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「日系人と日本語教育」パラグアイ国前駐日大使田岡功氏による講演会より-その1

2010年1月28日、2009年度日本語教師合同研修会の一環として、パラグアイ共和国の前駐日大使、田岡功氏をお招きし、「日系人と日本語教育」というテーマで講演会を行いました。そのときの講演・質疑応答の一部を書き起こしたものをご紹介したいと思います。

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日本人に引けを取らないパラグアイ日系人の日本語能力

講演を行うパラグアイ共和国の前駐日大使田岡功氏

現在、日本にはパラグアイのパスポートで滞在している人が約2500人、パラグアイ国籍を持ちながらも日本国籍を留保して、日本人として滞在している人の数は不明ですが、それらの方を含めれば約3000人近いパラグアイ人が住んでいると言われています。

私は、日本にいる間、多くの日系研修員の終了式、研修の場に出席することが出来ました。その時、感じたことはパラグアイ日系人の日本語、挨拶は、他のブラジルやペルー、アルゼンチンなどの日系研修員と違い、日本人の普通の発音、挨拶と変わらないということです。それを通して、私はパラグアイの各日本人会の行っている日本語学校と教師、また教師研修をしている日本人会連合会の仕事の成果をはっきり実感しました。ここで改めて、皆様の教師のお仕事に敬意を表したいと思います。

駐日大使に選ばれた理由

パラグアイ日系人は日本語だけでなく、パラグアイ人でありながら、日本人的な感覚、習慣も身につけ、日本の習慣や文化を自然に受け入れることが出来ます。これについては日系2世・3世は、パラグアイのなかで50年、70年の間、それらを引き継いで、若い世代に毎日の生活を通し教えてくれた、両親・先輩に心から感謝することが必要と思います。この私にしましても、もし、私が日系社会から離れてスペイン語とグアラニー語だけで生活、または仕事をしていたら、決して、私に駐日大使任命の話は無かったと思っています。

つまり、どんなに忙しくとも、私は日系社会の中にも体を置いていたからこそ、パラグアイ社会のまた、日系の代表として大使として日本に派遣されたと信じています。

私は日本では中学2年生までしか過ごしていません。パラグアイに来てからはスペイン語の小学校1年生を一日で終え、2年生を二日で終え、3年生を半年だけ通いました。その後は、家の農業の手伝いを日々行い、それ以上学校には行っていません。

また、親が早くに亡くなりましたので、親に代わって農協や日本人会の役員を引受け、人の世話をしながら人生という学校で自分なりの勉強をして来ました。そのような中でも、いつも日本人としての誇り持って、日系社会は違うのだと考え、また感じながら生きてきました。

移り変わる世の中の動き

日本的なもの、日本の習慣と価値観、また若者の行動も日本で大きく変化して来ています。講演を頼まれ、ある農業高校に行きました。正門を入って、少し行きますと、お尻を半分出しながら座り、働いている生徒がいました。私は校長先生に、体の不自由な生徒でも農業の勉強しているのですねと尋ねました。すると、あの子は普通の、健康な生徒ですと言われて驚いたこともあります。

そのような悪い点は、決してパラグアイの日系社会には入ってきて欲しくないと思います。しかし、実際はどうでしょうか?移住地は、昔の私達の時代のように親が貧しく、毎日体を張って頑張っていた時代とは異なり、今は大規模機械化農業で豊かになり、家にはお手伝いさんがいて、子供は幼稚園や小学校へ車で送り迎え、欲しいものは全て買ってもらえる時代になりました。農業をする親も播種の2ヶ月と、収穫の2ヶ月以外は、暇を持て余し、その生活を子供がそばで見る時代になっています。

かつて、移住地では、隣近所の助けがなければ家も建てることも出来ませんでしたが、今では家を建てるにも、畑を耕すにも隣近所の手がいらなくなりました。また、昔のように、ゆっくりテレレ(冷たいマテ茶)の回し飲みをしながら、話し合う時間も少なくなってきました。

このように豊かな環境の中で育った子供たちの将来は、本当に親が望む保障されたものなのでしょうか?今日の世界の激しい経済の動きの中では、子供たちが農業を継ぐにしろ、他の仕事をするにしろ、今の豊かな生活を保証するものはどこにもありません。彼らが将来、人生の荒波に呑みこまれ、荒波に立ち向かい、たくましく生きて行く根性を、子供たちが身につけているかが心配です。

若い世代の育成の重要性

昔の原始林におおわれた移住地と違い、現在の日系移住地には広大な農地が広がっています。その広大な農地を見て満足する日系人もいます。しかし、例えば、それらの広大な農地で作られる大豆は、パラグアイにとどまっていては価値がありません。広い世界に出て、始めて価値が出るものです。私たち自身も生産だけでなく、生産物の加工・販売・輸出が出来る人材、つまり、世界に通じる若者の育成が必要なことに気付くことが必要です。私たちは荒波にもまれても、たくましく仕事と人生を切り開く子供たち、若者を育てることが必要です。

その子供達の教育を任されているのが、本日、集まっている日本語教師であり、日本語学校を運営する理事、日本人会、日本人会連合会だと思います。それらの教師の給与が低く、長年働いても将来の楽しみが無いとも聞きます。立派な教師には、生活を保障する給与、将来を安心させるものが必要です。これは日系社会全体の問題です。

私の中の日本

私が、大使になって初めて故郷の徳島の田舎に帰った時、私の叔母は、私を親戚周りに送りだす前にこのように言いました。家に入ったら、まず仏様にお参りさせてもらいなさい。そこで線香をあげ、お土産を出してからお話しをしなさいと注意されました。このように、日本の田舎には、昔の良い習慣がまだ残っています。私が移住した1958年(昭和33年)頃は、日本は貧しかったけれど、私は近所の方々の暖かい心に触れてパラグアイに移住することが出来ました。移住する時、私をしっかり抱きしめて下さった小母さん、普通の日は麦飯を食べていた時代に私の為に白米を一握り、麦飯中に入れて炊いたご飯を夕方早く食べさせてくれた小母さん、昔の故郷の心の温かさを思い出しながら、私は長い開拓の日々を過ごして来ました。

私は故神原秀夫さんが沼隈町町長時代に移住者の方々を送り出されたラパス地区に入植しましたので、日本に赴任後、広島の神原汽船代表神原眞人さんを尋ねました。そこでも、私はまず、先代のお墓参りをさせていただきました。現在の眞人さんも、立派な方で、亡くなった先代の移住者への思い、つまり日系人のお役に立ちたいという遺言を実現するにはどのようにすれば良いかと、私に相談されました。

丁度その頃パラグアイ日本人移住70周年記念事業の準備の為に訪日していた日本人会連合会の小田会長と相談しました。そして、神原さんのご厚意の1億円で神原基金を作り、その基金をまず農協中央会に預けて、農業の将来への基盤作りに活用し、その受取り利息を中央会が神原育英会に寄付し、連合会が励んでいる人材育成に活用するというプロジェクトを考えました。幸い、そのプロジェクトは実現いたしました。

このような、人の心のこもったお金は、銀行のお金とはまた違った特別な価値があります。農協中央会はどのように、その資金を活用しているか、連合会は育英会がどのような活動をしているか、常に報告し努力していれば、その基金はますます価値を高め、より多くのものを生み出すと信じています。

その2>>

© 2010 Federación de Asociaciones Japonesas del Paraguay

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