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それはグローバルな旅の結果―ブラジルの栽培作物の変化と日本移民- その4

その3>>

3)ハワイ・パパイヤがコショウの生産地を救う

パパイヤはコーヒーと並んで、世界一の栽培量(2003年171万5000トン)を誇るブラジルの果物で、世界のパパイヤの約3割をブラジル産が占めている1。パパイヤはメキシコ、西インド諸島、ブラジルに広がる熱帯アメリア原産の果実で、新大陸発見以後に世界各地に急速に伝播していった。植民地としてポルトガル人が開発を始める以前からブラジルには自生しており、その栽培の容易さから品種の改良はほとんどなされてこなかった。糸瓜(へちま)のように長く大きいが、甘味と香りが少ないブラジルの地のパパイヤを「パパイヤ」に変えたのが、コショウ栽培をブラジルに導入した日本移民であった。

1925年、当時のパラー州知事は、日本の資本と労働力を用いて同州を開発することを目的として土地の無償提供を日本政府に申し出た。日本外務省は経済界に諮り、日本人移住地建設に乗り出した。民間から出資を得て南米拓殖株式会社が設立され、1929年、アマゾン開拓の移住地アカラ植民地(パラー州)の建設が始まった。アマゾン開拓は、当初、適格な農作物の選定に苦しんだ。1933年、移民輸送監督としてブラジルに向かった南米拓殖会社の職員が、航路途中のシンガポールで20本のコショウの苗を購入し、船内で育成、ブラジル到着後アカラ植民地の試験場に植樹した。その後もアカラ植民地の経営不振が続き、一部農場の閉鎖を余儀なくされた。1935年農場閉鎖に当って、シンガポールで購入したコショウの木3本が育っていたのが発見された。これをアカラ植民地の適正作物として、日本人農家は栽培に着手した。

1945年、アジアのコショウの主要生産地であるインド、インドネシア、マレーシアを戦火に巻き込んだ世界大戦が終了すると、ブラジルのコショウ価格が高騰した。47年のアカラ植民地のコショウの売上高は前年の7倍増となった2。49年にトメアスー植民地と呼称が改められた植民地では、54年まで「黒いダイヤ」と呼ばれるほどコショウは高騰を続けた。

移住地はコショウによるモノカルチャー農業に依存した。海外消費市場向けの生産には常に大きな危険が伴う。それは植民地時代から繰り返されてきたブラジル経済の歴史である。コショウも同じ道を歩むことになった。

55年、東南アジアのコショウ栽培が回復すると、ブラジルのコショウの価格は下がり始めた。とはいえ、60年まではなんとか好況を維持することができた。ところが、1971年にコショウの病害が移住地に広がり、生産量が急落した。移住地住民の選択肢は3つ、すなわち移住地からの転出、多角営農への転換、新しい移住地の建設であった。

植民地に残った者は多角営農を急速に進め、15種以上に及ぶ農産物を栽培するようになった。その中の一つにハワイ・パパイヤがあった。ハワイにパパイヤが導入されたのは1800-23年頃で、スペイン移民がマーケサス島からもたらしたものとされる3。トメアスー植民地に導入されたハワイ・パパイヤは、ハワイ大学の農学部で改良されたもので、後に導入されたタイワン・パパイヤとともにブラジルで栽培されるようになった。両種ともブラジル産のパパイヤとは異なり、小ぶりながら甘味が強く、香りがよいことから、急速にサンパウロやリオデジャネイロ、ブラジリアといった大都市を中心に高級果実として消費を伸ばした。もともとパパイヤの自生地であることから、新しいパパイヤ種の普及は速かった。現在では、パラー州のみではなくバイア州などの熱帯気候の諸州で栽培されている。

ハワイ・パパイヤの場合も、輸送網と輸送手段の発展が、大量消費地と生産地間のおよそ5000キロを結びつける重要な役割を担った。当初は、ホテルで供される高級果物とされ、地のパパイヤとは扱いが異なる果物となった。現在、ブラジルの諸都市の市場に並ぶパパイヤは、このハワイと台湾で改良されたもので、「パパイヤ」(papaya)と呼ばれ、「ママン」(mamão)と呼ばれてきた地のものは自生種として扱われ、商品作物のパパイヤとは区別されている。

まとめ

ブラジルの日本移民による生鮮果物の改良と普及は、ブラジル人の果物に対するイメージや消費行動を変化させた。高級果実をポピュラーなものとし、換金性の低い栽培植物でしかなかった果物を、高級食材とした。パーティー好きのブラジル人が、人の集まる週末に自宅に買い置く果物は、この30年間に入れ替わった。バナナやオレンジに代わって、リンゴにブドウにパパイヤに柿とりんごと、寒帯、温帯、熱帯と原産地の異なる果物が居間を飾り、熱帯のブラジルで多様な気候の果物を楽しめるようになった。

