ディスカバー・ニッケイ

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ニッケイ物語 8—ニッケイ・ヒーロー:私たちの模範となり、誇りを与えてくれる人


2019年5月7日 - 2019年10月18日

「ヒーロー」という言葉は、人によって異なる意味を持ちます。このシリーズでは、日系ヒーロー、すなわち彼らが人々に与えた影響についてさぐってみました。あなたのヒーローは誰ですか?あなたのヒーローはあなたの日系アイデンティティまたは日系人とのつながりにどのような影響を与えましたか?

ディスカバー・ニッケイでは、2019年5月から9月までストーリーを募集し、11月12日をもってお気に入り作品の投票を締め切りました。全32作品(英語:16、日本語:2、スペイン語:11、ポルトガル語:3)が、アルゼンチン、オーストラリア、カナダ、日本、ブラジル、米国、ペルー、メキシコより寄せられました。

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編集委員によるお気に入り作品:

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遺産 (legacies) ニッケイ物語(シリーズ)

このシリーズのストーリー

ミネ・オオクボ

2019年10月3日 • エドナ・ホリウチ

ミネ・オオクボは、日系アメリカ人強制収容所での体験を記録した画集、『市民13660号』でもっとも良く知られるアーティストです。私がカリフォルニア大学リバーサイド校の学生だった1979年、ミネは私のヒーローになりました。当時20代の若い女性だった私は、第二次世界大戦を生き抜いた“最も偉大な世代”のひとりであるミネの偉業に勇気づけられる思いでした。ミネは、自分の心に従い、堂々と生きていました。女性アーティストとしても、人生においても自らを貫き、困難な経験…

大統領2人、上院議員2人、母親2人…そして父親も2人

2019年10月1日 • リンダ・クーパー

親友のブレンダと私は、両親が生涯を通じてどれほど多くの変化と歴史を目の当たりにしてきたかについてよく話してきました。私たちは一人っ子で、アメリカ南部で生まれ育った米軍人の父親と日本人の母親の娘です。 私たちの両親は20世紀の歴史の大部分を生きてきました。そして、その娘である私たちもまた、その歴史の生き証人です。 1985年から、私はワシントンDCでテネシー州の米国上院議員2名の報道担当官を務めるという大きな栄誉に恵まれました。高校生と大学生の頃、第二次世界大戦中の日系アメリ…

私の父はツールレイク不忠誠者

2019年9月27日 • ケイコ・モリヤマ

私は、父の強さと勇気を永遠に称えるでしょう。第二次世界大戦中、私の父は若くしてアメリカの強制収容所に収容されるという苦渋を強いられたものの、人生を情熱的に忍耐強く生きました。 1921年6月6日、父はカリフォルニア州サンタアニタでセロリ農場の経営に成功した移民の両親の元に生まれました。5歳の時、病気の祖父の看病をするために両親と共に日本へ帰国、その後日本で子供時代を過ごしました。それから長い年月を経て、私の祖父は、父がどんなに賢く勉強熱心で、生まれながらのリーダーであった…

私のヒーロー:キヨシ・クワハラ

2019年9月26日 • フジコ・クワハラ

幼い頃の私のヒーロは、立派な功績持ち素晴らしい行いをする人でした。しかし、時が経つに連れ、私のヒーロー像は変わり、今では全く違うものとなっています。ペルー日系人協会にある「ピオネーロス(パイオニアという意味)」という日本人移住者データバンク(1899年~1941年)のおかげで、私ははじめて祖父の情報を得ることができ、戸籍謄本を手に入れることができました。そうすることで、今の私の一番のヒーローであるキヨシ・クワハラという人物について少しイメージが浮かぶようになりました。 私…

飯室正夫: 不正義と迫害を克服したコミュニティの強さと模範

2019年9月20日 • セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

2007年に私が飯室正雄氏にはじめてお目にかかったときは、同氏のことはかなり把握してつもりである。同氏は、名古屋市出身で1940年末19歳で日本から出航してメキシコに向かったのだ。また、1942年5月に拘束された詳細な理由も、そしてその後にレクンベリのイスラ・マリア島刑務所からベラクルスのペロテ要塞に収監されたことも把握していたし、明かな起訴内容も公判審理もなく「危険外国人」として釈放される1949年まで7年間も刑務所で過ごしたということも知っていた。 アメリカ政府の一部…

