おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。
* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。
このシリーズのストーリー
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(6)
2015年8月10日 • ブロケット ゆり
第5章(5)を読む >> 4. 子どもにとっての痛み 収容体験が子どもにあたえた影響は、一人一人異なりますが、年齢、それまでの生活環境、サポートグループの有無、親の精神的安定度等によって大きく違ってくるようです。日系アメリカ人であることだけで、収容所にいれられたわけですから、日系であることを恥じたり、日系であることに罪の意識をもつことになりました。 しかし、幼少期を収容所で過ごした多くの人は「楽しかった」、「一日中野球をしていて楽しかった」と言います。親が子どもを守っ…
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(5)
2015年8月3日 • ブロケット ゆり
第5章(4)を読む >> 公聴会———1981年 7月から12月にかけてアメリカ各地で開催された公聴会が、シアトルにやって来た時のことです。その頃、マコ・ナカガワの父親は、自らの米寿の祝いに誰を招待するかで頭が一杯だったのですが、この公聴会で証言することは大事なことだと考えて、娘と一緒に参加しました。 父は耳が遠くなっていたので、二人で合図を決めました。ポン、ポン、ポンと父の肩を軽く3回叩くと、「始めて、お父さん。何でも好きな事…
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(3)
2015年7月20日 • ブロケット ゆり
第五章(2)を読む >> 2. 閉じた記憶をひもとき始めて <1960年後半から> 『マンザナールよ さらば』———ジャンヌ・ワカツキ 「ねぇ、おばさん、僕マンザナーってところで産まれたんだけど、どんなところだったの?」と、唐突に甥っ子に聞かれたの。実家の家族以外の者から聞いたはじめての「マンザナー」だった。そこでキャンプのこと、すごい砂嵐、まずい食事、どんな遊びをしてたか……を話している…
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(2)
2015年7月13日 • ブロケット ゆり
第五章(1)を読む >> もう一つの戦い 数々の手柄をたてたシロー・カシノたち第100歩兵大隊1を含む第442連隊戦闘部隊を前にして、1946年7月15日、トルーマン大統領は、ホワイトハウスの庭で「諸君は敵と戦っただけでなく、人種差別とも戦かった。そして勝ったのだ」と語りました。第442連隊戦闘部隊はその活動期間と規模からして、アメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊です。 しかし、これだけの活躍をして帰って来た第442連隊戦闘部隊の兵士たちにたいしても、一…
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(1)
2015年7月6日 • ブロケット ゆり
第四章(6)を読む >> そうです。青木祥子さんが前号(「子どもと本」第136号)の表紙に書かれたように、収容所を出た日系人は、長い間、負った傷をだれにも話さずに来ました。日系人には何の落ち度もなかったのですが、収容所に入れられたことで、何か自分たちに落ち度があったのかも知れないとの恥や罪の思い。話すことによって、心の底に埋めた怒りや痛みが吹き出してくることへの不安。済んだことは済んだこと、しかたがなかったとの諦め。子どもに食べさせるだけで精一杯で、他のことは考えられなか…