Descubra Nikkei

https://www.discovernikkei.org/pt/journal/2007/5/4/brazil-nippon-dayori/

サンパウロ州の牧草地の広さとその理由

その気になればすぐに海岸線まで出られる土地に長く住んできたので、サンパウロ州内陸部の、海まで600キロはあろうかという町で暮らすことが、自 分の気持ちにいったいどんな影響を及ぼすものだろうという興味があった。たとえば海が懐かしくてうずうずし、いてもたってもいられなくなるとか。


しかし実際には、なんとなくおさまりがよくて、たまに「いやあ、海が見たいですねえ」などと言ってはみたもののなんということもなかった

それでも、子供の頃から頭に焼き付いたいろんな海の風景があるせいだろうか、ふとした景色を海と錯覚することがあった。

景色と言っても、それはサンパウロ州の奥地とサンパウロを結ぶ幹線道路を、真夜中に疾走する長距離バスの窓から見える牧草地の風景だ。

ブラジルの長距離バスの豪華さ快適さは、何度でも土産話にしたいぐらい素晴らしいものだったが、それでも深夜に一度は目を覚ます。目が覚めると、エンジン音や眠らない人たちのひそひそ話を耳に、反射的にカーテンをずらす。そこに真っ暗闇が広がっている。

サンパウロを出て奥地に向かい始めると、一時間もすればあとは町までたいして変わり映えのしない景色が続く。昼間ならば、地平線まで広がる牧草地と、わ ずかな立ち木、ときどき牛の群れ、といったところだ。日が落ちてしまうと、街灯があるわけではなし、人家もまばらなので、大きな月でもかかってなければほ ぼ完全な闇なのだ。

やはり半分寝ぼけているということなのだろう、そんな闇を見ていて、ここは日本で、今自分は住んでいた町にある長い海岸線を走っているのだと一瞬勘違いする。夜の海原は、ちょうどこんな風にどこまでも広がる深い闇として見えるものだ。

正気に戻ると、今度はわざとあれは海なのだと思うことにし、まれに見える遠くの明かりは、まるでイカ釣り船のようだなあ、などとぼんやりしていればそのうちまた眠りにはいった。

それにしても、といつも感じたのは、なんとまあ広い野原だということだ。

サンパウロ州に広がるこのだだっ広い野原は、もとはマットと呼ばれる原生林だったという。マットが牧草地にかわった背景にはこんな物語がある。

ここを主になって切り拓いたのは、約100年前、ある国から船でブラジルにやってきた移民とその子孫たちだった。財産を作って故郷に帰る―ほとんどの移民はそういう腹積もりだった。

最初かれらは大きな農園に雇われて働いた。ところがその暮らしでは思い描いていたような財を築くことはできなかった。契約満了を待たずに農園を去り、町に出るものもあった。あるものは、どうにかこうにか資金を作り、やがて土地を買って自作農になっていった。

自作農として農民の道を選んだ者たちは、同じ言葉を使う仲間同士で集まった。手に入れた土地には、マットが広がっている。皆で力を合わせて、時にはブラジル人たちの力を借りながら原生林を切り拓いていかなければならなかった。
木を伐り倒し、乾くまで待って火を放ち、種を植える。自分たちの国ではまず経験しない農業だった。彼らの国では、手間をかけてよい土を維持していくことで成り立つ農業が主流だった。だから先祖から受け継いだ農地は、狭いながらも毎年収穫をあげた。

切り拓いて初めて作物を植える土地は、木の灰のわずかな肥料だけでもよく稔った。

まず植えたのは、祖国を離れるきっかけにもなった「金のなる木」、珈琲だ。そのうち棉が売れるようになると棉を植えた。大きな戦争が起きると生糸や薄荷が高く売れるようになり、養蚕のために桑を植え、薄荷を植えた。

財を成して故郷に帰るのだから、その時売れている作物に飛びつくのは当然だった。けれどもそれは安定しなかった。買っているのはどこか遠い国らしく、そ この事情次第で価格は前触れも無く下落した。うまくいって故郷に帰るものもあったが、これではまだ帰れない、と考える人も多かった。

問題は作物の価格ばかりではなかった。土地が年々痩せていくのだった。

ある土地では、棉ブームに乗って皆が棉を作ったが、その翌年から目に見えて木が弱り、徐々に収量が落ちていった。その土地はそもそもそれほど肥沃ではなかったのだ。これは後からはっきりしたことだ。

研究熱心な人びとだったから、土地の疲弊を防ぎ、収量を増やす工夫をあれこれしたが、追いつかなかった。そこでふと目を転じると、奥地にはまだ広大な マットが広がっている。あのマットをまた切り拓いて農地にすれば・・・・当たり前の発想だった。そうしてさらに奥地に入り、木を伐り、焼き、種を植 え・・・・・・。そうやってかれらはサンパウロ州の奥へ奥へと、先頭きって開拓していったのだと言われる。新しくマットを切り拓くたびに、懐かしい故国へ と通じる海からは、どんどん遠ざかっていったのは皮肉だとしかいい様がない。

ずいぶん単純化してしまったけれど、もちろんこれは日本人移民のことだ。その頃の人が、「日系人が通った後には草一本はえない」とブラジル人に言 われたもんさ、と話してくれたことがある。日本人移民を苦しめた大敵といえば蟻、ブラジルでサウーバと呼ばれる葉伐り蟻で、せっかく葉をつけた棉が一夜で 丸坊主にされたという苦労話はあちこちで耳にしたが、ブラジル人たちの目には、日本人移民が巨大な葉伐り蟻のように映っていたのかもしれない。

隣接するパラナ州にはテーハロッシャという赤土がある。洋服に付くと取れないことで悪名高いこの土は、粘土を含んだ良質な土だ。ほとんど60年間そこに肥料を入れずに農業を続けたという話も聞いたことがある。

サンパウロ州の土地では、そんなところを相手に農業をするのは難しい。結局のところ、草地にして牛を放しておくのがいちばんいい、ということになる。そうやってあの広大な野原はできたらしい。

それにしても、と思う。この海のように広い土地を切り拓いて行ったエネルギーというのは、本当に、とてつもないものではないか。

© 2007 Shigeo Nakamura

Sobre esta série

Uma comunidade japonesa em uma pequena cidade do interior do estado de São Paulo, Brasil. Esta coluna está dividida em 15 partes e apresenta o estilo de vida e o pensamento das pessoas que ali vivem, ao mesmo tempo que incorpora a história dos imigrantes japoneses no Brasil.

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About the Author

Pesquisador do Instituto de Pesquisa Regional Asiático da Universidade Rikkyo. Durante dois anos, começando em 2005, trabalhou como curador em um museu histórico em uma cidade remota no estado de São Paulo, Brasil, como jovem voluntário enviado pela JICA. Esse foi meu primeiro encontro com a comunidade japonesa e, desde então, tenho me interessado pelos 100 anos de história da imigração japonesa no Brasil e pelo futuro da comunidade japonesa.

(Atualizado em 1º de fevereiro de 2007)

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