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それはグローバルな旅の結果―ブラジルの栽培作物の変化と日本移民- その1

はじめに

人類による植物栽培の歴史は、常にヒトの移動と生活文化の変容の記録ともいえる。新しい栽培植物は新しい地の住民に新たな食文化をもたらす。栽培植物の伝播には時間的にも空間的にも大きな広がりがみられる。東アジアから中東へ、コーカサスからヨーロッパへ、ヨーロッパからアフリカへ、新世界からヨーロッパへ、ヨーロッパから新世界へと、植物は常に旅を続けてきた。その一部を栽培作物として人類は利用し、新たな文化を育んできた。

本稿では、20世紀に拡大したブラジルの国内消費市場向けに開発された栽培作物に着目する。新しい生産物がブラジルの食生活にもたらした変化を捉え、世界の多様な地域を起源とする植物がヒトとともに旅をして、人類の歴史に影響を与えてきた食文化の一事例として提示する。

具体的には、「農業の達人」とブラジルで賞賛されるブラジルの日本移民の栽培作物を取り上げる。サンパウロ州のコーヒー農園の契約労働者として1世紀前に送出が始まった日本移民は、第二次世界大戦の祖国の敗戦を機にブラジル社会に定着した。この過程で日本移民は、新たに導入、あるいは改良した栽培植物をブラジルの市場に提供してきた。日本移民による栽培植物を通じて、ブラジル人の野菜や果物に対するイメージを変化させたと同時に、新しい味覚ももたしたのである*。

*本稿では、植物名を必ずしも片仮名表記にしていない。漢字あるいは平仮名表記が視覚的により理解しやすいと考えられる場合はそちらを用いている。

1.外国移民と国内消費市場の発展

16世紀以来300年以上にわたって、ポルトガルの植民地であったブラジルは、宗主国に利潤をもたらす役割を専ら担わされていた。スペイン語圏の植民地と比較すると、ポルトガル王国の植民地に対する収奪の構造は徹底していた。宗主国向けの単一商品の生産が最優先されており、植民地住民の食料や衣料品、食器に家具といった日用品の現地生産は輸出生産を阻害するものとして退けられ、宗主国からの輸入に頼った。

植民地からの輸入は貿易に関わるポルトガル商人とポルトガル王に利潤をもたらすものであった。植民地ブラジルが重商主義の時代に、利潤追求のための新たな流通商品を開発することは、ほとんど不可能であった。サトウキビやコーヒーといった伝統的な輸出商品の開発の他に、オレンジ、バナナ、大豆、パッションフルーツ、マンゴ、鶏肉、ハワイ・パパイヤ、メロン、ブドウ、コショウ、生糸といった新たな輸出産品が登場し、モノカルチャー経済からブラジル農業が脱するのは、20世紀に入ってからのことである。

熱帯、亜熱帯に広がるブラジルの地には、ヨーロッパの人々にとっては未知の植物がもともと存在していた。さらに、19世紀に導入された外国移民はそれぞれの出身国から固有の栽培作物を携えてブラジルにやって来た。外国移民はブラジルでこれらの植物を、栽培作物として順次育て上げた。とりわけ、日本移民とイタリア移民は、ブラジルの消費市場に並ぶ野菜と果物を多様なものとし、ブラジルは今日では、世界最大の果物の生産国でとなってい
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2004年の統計によれば、ブラジルにおける生鮮果物の年間の生産量は4300万トンで、およそ2%が輸出されている。生鮮果物の輸出額は470万2000米ドルに達し、ブラジルの総輸出額の約1割を占めている2。ブラジルの生鮮果物生産量の98%が消費されるブラジルには、巨大な消費市場が国内に形成されていることになる。その消費の中心は、ブラジル最大の人口を抱えるサンパウロ市である。

現在サンパウロ市は人口1000万人を越え(2000年1043万5546人)、西半球最大の都市である。ブラジルの経済活動の7割がサンパウロ市に集中している。サンパウロ市は周辺の38市と人口1800万を抱えるサンパウロ大都市圏を形成し、サンパウロ州の経済活動人口の48%がここに集中している3。サンパウロ市を中心とするサンパウロ大都市圏は、ブラジル最大の消費市場である。

