ディスカバー・ニッケイ

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~


2015年2月2日 - 2015年8月10日

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。


子ども クララ・E・ブリード 司書 サンディエゴ 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

このシリーズのストーリー

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(6)

2015年5月18日 • ブロケット ゆり

第三章(5)を読む >> 外の空気、自由の味 ヨシコの父親と母親が、転住局の特別許可をもらって、ハートマウンテンにいる父親のお母さんと妹を訪ねたことがあります。かごの鳥のような生活は知らず知らずのうちに、身と心に澱のようなものをためさせます。ヨシコは二人が帰って来た時の様子に驚きました。 戦争が勃発して以来初めて自分の母と妹に会えたことは、はかり知れないほど父の元気を回復させた。だがそれにも増して、二人の生気をよみがえらせたのは、ほんのしばらくの間だけでも父と母が有刺…

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(5)

2015年5月11日 • ブロケット ゆり

第三章(4)を読む >> 2. 1943年子どもの日常———冬 1ヶ月前から、ハートマウンテンの大人たちは、管理局も日系人も力を合わせて、収容所内に数カ所ある窪地に、消火栓のホースで水をまき、アイススケート場をつくっていました。待ちに待ったスケートリンクのオープニングは1月19日。1 前の週から気温が下がりはじめ、オープニング当日は摂氏零下33度を記録しています。異常な環境にあっても、出来るだけ子どもたちを楽しませたいと力を…

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(4)

2015年5月4日 • ブロケット ゆり

第三章(3)を読む >>収穫の手伝い———晩秋 実りの秋でもあります。農産物の収穫期ですが、カリフォルニア、アリゾナ、アイダホ、ワイオミングとどこの農園でも人手不足に悩んでいました。いままで収穫に携わっていた者は、兵役にとられたり、軍需景気にわいていた都市に出かけたりしていて、誰もいません。困った知事は、地元出身の上院議員や戦時転住局に「愛国者の義務として」日系人被収容者に刈り入れを手伝わせるようにかけあいます。囲いからでるチャンスですか…

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(3)

2015年4月27日 • ブロケット ゆり

第三章(2)を読む >> 学校のない九月———秋 アメリカの学校の1年は6月に終わり、約3ヶ月にも及ぶ長い夏休みをはさんで、9月から新しいスタートを切ります。9月、夏の間に大きくなった背丈に見合う新しい洋服とノートや鉛筆を用意してもらい、久しぶりに友だちと再会するのは楽しみです。しかし、1942年の9月は、強制収容所に移ったばかりの日系の子どもたちにとっては勝手が違いました。シアトルで通っていたガーフィールド高校のウィルス先生にあてたマサ…

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(2)

2015年4月20日 • ブロケット ゆり

第三章(1)を読む>>収容所内新聞から見るコミュニティ図書館 各収容所では当初ガリ版刷で新聞が発行され、WRAからの通達からコミュニティ・ニュースまでを、各家庭に届ける重要な役割を担っていました。WRAは、この新聞にも、原稿をまとめた時点で、ロウ原紙に鉄筆かタイプライターで書き上げた時点で、そして、印刷した時点でと、3回も入念な検閲を課していました。マンザナーにあったのは、マンザナー・フリー・プレスという名前の新聞でしたが、ある被収容者は「なにがフリー・プレスだ。フリーなの…

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(1)

2015年4月13日 • ブロケット ゆり

第二章(6)を読む>> またもや受け入れ準備不完全なまま、陸軍は「集合所」から人里はなれた内陸部にある「転住所」に日系人を移動させることを決行。ピュアラップ仮収容所から、普段使われていない古い車両で、2日間、窓のシェードを下ろしたまま、硬い座席に座って煤だらけになり、ようやくミニドカについた日系人を迎えたのは、見渡す限りの砂漠と砂嵐。1 それと、1942年9月10日付けキャンプ内新聞、ミニドカ・イリゲーター創刊号に掲載されたこの言葉でした。 我々がここにいるのは…

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このシリーズの執筆者

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新