ディスカバー・ニッケイ

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移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民


2022年3月7日 - 2022年4月18日

「移民」というと、ある国から別の国へと移住したきり、のようなイメージを持たれる方もいるかもしれない。それぞれの国ごとの移民史では、そこに定住した人々の物語は記録されていきやすいが、行ったり来たり、また国や地域をまたいで移動し、生きていく人々の物語は、そのはざまの文化と言語の中で見えづらくなることもある。

ロサンゼルスの日本人コミュニティーと日系人コミュニティーの両方で暮らす中で、また全米日系人博物館での仕事を通して、「二世」「三世」「帰米」といった歴史的によく使われる言葉に付随する典型的なイメージとは異なった、それぞれの個人ごとの豊かな物語を持つ人々に出会う機会が数多くある。このシリーズでは、そうした環境の中で出会った、主に日本語を第一言語とする戦後の帰米・日系移民の方々の物語を記していきたいと思う。



このシリーズのストーリー

清野敏幸さん—その7:JALでの日々、そして柔道名誉殿堂入り

2022年4月18日 • 三木 昌子

その6を読む >> 空港勤めの仕事は、週末がないこともしばしば。そして1966年には息子が誕生し、敏幸、妻のみどりの生活は一気に忙しくなっていく。そんな中でも敏幸は時間があれば庭に出て一人で柔道の練習を続けていたという。1967年にはソルトレイクシティーで世界選手権大会があり、アメリカ代表として出場した敏幸は4位に入賞する。「最後に大会に出場したのは1970年ですね。その時は僕も30歳になっていました」。最後のUSナショナルチャンピオンシップでは、階級別で2位と有終の美を…

清野敏幸さん—その6:除隊、就職、結婚

2022年4月11日 • 三木 昌子

その5を読む >> この間、敏幸の人生は大半が柔道であったとはいえ、それだけに占められていたわけではない。1960年の3カ月の日本滞在では、大切な出会いもあった。 「講道館は週末が休みだったので、神戸のいとこのところに行ってこようと。その時に(のちに妻となる)みどりのお兄さんに『妹が京都で看護婦学校に行っているから会って来てくれ』と言われたんです」。そして、ちょうどその週末に会った神戸商業高校時代の友人と共に、京都を訪れる。 その時のことを思い返して、「連絡をとって『…

清野敏幸さん—その5:アメリカ空軍に入隊

2022年4月4日 • 三木 昌子

その4を読む >> 敏幸の1959年以後を辿る前に、いったん敏幸の家族のストーリーを辿っておこう。1956年にアメリカに戻ってきた敏幸だが、父母や弟妹らも翌1957年にロサンゼルスに戻っている。この頃、1952年の移民法改正によって日本からの移民は年間185人に限って許可されていたが、市民の家族の呼び寄せはその人数制限の対象外であった。 「父は日本でナイロンストッキングの原料を輸入して製品化する仕事をしていました。そのストッキングの材料の製造元に行って、そこで自分の会社…

清野敏幸さん—その4:アメリカに帰国し、柔道を始める

2022年3月28日 • 三木 昌子

その3を読む>> 2週間の船旅の後、ロサンゼルスのサンペドロに到着。そこから迎えの車でデンバーに到着したのが1956年6月のことである。1週間ほど父の友人宅に世話になった後、敏幸はアメリカ人の白人の家にスクールボーイに入った。スクールボーイとはかつて日系移民の学生らがよく行っていた住み込みのいわゆる家政婦のような仕事で、アメリカ人の家で部屋を間借りし、皿洗いや掃除、子守り、料理など家の仕事をして少額の給金をもらい、学校に通うものであった。 敏幸のスクールボーイ先の近…

清野敏幸さん— その3:ツールレイクから帰還船で日本に

2022年3月21日 • 三木 昌子

その2を読む >> 1945年末、オレゴン州ポートランドから、清野一家は横須賀へと向かうゴードン船に乗り込み、父母の故郷である鹿児島県の津貫へと向かった。戦後の日本での新たな生活は十分な食糧もなければ、田舎にはいまだ水道も通っておらず井戸から水を汲むような生活だった。敏幸はここで津貫小学校の2年生に進学する。 「確かツールレーキでは学校は日本語だけでしたので、帰って2年生にすぐに入りましたが、日本語はあまり不便しなかったですね」。 全米各地の収容所にはアメリカの公…

清野敏幸さん— その2:ローワー強制収容所からツールレイク強制収容所へ

2022年3月14日 • 三木 昌子

その1を読む>> 清野家は、戦争の直前にはホーソンに家を購入し、かなり大きな規模の農園を営んでいたという。しかし1941年、太平洋戦争が勃発。翌年、強制立ち退き命令を受けて、一家は自宅も農園も置いて立ち退いていくことになる。サンタアニタ競馬場に作られた集合センター(アッセンブリーセンター)を経て、俊一、敏幸、達夫と小さい息子3人を連れた松吉と文子は、アーカンソー州のローワー強制収容所へと送られた。そこで娘の弘子が誕生。そして北カリフォルニアのツールレイク収容所に194…

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このシリーズの執筆者

三木昌子は、全米日系人博物館・日本語渉外担当として、日本人や日本企業に向けてのマーケティング、PR、ファンドレイジング、訪問者サービス向上などを担っている。またフリーランスの編集者、ライター、翻訳者でもある。2004年に早稲田大学卒業後、詩の本の出版社、思潮社に編集者として勤務。2009年渡米。ロサンゼルスの日本語情報誌『ライトハウス』にて副編集長を務めた後、2018年2月より現職。

(2020年9月 更新)