フジサカ・ミヨコ、95歳—わたしたちのヒロイン

2019年9月16日 • イラシー・メグミ・ナゴシ

フジサカ・ミヨコは1924年9月24日、川内貞吉とクリの長女として大阪で生まれました。2人の兄とともに両親に連れられ、移民船「らぷらた丸」でブラジルのサントス港に着いたのは、1933年1月9日でした。 一家はサンパウロ州北西のコーヒーと綿の植え付け農園に入植しました。 両親と兄2人は農園で働き、少女のミヨコは妹の面倒と家事を任されていました。 1941年にミヨコの父親が亡くなり、母親は子供たちを連れてサンパウロ市に引越しました。 ミヨコはリベルダーデ区のカンポス・サ…

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このシリーズの執筆者

マルコ・カラスコ・ビジャヌエバは、アジア太平洋経済(中国と日本)と行動経済学を専門とするペルーの経済学者です。サンマルコス大学(ペルー)を卒業した経済学者、パリ第一大学ソルボンヌ校(フランス)で経済学および心理学の研究修士号を取得、上海社会科学院(中国)を卒業した若手中国学者。カルロス・アキノ教授の弟子であり、アジアグループの創設メンバーの一人。彼は現在、マサチューセッツ州ケンブリッジに住んでおり、ハーバード大学 (米国) で国際開発の大学院で研究を続けています。

最終更新日:2019 年 9 月


コミュニケーション・コンサルタント兼フリーランス・ライター。広報、米国上院議員担当報道官、ジャーナリストとして30年以上の経験を持つ。ミシシッピ女子大学でジャーナリズムと政治学を専攻し、文学士を取得。テネシー在住。親友のブレンダは医療研究機関に勤める公認看護師で、家族の近くで暮らしている。


(2017年9月 更新)

 


ジョナサン・エト博士はトロント生まれの日系三世カナダ人で、カナダのミシサガでプロのカイロプラクターとして働いています。彼は、日系ボイスで写真撮影や記事の執筆を積極的に行い、OHLミシサガ・スティールヘッズのチームカイロプラクターとしても活動しています。

2019年6月更新


ライアン・フォードは日系アメリカ人の三世で、カリフォルニア州立大学サクラメント校で心理学の学士号を取得しています。彼はカリフォルニア州エルドラド郡に48年間住んでおり、ワカマツ茶業・絹織物植民地とエルドラド郡の日本史の独立研究者/歴史家です。

2019年9月更新


ハビエル・ガルシア・ウォング=キットは、ジャーナリスト兼大学教授で、雑誌『Otros Tiempos』のディレクターを務めている。著書として『Tentaciones narrativas』(Redactum, 2014年)と『De mis cuarenta』(ebook, 2021年)があり、ペルー日系人協会の機関誌『KAIKAN』にも寄稿している。

(2022年4月 更新)


ドワイト・ゲイツは退役した米国陸軍将校であり、日系アメリカ人退役軍人協会の会員です。妻のキャシーは、ケンドール・ジョーダン・フィールダー准将の孫娘です。夫婦はメリーランド州に住んでいます。

2019年7月更新


マーガレット・エディス・チセコ・ギノザは、沖縄移民の混血の子孫です。南カリフォルニアで育ち、ニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学を卒業し、現在はフロリダ州マイアミ大学ミラー医学部で医学博士号/公衆衛生学修士号取得候補者です。彼女の興味は、サーカス芸術、混血のアイデンティティ、パン作り、科学倫理、そしてインターネットに時間を費やすことです。

2019年6月更新


オーティス・ライト・ギノザは沖縄系アメリカ人の3世です。カリフォルニア大学サンタクルーズ校とマサチューセッツ工科大学を卒業し、都市計画と都市管理の分野でキャリアを積み、その後は陶芸、カリフォルニア原産の植物、旅行、妻や娘たちとの時間に集中しています。

2019年6月更新


日系オーストラリア人四世。19世紀後半にオーストラリアに移住したセツタロウ・ハセガワのひ孫。1960年に生まれ、日系であることに影響を受けて日本語を学び、何年も日本に住んだ。現在はメルボルンで日本の雑貨を輸入し、小売りと卸売をしている。

(2019年5月 更新)


セルヒオ・エルナンデス・ガリンド氏は、コレヒオ・デ・メヒコで日本研究を専攻し、卒業した。メキシコやラテンアメリカ諸国への日本人移住について多くの記事や書籍を刊行している。

最近の刊行物としてLos que vinieron de Nagano. Una migración japonesa a México [長野県からやってきた、メキシコへの日本人移住]  (2015)がある。この本には、戦前・戦後メキシコに移住した長野県出身者のことが記述されている。また、La guerra contra los japoneses en México. Kiso Tsuru y Masao Imuro, migrantes vigilados(メキシコの日本人に対する戦争。都留きそと飯室まさおは、監視対象の移住者) という作品では、1941年の真珠湾攻撃による日本とアメリカとの戦争中、日系社会がどのような状況にあったかを描いている。

