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海を渡った日本の教育

第4回 小林美登利と聖州義塾

吉田松陰の松下村塾、福沢諭吉の慶応義塾、弘前の東奥義塾などの例を引くまでもなく、日本の歴史は連綿たる私塾教育の伝統を持っている。大阪大学医 学部の前身が緒方洪庵の適塾ということを考えると、官立学校もまた私塾の伝統の上に創られてきたことは否定できない。彼らこそ、日本的教育文化の一つの源 と言ってよいであろう。実際、ほぼすべてのブラジル日系教育機関も小規模な私立学校、すなわち私塾として出発した。

前回述べたように、「コロニア一の学校」として教師や設備の質を誇った大正小学校でさえも、教師一人、生徒三人、教室は一般家屋の間借りという私塾からはじまった(本連載第2回参照)。それゆえ、ブラジル日系社会では、限られた条件の中でさまざまな特徴ある学校を生み出された。小林美登利(こばやし・みどり1891-1961)の聖州義塾も、そんな特徴ある学校の一つである。

「聖州義塾設立趣意書」によると、「神は我母の胎出でし時より我を選び置き我を異邦人間の伝道者たらしめんとし給ふた」という使徒パウロの言を高ら かに引き、1922年9月7日ブラジル独立記念の日、聖州義塾は設立された。といっても、すぐに学校、教育機関として機能しはじめたわけではない。実際の 開講は約3年以上も後、一人目の入塾者カルロス堀岡の入った1925年10月からである。

創立者の小林美登利はプロテスタントの牧師・教育家だが、彼の閲歴を調べれば調べるほど、その超人ぶりに驚嘆させられる。キリスト者にして、武道 家。教師にして、冒険家。事業家にして、民謡や古代文化の研究家、福島県人会会長などさまざまな顔を合わせ持ち、戦前から戦後にかけてのブラジル日系社会 で、まさに八面六臂の活躍をした人物だった。

小林は、1891年1月8日、福島県大沼郡田川村(現・会津美里町)佐布川に、父清八・母ミサの長男として生れた(写真4-1)。家は貧しかった が、向学心旺盛で、会津中学に進学。お国ぶりか「剣道が飯より好き」で、四年生の時、中学の剣道大会で七人抜き達成した(福島県立会津高等学校学而会, p146)。彼を知る友人の回想では、「一風変った会津武士の面影を持った人物で、名は体を表わすどころか、ミドリ等とは全く正反対なブルドーザーのよう な人」(五十嵐, 1991, p.184)だったという。中学在学中に会津若松教会で受洗し、卒業後同志社神学校に進んだ。

同志社を卒業した後、アメリカに渡り、バークレーの太平洋神学校、ニューヨークのオーボルン神学校を経て、1922年にブラジル渡航。1923年に 南米教会というブラジル初の日系キリスト教会を立ち上げ布教に努めただけでなく、先述したように聖州義塾を創立し日系子弟教育に貢献、多くの人材をブラジ ル社会に送り出した。

小林成十(小林美登利三男)「小林美登利氏閲歴」によると、「新来移民にはポ語教室を設け、在伯邦人子弟には、日本語を教えた。スポーツでは剣道、 野球、柔道を奨励指導し、また全伯柔剣道連盟の発起人の一人でもある」とあり、同塾の活動として、日本語・ポルトガル語クラス、柔道場、剣道場があったこ とが知られる。また、経営母体は寄宿舎が中心となっていた。私塾と寄宿舎が一体となって教育機関として成り立っていたことは、日本の伝統を引き継いだもの であろう。自身もの元塾生であり、後にブラジルを代表する具象画家となる半田知雄(1927月1月17日入塾)は、その著『移民の生活の歴 史』(1970)において、次のように寄宿舎の重要性についてふれている。

    日本人会の仕事の第一が教育事業であることは植民地の章でもかいたが、地方都市においては寄宿舎を経営して、主として、小学校以上のブラジルの学校に通わせたり、共同生活のなかで団体訓練をほどこしたり、日本語を教えたりした(p.504)

また、『ブラジル日本移民70年史』(1980)には、この塾について、「学校というより寄宿舎といった方がいいくらい、ここに宿をとり生活しなが ら、ブラジルの学校に通学させていた聖州義塾(1925年開塾)はプロテスタント精神のもとに日常生活の訓練から学業をすすめていた特殊教育機関ともいえ る。ここからも多くの人物を出している」(p.310)と記されている。義塾が開校した20年代半ばは、日系人口のほとんどが農村部に偏在していた。子ど もたちに中等以上の教育や「日本並み」の初等教育を受けさせるためには、サンパウロに出す必要があった。そんなわけで、サンパウロ中心部に近く、大正小学 校や聖フランシスコ学園もあったリベルダーデ地区に、日系の寄宿舎が必要とされたのである。

