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ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その2

>>その1

千代子さんの結婚

アメリカに戻った千代子さんは、キングス一家の紹介で、ニューポート・ビーチに住んでいたキングス一家の親類ウインクラー一家と一緒に暮らすことになりました。千代子さんは住みこみのベビー・シッターの仕事をしつつ、ガーデングローブにあった日本語学校で教師として働きました。当時は、まだオレンジ郡には路面電車がありました。千代子さんは電車に乗って、ニューポートビーチからガーデングローブに通いました。

まもなくして、千代子さんはジョージ・永松さんと結婚することになりました。ジョージ・永松さんは、永松家の長男で、弟のフランクさんとともに、当時の最先端の農業技術を活用して、オレンジ郡のガーデングローブで青唐辛子の栽培を行っていました。その当時のオレンジ郡では、青唐辛子の栽培がさかんで、アメリカで消費される青唐辛子の多くが、オレンジ郡の日系人によって栽培されていました。

そんなふたりが出会ったきっかけは、その当時、日系社会の交流行事のひとつとして行われていた運動会でした。子供たちを引率する先生として運動会に参加していた千代子さんが、ジョージさんの目にとまったのです。子供たちの引率という役目があった千代子さんですが、ラフな格好で参加することが望ましいとされた運動会に、その日彼女はおしゃれな服装で出向きました。そのため、彼女の格好はとても目立つものでした。以来、ジョージさんは千代子さんに興味を持つようになり、友人たちの助けもあって、千代子さんがウインクラー一家と同居していることを知り、交際が始まったのです。

千代子さんは、ジョージさんとの交際において、ふたりがお互いにクリスチャンであったことがとても重要であったと、わたしに話してくれました。千代子さんとハワードさんは、母親の影響でクリスチャンになりました。一方、永松家の人々もクリスチャンで、現在はサンタ・アナ市にある日系のウインターズバーグ長老教会を支える人々でもありました。

ふたりは1936年にめでたく結婚にたどりつきました。結婚式と披露宴は、リトル東京にあるロサンゼルス合同教会で行われました。結婚式と披露宴のために、広い場所が必要だったからです。なにしろ、永松家はジョージさんをふくめて、8人の兄弟と姉妹だけではなく、多くの親類がいたからです。

千代子さんの結婚を機に、カリフォルニアに戻ったばかりのハワードさんは、永松家の人々と一緒に生活を共にするようになりました。

学業・部活動・そして農作業に明けくれた十代の日々

高校生になったハワードさんは、昼間はガーデングローブ高校に通い、それ以外の時間は永松家の農作業を手伝いました。

農作業はとてもとても骨の折れる仕事でした。特に青唐辛子の収穫の時期は、毎日遅くまで作業が続き、夜中まで働くことも少なくはありませんでした。香辛料を製造する業者へ青唐辛子を出荷する前に、ゆっくりと時間をかけてカラカラに乾燥させなければいけませんでした。収穫した青唐辛子を乾燥小屋(ドライ・ハウス)へ運び、そこで火をおこし、その熱風で青唐辛子の水分をとばすのがハワードさんの仕事のひとつでした。とても時間と手間のかかる作業でした。

また、ハワードさんは、灌漑設備をつくるためにトラクターを使った作業をすることもありました。当時のオレンジ郡での農業においては、農作物の両わきに溝をつくり、そこに汲みあげた井戸水を流すことによって、農作物に水を与えていました。

一生懸命農作業を手伝っていたハワードさんではありますが、千代子さんいわく、ハワードさんは、実は農作業をあまり好まなかったとのことでした。学業と部活動、さらには農作業を両立させた生活を過ごすことは、当時10代後半のハワードさんにとっては、非常に大変なことでした。

アスリートとしてのハワードさん

ガーデン・グローブ高校では、ハワードさんは短距離走の選手としても大活躍しました。インタビューのさいにハワードさんは、高校生になって初めて、体格が大きなアフリカ系の陸上選手に会ってとても驚いたことを、わたしに話してくれました。

また、ハワードさんは剣道も得意としていました。「剣道は得意ではない」と自分では謙遜していましたが、地元で開催された試合では、すばやく綺麗な面打ち、そして胴打ちを自由自在にあやつり、10人抜きを達成してしたこともあります。

しかしながら、思い出の多い高校生活のあとに待っていたものは、戦争という辛い運命でした。日米戦争の勃発によって、ハワードさん、そして永松家の人々の運命は大きく変わってしまったのです。

その3>>

© 2010 Takamichi GO

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