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概説『ユタ日報』-その歴史と意義- その3

>>その2

戦時下における部数拡大と広域化

1941年(昭和16年)12月7日(日本時間8日)の真珠湾奇襲は、まず8日付(6852号)で伝えられた。この日、ユタ州知事は州内の日系人を外出禁止処分とし、銀行の預金も凍結された。こうした状況の下で、10日付(6853号)が発行され、一面の論説が一世二世の協力を説き、冷静な行動が呼びかけられたが、社員の出社もままならず、合衆国内の日本語新聞がすべて発行停止処分とされる状況の下、『ユタ日報』の刊行も、一旦は停止してしまった。國子が上坂に語ったところによると、11日の午後にFBIがやってきて、社屋の封鎖と「許可があるまでの発行停止」を命じたという(上坂・1985、137頁)。また、発行停止期間中には、軍の監視下で秘かに日本語文書の印刷を命じられることもあった。

日米開戦という危機的状況の下で、行動の自由を奪われた上、日本語新聞が停刊するという事態は、大方の一世にとっては情報がほぼ完全に遮断されてしまうことを意味していた。開戦後、米国政府当局(連邦政府、州政府、軍、等々)は、一世を含めた日系社会に対して多数の告知・命令を発したが、その内容を十分に伝える仕組みは失われていた。1942年(昭和17年)に入ると、指定された軍事地域の敵性外国人に退去を命じる権限を、陸軍に与える、とした大統領令9066号が、2月19日に発令された。これを受けて、西部防衛軍指令官デウィット中将は、3月3日に西海岸3州及びアリゾナ州南部からの日系人の退去を命じた。その結果、4月から10月にかけて、およそ12万人といわれる多数の日系人が自主移動、あるいは強制移動によって、山中部以東の諸都市や、再配置センター=戦時収容所へと移動することになった。

当時の緊迫した状況下では、必要な情報が伝わらなければ、無用の混乱が生じる危険が大きかった。そうした中で、米国政府当局は、日系社会に告知を徹底する媒体として日本語新聞の有用性に注目することになったようである。全ての日本語新聞を対象としていた開戦直後の発行停止処分は、大統領令9066号発令の頃から、部分的に改められるようになった。カリフォルニア州では、日系人の退去が進んだ短い期間ではあったが、いくつかの日本語新聞が再刊され、政府の告知などを伝える役割を果たした(田村・1992B、381頁)。また、山中部の「山東」に当たるコロラド州のデンバーで発行されていた『格州時報』(英語名・The Colorado Times)と『ロッキー日本』(1943年4月12日から『ロッキー新報』に改題)の二紙は、『ユタ日報』と同様に再刊された。結局、戦時下の米国で刊行され続けた日本語の一般紙は、このデンバーの二紙と『ユタ日報』の、併せて3紙だけであった(小玉・田村・1983)。

2月25日付(6855号[6854号は欠号])から再刊された『ユタ日報』は、紙面に「本誌再刊に際し讀者の皆様へお願ひ」を掲げ、慎重な行動と、『ユタ日報』への支援を訴えた。再刊後の紙面は、FBIによって事実上の事後検閲を受けていた。しかし、『ユタ日報』は、当時の日本の国策通信社=同盟のニュース放送を傍受して記事にするなど、日本寄りの論調も少なからず掲載しており、ある程度の言論の自由は容認されていた様子であった。國子が上坂に語ったところによると、当時は、FBIから「アメリカの新聞の翻訳以外は載せてはならんとくどいほど言われた」(上坂・1985、206頁)というが、FBIも「決して高圧的な態度じゃなく『あなたたちの気持ちもよく分かるが、ここはアメリカなのだということを忘れないようにしてくれ』」(182頁)といった姿勢だったようである。

さて、元々『ユタ日報』は、社の近隣地区以外は郵便によって配布されていたが、再刊後の郵送部数は、収容所をはじめ各地に散らばった一世たちが新たに購読し始めたことで、急速に伸びていった。開戦直前に2,500部程度だったと思われる『ユタ日報』の部数は、最盛期には郵送分だけでも8,000部を越え、1万部程度へと膨れ上がった。(上坂・1985、152頁は、開戦直前の発行部数を「僅か356」と述べているが、これは発行所所在地のある郡の外への郵送部数を発行部数と取り違えたものである。田村・東元・1984、206~207頁は、当時郡内には2,000部程度が配布されていたと推定している。)

読者層の拡大と広域化は、紙面内容にも反映され、5月頃からは各地の収容所からの通信が紙面に現れるようになった。さらに収容所からの再定住が進むにつれて、山中部以東の都市など、各地の日系コミュニティからの情報も、徐々に増えていった。やがて、通信を送ったり、配布や購読申し込みを取り次ぐ「支社・支局」が、各地に開設されるようになった。そうした「支社・支局」が、どこまで実体を伴ったのかは不明だが、読者とともに、紙面も確実に広域化を遂げていた。こうして、ソルトレーク市の小さな地域紙は、戦時下における数少ない「全国紙」として、日系社会の結節点の機能を果たすことになったのである。

戦時下の「全国紙」『ユタ日報』は、各地の収容所やコミュニティの情報を交流させ、日本の立場を少しづつ織り込みながら太平洋戦争の戦況を伝え、欧州戦線における日系人兵士の活躍や訃報を報じた(米国籍の日系人には、1943年(昭和18年)1月から志願制度、1944年(昭和19年)1月からは徴兵制度が適用されていた)。1944年12月には、日系人に対する西海岸からの退去命令が撤回されたが、大多数の日系人は、その後も各地に留まり、『ユタ日報』の報じる西海岸諸州の現況に注目しながら、帰還すべきか否かと思いを巡らせていた。

1945年(昭和20年)1月23日、20年以上も『ユタ日報』の制作を支えてきた足立博愛が、72歳で病没した。畔夫の時代から、経営の苦しい時期を通して、常に『ユタ日報』とともにあった博愛は、部数の絶頂期にこの世を去ったわけである。國子の下に結束していた社員たちの中で長老格だった博愛の死は、『ユタ日報』にとって、「終わりの始まり」を告げるものであった。

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* 本稿は、「ユタ日報」復刻松本市民委員会,編『「ユタ日報」復刻版 第1巻』 (1994年),pp431~435.に出典されたもので、執筆者のウェブサイトにも掲載されています。

© 1994 Harumichi Yamada

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