぼって、ようやく桂植民地に着いた。だから当時の文献を見ると「どうせサントスから船に乗っていくならアルゼンチンの方がいい」と外国と比較する指摘があるほど遠い場所と思われていた。

そんな僻地に「東京シンジケート」(青柳郁太郎代表)は「イグアッペ植民地」と総称される3移住地(桂、レジストロ、セッチ・バーラス)を計画した。初の植民地造成計画の中でも、〝試し〟的にわずか30家族ていどで作られたのが「桂」で、昨年10月に盛大にこの3地域の入植100周年を祝った。

桂植民地の名前は当時の政界の重鎮、日露戦争(1904~5年)時の桂太郎首相を顕彰して付けられた。実際に桂首相が後ろ盾となり、当時の高橋是清日銀総裁、〝日本の資本主義の父〟渋谷栄一ら錚々たる明治の政財界の要人が、労力と私費を惜しまず推し進めたのがこの植民プロジェクトだった。

明治期の錚々たる重鎮が後ろ盾に

明治の錚々たる重鎮たちは、まるで大きな世界地図に虫ピンを刺すように、地球上の最も遠くて不便な地点に理想郷を探し、「日本人村」を作ろうとした。日本人と稲作の歴史は深く、外国に渡ってすらも日本移民が米にこだわったのは、当時の祖国の食糧事情と関係する。外国で米を作って祖国に供給することを「日本人としての使命」と考え、移住した者たちがいたからだ。

米の自給率は明治中頃から100%を割り始め、日清戦争(1893~94年)の直後、1897(明治30)年に一転して米輸入国になった。食糧政策の転機期だった。米不足の原因は人口増と、雑穀を食べていた国民の生活様式が豊かになって米を食べるようになり、消費量が増加したことだった。

ロシアや中国との勢力争い、大陸進出に武力は不可欠であり、軍の食糧確保は何にもまして優先された。黒船によって〃太平の眠り〃から無理やり起こされ、世界経済に組み込まれた明治政府にとって、米の確保は単なる食糧政策ではなく国防上の大問題でもあり、政治的な生命線であった。

1908年、そのような国家的視野の問題を論じた勉強会の内容を青柳郁太郎(1859―1943、千葉県)の名前の「意見書」として、大浦農商務大臣が根回しをして桂総理大臣宛てに提出した。そこから「東京シンジケート」が始まっているから、前述のような明治期の錚々たるメンバーが後ろ盾になった。

青柳のように時の首相に「意見書」を提出した移民事業関係者は珍しい。一見、華やかな業績の割に、経歴に不明な部分があり、実は謎が多い人物だ。

北米からブラジルへ

「近代デジタルライブラリー」サイトを探すと、青柳は1894(明治27)年10月に『秘魯事情』という本まで出版し、最初はペルー移住事業を進めていたことが分かった。ペルー行きのきっかけをその本の冒頭で触れている。北米に遊学中、1887(明治20)年頃にたまたま、カリフォルニア大学付属の図書館において在外米国領事の報告書を見て、南米大陸の有望さに気付いたとある。米国領事の報告書との出会いが彼の人生を変えた。でもペルー移民事業、つづくフィリピンでもうまくいかず、最終的にたどり着いたのがブラジルだった。

日本移民が明治期、最初に向かったのは主に北米やハワイ、アジア・オセアニア地方だった。だがセオドア・ルーズベルト米国大統領(1901―09年)の時代に、日露戦争で日本が勝ったことに米国市民が脅威を感じて黄禍論が盛り上がり、日本政府が移民を自主規制する「日米紳士協定」が1908年2月に締結され、締め付けが厳しくなっていった。

その流れを受けて北米からの転住者が相次いだ。その一人は1917年8月、北米から鳴り物入りでブラジルへ渡った西原清東(1861―1939、高知県)だ。板垣退助の立志学舎で学んで1898(明治31)年に史上最年少国会議員、1899年に同志社社長となった輝かしい経歴を捨てて1903年に渡米していた。テキサスで大農場を開いて〝ライス・キング〟と呼ばれたが、そこを息子に任せて渡伯したという。

でも14年間、ブラジル各地で試したがうまくいかず、結局は1932年に米国に戻り、そこで39年に亡くなったという。

北米での日本移民排斥機運が強まりの中、人口増加にあえいでいた日本政府は捌け口を求めてブラジル移住を本格化させた。

デカセギ労働者から永住者へ

桂植民地最後の居住者だった中村忠雄さん(右が娘テレーザさん)

一般的に、1908年の第1回ブラジル移民船「笠戸丸」と、〝移民の祖〟水野龍(1859―1951、高知県)がブラジル移民に関する文章には、枕詞のように繰り返される。

でも水野が連れて来た「移民=デカセギ労働者」は、「お金を貯めて日本に帰国する」ことを当初の目的としており、青柳のように「植民=永住希望者」を集めた移住地を作った訳ではなかった。現在の150万日系社会は永住者の子孫が作った流れであり、広い意味で「桂植民地」の系譜の延長線上にある。結果的に、「デカセギ的移民」と「永住志向の植民」の両者が応分に役割を果たす中で、ブラジル移民史は作られている。

「ジポヴーラ(桂植民地の現地名)にずっと住んでいたかった」。そこで生まれ育った中村忠雄(当時85、二世)=レジストロ在住=は2013年3月12日に取材した際、残念そうに繰り返した。彼と清美夫人(二世)が最後まで同地に住んでいた日系人だった。2007年に病気治療のために、近隣で最大の町レジストロへ転居した。それをもって桂植民地は完全に消滅した。

今は誰も日系人が住んでおらず消滅した桂植民地

日本人が作った3移住地のうち桂は消滅したが、次にできたレジストロは特に繁栄し、一時は〝コーヒー王国〟ブラジルに「紅茶の都」と言われる輸出用紅茶の大産地になり、6万人都市に育った。今も日本の伝統を残すべく8月の終戦記念日の頃には盆踊りと、ブラジル人公立学校生徒が主に参加する平和灯籠流し(2009年開始)を開催し、11月には1954年頃に始まった伝統の灯籠流しも行われている。

世界に伍して立ち上がろうともがいた明治の日本人が、世界とどう相対していくのか、どう自らの存在を確立していくのか――そんな迷い多き状況の中で試行錯誤した歴史が、レジストロ周辺の大地には、今もはっきりと刻み込まれている。

 

* * * * *

この話を詳しく書いた本が出版されました。詳しくは、以下のサイトまで。
http://www.nikkeyshimbun.jp/2015/150211-hitotsubunokome.html

『一粒の米もし死なずば ―ブラジル日本移民レジストロ地方入植百周年―』
深沢 正雪・著

 

© 2014 Masayuki Fukasawa

arroz Brasil Colônia Katsura Iguape Registro São Paulo (São Paulo)
About the Author

Nasceu na cidade de Numazu, província de Shizuoka, no dia 22 de novembro de 1965. Veio pela primeira vez ao Brasil em 1992 e estagiou no Jornal Paulista. Em 1995, voltou uma vez ao Japão e trabalhou junto com brasileiros numa fábrica em Oizumi, província de Gunma. Essa experiência resultou no livro “Parallel World”, detentor do Prêmio de melhor livro não ficção no Concurso Literário da Editora Ushio, em 1999. No mesmo ano, regressou ao Brasil. A partir de 2001, ele trabalhou na Nikkey Shimbun e tornou-se editor-chefe em 2004. É editor-chefe do Diário Brasil Nippou desde 2022.

Atualizado em janeiro de 2022

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