ブラジルの日本人がこれほど国内市場向けの農作物の改良に熱心に取り組むようになったのはなぜか。第二次世界大戦後のブラジルの工業化による消費市場の拡大が生鮮果物の需要を拡大したことが大きな要因の一つである。さらに、日本移民自身の大きな変化があった。

明治期に始まった北米移民の送出が不可能になったことから開始されたブラジル移民も、蓄財を果たして故郷日本に帰国するつもりのいわゆる出稼ぎ移民であった。2-3年の短期で蓄財を果たして帰国するつもりの日本移民にとって、サンパウロのコーヒー農園の就労条件ではその希望を果たせるものではなかった。短期出稼ぎを5-10年の中期出稼ぎに切り替えた日本移民は、売りに出されたサンパウロ州のコーヒー農園の土地を日本人同士で購入し、日本の農村を範とした農村共同体を建設した。こうした日本人集落がサンパウロ州の奥地に、最盛期にはおよそ500ほど存在したとされる。ブラジルの農村地域にはインフラ自体が整っていない時代であった。日本移民は、共同体の経済活動や子弟の教育を自分達自身で解決していかねばならなかった。そのための手段は、日本移民が日本で経験したことに求める以外になかった。日本移民は、日本から携えた「文化包み」(cultural baggage)をサンパウロ州奥地で開き、日本の農村共同体をそこで再展開したのである。いずれ日本に帰国するつもりでいた日本移民にとって、日本人共同体での生活は都合のいいことであった。

しかし、第二次世界大戦での祖国日本の敗戦は、ブラジルの日本人に大きな混乱を招き、その後10年の年月をかけて日本移民はブラジル永住を決心していった。それまで綿花栽培のように一年で利潤を手にすることができるような換金性の早い作物の栽培を手掛けてきた日本移民は、時間のかかる栽培作物の改良を行い、生産性の高い作物を消費市場に送り出すようになった。そうすることにより、移民一世の子弟たちにブラジルの社会階梯を上ることを可能としたのである。つまり、移民一世が、出稼ぎからブラジルに永住することを決心したことによって、ブラジルの生鮮作物は多様化し、高い生産性と高品質を備えた作物となったのである。

ヒトの移動がもたらした食文化の変化には、生活様式やイメージの変化を伴い、それは新たな文化となる。ブラジルの日本移民がブラジルに導入した日本の青果は、ブラジルの日本食ブームの需要に応え、今ブラジル製日本食を作り出している。栽培植物のみでは文化を変えられないが、栽培植物はヒトと共に長い旅をして、新しい地に導入されることによって文化の変化をもたらしたり、新たな文化を生み出したりしてきたのである。

注記

(21) http://www.brasilianfruit.org/ (2007/05/16) 及び http://www.bahia.ba.gov.br/ (2006/06/27)
(22) 日本移民80年史編纂委員会編、306-307頁。
(23) 果樹園芸大事典編集委員会編、1293頁。

参考文献一覧
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・入江寅次『邦人海外発展史上巻』海外邦人史料会、昭和11年。
・入江寅次『邦人海外発展史下巻』移民問題研究会、昭和13年。
・果樹園芸大事典編集委員会編『果樹園芸大事典』第2次訂正追補、養賢堂、1986(昭和61)年。
・小林章『文化と果物―果樹園芸の源流を探る』養賢堂、1990年。
・ブラジルの農業編集部編『農業宝典』、サンパウロ、コペラソン出版社、1977年。
・日本移民80年史編纂委員会編『ブラジル日本移民八十年史』サンパウロ、ブラジル日本文化協会、1991年。
・三田千代子「内陸都市サンパウロの形成と発展」国本伊代、乗浩子編『ラテンアメリカ都市と社会』新評論、1991年、125-149頁。
Almanaque Abril 2006, São Paulo: Editora Abril, 2006.
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・Cascudo, Luis da Camara, História da alimentação no Brasil, São Paulo: Companhia Editora Nacional,1967.
・Souza, Laura de Mello(orga.), História da vida privada no Brasil: cotidiano e vida privada na América portuguesa, São Paulo: Companhia das Letras, 1997.
・Passoni, Adriana C., Marcelo C. M. Neves, Bruna B. Rodrigues e Margarete Boteon, “Análise dos principais entraves na exportações de frutas brasileiras”, XLIV Congresso da Sabor/ Sociedade Brasileira de Economia e Sociologia Rural, Fortaleza, 23 a 27 de Julho de 2006.


*本稿は、 立教大学ラテンアメリカ研究所による『立教大学ラテンアメリカ研究所報. 第39号』(2011年3月31日. pp. 51-60)からの転載です。

© 2011 Institute for Latin American Studies, Rikkyo University

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