サンパウロ市が、西半球最大の経済都市に成長する契機となったのは、19世紀半ば以降のコーヒー産業の発展である。18世紀に国内消費用にブランス領ギアナから導入されたコーヒー樹は、19席期に輸出作物としてパライーバ渓谷(現在のリオデジャネイロ州の一地方)の大農園主が栽培するようになり、1830年代にコーヒーはブラジルの輸出総額の3割以上を占める主要な産業となった。1870年以降、コーヒー栽培の中心地は現サンパウロ州西部に移動し、コーヒーはブラジルの輸出総額の半分以上を占める第一位の輸出産品となった。サンパウロ市は州奥地で栽培されたコーヒー豆取引の中継地となり、サントス港はその輸出港となった。コーヒー産業は金融、工業の新たな産業をサンパウロ市に出現させた。

コーヒー農園の契約労働者であったヨーロッパ移民、主としてイタリア移民は農園の契約が終了すると、労働市場が形成されつつあったサンパウロ市で工業労働者となった。1901年に市内の工業労働者は約8000人を数え、このうち5000人がイタリア移民であった4。1890―1900年の10年間にサンパウロ市の人口は、6万人から24万人と、4倍に膨れ上がり、1901年の水力発電の開始はサンパウロの工業化を促進した。1920年代にブラジルの工業生産の32%を占めるようになったサンパウロ市は、リオデジャネイロ市を抜いてブラジル最大の工業都市となった5

1920年に58万、34年に100万、第二次世界大戦後の50年に200万人と、サンパウロ市の人口は急増している6。この増加した市の人口の食料需要に応じるために、サンウロ市近郊で農業が発展した。その農業の主な担い手となったのは、州奥地のコーヒー農園から移動してきた日本移民であった。第二次世界大戦が終結し50年代に入るとブラジルでは、自動車道路の整備が進み、農産物を消費市場に直結させる流通網が発達した。特に積極的な「経済成長政策」を採った軍事政権下で自動車道路の整備が進み、1964-85年に舗装道路は、1万8730kmから11万5725kmに延び、517.8%の成長をみせた7

植民地時代から今日にいたるまで農産物を主要な輸出品としているブラジルでは、道路網の整備に伴い輸出作物の栽培地は海岸地帯から奥地へと移動してきた。また、自動車道路の延長と同時に、冷凍車も普及し、生鮮作物の低温流通(コールドチェーン)が可能となり、生産地と国内消費市場が結びつけられ、ブラジル国内の物流が飛躍的に拡大した。1986年の自動車道路は 140万kmであった自動車道路の総距離は、1993年には1666万kmと、およそ12倍に拡大した8。 これらの結果、生鮮野菜や生食用の果物の栽培や養鶏といった国内消費農業の発展がもたらされた。日本の23倍に及ぶ広大なブラジルの各地の多様な栽培作物が国内を行き交い、ブラジルの食生活は飛躍的に豊かなものとなった。

その2>>

注記
1. Passoni, 2006, p.2.
2. これらブラジルの輸出生鮮果物の76%はEU向けで、その22%は直接イギリスに、32%はオランダに輸出されている。オランダはブラジルの輸出果物の中継地で、ヨーロッパ諸国に再輸出している。その他ナフタ(NAFTA)、メルコスル(MERCOSUL)、アジアの諸地域にもブラジルの生鮮果物は、輸出されている(Almanaque Abril 2005, p.132)。
3. Almanaque Abril 2008, pp.704-705.
4. 三田、139頁。 
5. 同書、同頁。
6. 同書、141頁。
7. Anuário estatístico do Brasil, pp.5-13.
8. Almanaque Abril 1989, p.181及びibid., pp.5-13.


*本稿は、 『立教大学ラテンアメリカ研究所報. 第39号』(2011年3月31日. pp. 51-60)からの転載です。

© 2011 Institute for Latin American Studies, Rikkyo University

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