5 移民を授業する - 日系アメリカ人の記憶から学ぶ: ヘンリー・S・ヤスダ さん

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日本の学校で使用する教材作成のために、全米日系人博物館でボランティアガイドをしているヘンリー・S・ヤスダさんにインタビューをしました。第二次世界大戦開戦時には日本にいて戦後アメリカへ戻り、アメリカ軍として朝鮮戦争へ。日米の狭間で苦しんだ二世の想いを語ってくださりました。山口県人会の活動にも勢力的に取り組んでいるそうです。 >> インタビュー記録の印刷 (PDF) © 2008 多文化社会米国理解教育研究会

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ヘンリー・ヤスダさんのご両親

帰米二世、ヘンリーさんのお話は、祖父のイソキチさんが、1898年、ハワイでサトウキビのプランテーションで働くために移住したことから始まります。

当時、ハワイへ官約移民として移住した移民の約3分の1は山口県出身でした。

父のセイイチさんは、1905年、日本で生まれました。1923年、奥さんのツルさんを連れて、おじいさんのいるアメリカへやってきました。

Henry Yasuda's parents
提供: yn

ヘンリーさんはカリフォルニア州のパサデナで、1928年に生まれました。

その1年後、祖父母がいるアリゾナ州メサへ移住しました。当時、ヘンリーさんの祖父母は、アリゾナでメロンなどの栽培を行っていました。

写真は、ヘンリーさんの1歳の誕生日です。

Henry Yasuda, the first birthday with his family
提供: yn

その後、ヘンリーさんの父はアリゾナで小さな食料品店(Yasuda Grocery)の経営を始めました。ヘンリーさんは、店の掃除や商品の陳列など、お店の手伝いをしました。

写真
左から後列: 祖父のイソキチさん、父のセイイチさん
前列右から: 祖母サトさんと妹ベティーさん、姉のサヨコさん、ヘンリーさん、母ツルさんと弟ケンさん。

Henry Yasuda: Family grocery store in Mesa, AZ
提供: yn

日本へ

1934年、ヘンリーさんが6歳のとき、祖父母のイソキチさんとサトさんは、日本へ帰国。ヘンリーさんは、1938年の8月、日本で勉強をするため、すでに日本へ戻っている日本の祖父母のところへ一人送られました。

<<インタビューより抜粋>>
第二次大戦の勃発の時,私は日本にいた。1930 年代に生まれた日系アメリカ人の多くは日本で教育を受けさせるために日本に送られた。私もその一人だったのですが、家族の中で自分だけが日本にいたのです。

戦争前にアメリカに帰っていった者もいれば、戦中・戦後にアメリカに帰国した者もいる。この人たちを「帰米二世」といって、日本の伝統文化も学び,アメリカの社会に育った彼らは日米の重要な橋渡しの役割を果たしているのです。二世は一番苦しい立場に置かれた人々なのです。戦争が始まって一世と三世の間の二世が一番犠牲になっているといえるのです。

Henry Yasuda: Going to Japan
提供: yn

1941年に、姉と弟が日本へきました。写真は、その時に姉弟と祖母と取った写真です。

その後、戦争が始まり、アメリカにいる家族と音信不通になり、消息がわからなくなってしまいました。

Henry Yasuda with his brother and sister
提供: yn

<<インタビューからの抜粋>>
二世の人々がアメリカ軍に志願しようとしたときに、その親は日本人でありながらアメリカ軍に入ることを強く責めることもあったのです。事実戦場で兄弟が別れて日本軍とアメリカ軍の両方に属しながら戦場で戦うという悲劇が起こっていたのです。親の絆の強い日本とアメリカへの忠誠を誓う二世との親子の断絶という問題があったのです。さらに三世は完全にアメリカの社会に育ったことで、やはり二世が一番狭間の中で悩み苦しんだと言えるのです。