1928年、塾の基礎が一応できあがると、小林は義塾拡張の資金募集のため、一時帰国の途についた。アマゾン河を遡行しアンデスを越えペルー太平洋 側に出、パナマを経て日本に帰国するという冒険旅行であった。小林は南米大陸を横断した最初の日本人と言われるが、この旅は彼の豪傑ぶりを伝えている。日 本では、最晩年の渋沢栄一の知遇を得、渋沢はじめ三井・住友・森村など財界から多額の寄付を獲得、富山県出身の柳田冨美と結婚してブラジルに戻った。

「ここからも多くの人物を出している」と書かれたように、塾の『名簿』をひも解くと、河合武雄(剣道家・サンパウロ人文科学研究所創立者)、下元健 吉(コチア産業組合設立者)、米田栄(医師、日本病院副院長)、野村丈吾(連邦下院議員)、京野四郎(サンパウロ州議)などブラジル日系社会の錚々たる面 々が名を連ねている。また、塾生には多くの女生徒たちもいたことが、小林がつけていた日誌からもうかがえる。

小林が日本から戻った20年代末から30年代初めにかけては、校舎も増築され、塾生も増え、活動も充実した。中核となる寄宿舎事業とともに、夜間部 や日曜学校、サンタアナ分校、郊外に農場も経営するようになった。また、塾の機関誌『聖州義塾々報』『Jukusei』が編集・刊行された(写真 4-2)。

義塾の他の学校ともっとも大きな相違点は、剣道場を備えていたことであろう(写真4-3)。課外科目として柔道を教えている日系教育機関は多かった が、剣道は珍しかった。小林自身が剣道家(三段)であり、1933年に設立されたブラジル最初の日系武道団体である「伯国柔剣道連盟」の発起人の一人で あった。剣道そのものは、防具や竹刀を必要とするため、ブラジルで根づいたとは言えないが、柔道は世界屈指の選手を輩出するほどになっている。この連盟を 通じて、小林はブラジリアン柔術の祖前田光世(通称コンデ・コマ)とも親交を結んでいる。

前回も述べたように、30年代後半、ヴァルガス政権はナショナリゼーション政策を教育分野にも広げ、日系教育機関にも圧迫を加えていく。サンパウロ のマッケンジー大学でも学んだ小林は、ポルトガル語も巧みでブラジル人の友人も多く、彼のめざす教育理念は「大和魂をそなえたよきブラジル市民」の育成 だった。しかし、剣道のような日本武道の実践を奨励していたせいであろうか、家族へのインタビューによると、「当局に目をつけられていた」という。塾がガ ルヴォン・ブエノ通りという、サンパウロ最大の日本人集住地コンデ界隈に程近い場所にあったせいもあり、1942年には州保安局の命令によって、立ち退き に追い込まれている。伯国柔剣道連盟も同時期に解散した。

戦後、小林は福島県人会会長となり、1958年にブラジル日本移民50周年を記念して、『大和民族渡伯五拾周年福島記念誌』をほぼ独力で編纂・発行 した。50周年祝賀祭典は、第二次大戦後のブラジル社会において、日系コミュニティが復権・再生するための大きな画期となる事業であった。ただ、小林自身 は、いよいよ聖州義塾復興の事業に乗り出そうとした矢先の1961年3月21日、脳溢血のため召天してしまう。享年70歳であった。同年10月には、彼が 少年時代に洗礼を受けた故郷の会津若松教会で追悼式が行われた。

参考文献

五十嵐勇作(1991)「ブラジルで活躍した小林美登利」『同志社談叢』11巻 同志社社史資料センター

小林成十(発行年不詳)「小林美登利氏閲歴」(私家版)

小林眞登(2008)「ブラジル剣道の簡潔年表」(私家版)

小林美登利(1922)「聖州義塾設立趣意書」小林美登利編(1930)『聖州義塾々報』第1号に再録

福島県立会津高等学校学而会編「劔道部記事」『学而会雑誌』(復刻版)pp.142-148

半田知雄(1970)『移民の生活の歴史-ブラジル日系人の歩んだ道-』サンパウロ人文科学研究所

ブラジル日本移民70年史編纂委員会(1980)『ブラジル日本移民70年史』ブラジル日本文化協会

 

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© 2009 Sachio Negawa

Brazil education

Sobre esta série

ブラジリア大学の根川幸男氏によるディスカバー日系コラム第2弾。「日本文化」の海外展開、特に中南米での事例として、世界最大の日系社会を有するブラジルの戦前・戦中期 から現在にいたる日本的教育文化の流れと実態をレポート。