442nd
提供: BShindo

アメリカに残された両親は、テキサス州のクリスタルシティの収容所へ送られました。

<<インタビューからの抜粋>>
収容所体験は日系人の意識を大きく変えました。強制収容の事実そのものをアメリカ国内でまだ認めない人もいるんです。強制収容所にいれられた体験をしたのは一世とその子どもです。一世の人々は自分たちが強制収容所に入れられたのは反米運動を起こしたという嫌疑をかけられたからですが、そういうことが無かったとしても、日本人は連対意識が強いので、もしかしたらそういう情報を流した者がいたのではないかという全体責任の意識を強くもっている人がいる。罪を犯した人がいた場合には、法律よりも日系人の社会の制圧の方がつよかったと聞いたことがあります。それは法に罰せられるよりも恥として厳しく罰せられたそうです。多くの日本人の社会には黙って仕方がないという苦渋を堪え忍んだという事でしょう。

Camp buildings at Heart Mountain (Evans_04)
提供: HNRC

1954年5月15日、ヘンリーさんはヘレンさんとロサンゼルスのリトル東京にある西本願寺で結婚しました。

Henry and Helen: Happy marriage
提供: yn

1953年、ヘンリーさんはアメリカ軍へ徴集され、1955年まで朝鮮戦争へ従軍しました。
この写真は、1954年、韓国のソウルで取ったものです。

Henry Yasuda in U.S. Army
提供: yn

<<インタビューからの抜粋>>
次の世代の二世も一世の気持ちを受け継いでアメリカ社会で初めからやりなおすという意識で一生懸命に頑張ってきたのです。いわゆる「服従的な日本人」(Quiet Japanese)とよばれている人々の持っている美徳意識なのです。でも三世になると彼らはアメリカ社会の教育で育ち,罪を犯していないのになぜ日本人たちは公聴会もなく裁判もなく強制収容されたのかという事実を追究していったのです。戦争が終わって再び生きる道を日本に求めたのです戦争はいったん始まれば、やはり「日本人」としてあることを意識せざるを得なくなります。結局のところ髪が黒い限り日本人であると見られるのです。戦争が終わって収容所からで出た日本人の中には,なんとか日本的な要素を取り払ってアメリカ人以上にアメリカ社会にとけ込もうと努力した人々もいました。私の友達も仏教からキリスト教に変わり,日本学校に通わせていた子どもとアメリカの学校に変えたりしたのです。

この写真は、戦争で離れ離れになった家族らが、26年後ロサンゼルスのボイルハイツで再会した時のものです。

Henry Yasuda: Familiy reunion
提供: yn

<<インタビューからの抜粋>>
でもだんだんアメリカが戦後復興していく時期になり,アメリカ社会の家庭崩壊の危機が問題になってくると、それを見た多くの二世たちは,アメリカ的な教育をしていることへの不安が募ってきたわけです。自分たちの子どたちの育てかたに関してどこによりどころを求めるべきかと考えるようになったのです。その当時日本も徐々に経済復興がなされるようになるとすべてに日本を否定しのです。いわゆる U ターン現象といってもいいですね。

写真:ヘンリーさんとヘレンさんは、1996年、第1回Nikkei Parents dayで表彰されました。

Henry and Helen Yasuda: Parents of the Year
提供: yn

80歳のヘンリーさんの誕生日を祝い、ヤスダ一家が集まりました。

Yasuda Family in front of Japanese American National Museum
提供: yn

プロフィール

1928 年 カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。1938 年,親が教育のためにと日本の山口県へ一時帰国させる。1948 年アメリカへもどる。1953 年アメリカ軍に徴兵され,1953年~1955年まで朝鮮戦争に従軍。1955年~1964年までアメリカの国防省の仕事で東京に滞在勤務〔貿易と外交を担当〕 信仰:仏教(浄土真宗)

日系アメリカ人の個人史をつむぐ - ヘンリー・S・ヤスダ さん
提供: team-nikkei-usa


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