自身の研究について、イタリア、チリ、ペルー及びアルゼンチンの大学で講演し、日本では神奈川県の外国人専門家のメンバーとして、または日本財団の奨学生として横浜国立大学に留学した。現在、メキシコの国立文化人類学・歴史学研究所の歴史研究部の教育兼研究者である。

(2016年4月更新)


サンパウロ州ツッパン生まれの日系二世。法律大学卒業労働問題専門。50年間人事畑のエクゼクティブ・ビジネスマン。ビジネスコンサルタント。ニッポ・ブラジル新聞のコラムニスト。

(2017年6月 更新)

 


ロサンゼルスの元教員。ロサンゼルス南部で行われているフローレンス・ニシダの農園ワークショップにボランティアとして参加し、洗心寺でも活動している。趣味は読書、太極拳、オペラ鑑賞。

(2023年6月 更新)


1940年オレゴン州ポートランド生まれ。ミズーリ大学医学部上級副学部長。娘のアシュリンはミシガン州グランドラピッズ在住。息子のマイケルはテキサス州ヒューストン在住。孫のエミリーとショーンは2人ともテキサスA&M大学で学んでいる。

(2019年6月 更新)


20世紀初頭南米に移住したキヨシ・クワハラの孫。チリ共和国のイキケで生まれ、32年前からカナダに居住。チリの大学で勉強し、助産婦の資格を取得。その後、イキケ助産婦協会の役員として活発な社会活動を行った。カナダへ移住後は、ビジュアルアーツ系の仕事をするかたわら、副業として画家をしている。近年、執筆することが好きであると気付き、これからはもっと自分のルーツである日本について書き続けたいと思っている。

(2019年9月 更新)


ナトゥラル・デ・クーニャ、SP、55年(1964年6月14日)、歴史学の教授、1989年より写真記者。

2019 年 9 月に更新


マルタ・マレンコ氏は、1945年に7人兄姉の末っ子として父タツゾウと母エステルのもとに生まれた。父を9歳の時にんなくした。母は、イタリアのジェノバ出身の子孫。アルゼンチンの北部で育ち、後に職を求めてブエノスアイレスに転住し、それぞれがブエノスアイレスで家族を築いた。夫はアルゼンチン人の獣医で、すばらしい二人の息子はメキシコに住んでいる。現在リタイヤして年金生活者の人生をエンジョイしている。

(2015年9月 更新)


ロサンゼルスで生まれ育つ。技術セクターのマーケティング職を退職後、トラベルライターの世界に飛び込む。最近モロッコについてのエッセイを旅行記アンソロジー『Deep Travels: Souvenirs from the Inner Journey』で発表。熱心な旅行者として自身の冒険をブログに書くことを楽しんでいる。今夢中になっているのは東京各地の探求。夫と虎猫と共にラスベガスで暮らしている。

モリヤマさんのツイッターインスタグラムはこちらです。

(2019年9月 更新)


1952年サンパウロ市生まれ。フジサカ・マサルとミヨコの末っ子。生後1年8ヶ月で父親を亡くしたが、幸せな幼少期および思春期を過ごした。兄ルイス姉アマリアとノエミアと「ペンサォン」の下宿人のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちに見守れて育った。

(2017年9月 更新)


 ロベルト・オオシロ・テルヤは、ペルー出身の53歳、日系三世。両親セイジョウ・オオシロとシズエ・テルヤは、父方も母方も沖縄出身(豊見城と与那原)。現在は、ペルーの首都リマ市在住で、市内で衣類販売の店を経営している。妻はジェニー・ナカソネで、長女マユミ(23歳)、長男アキオ(14歳)である。祖父母から教わった習慣を受け継いでおり、特に沖縄の料理や先祖を敬う象徴である仏壇を大切にしている。子供達にもこのことを守って欲しいと願っている。

(2017年6月 更新)


1999年東京都出身。東京学芸大学附属高等学校2年時にUnited World College派遣生として英国Atlantic Collegeに留学し、同校卒業。現在、京都大学法学部1年在学中。

(2019年10月 更新)


スモール・マウンテン(ペンネーム)は日系アメリカ人の四世。2019年の5月に法科大学院を卒業してオレゴン州の司法試験に合格。近いうちに弁護士として就労予定。趣味は俳句や日本語の勉強。

(2019年9月 更新)


ビバリー・スギモトはサンレアンドロのパシフィック高校に通い、カリフォルニア大学バークレー校で英語の学位を取得しました。1975年から1976年までカーンバレー高校で高校英語を教えていました。1976年にスタン・スギモトと結婚し、二人ともカリフォルニア大学ロサンゼルス校のビジネススクールを卒業しました。その後、ビバリーは1980年から1988年までIBMのマーケティング担当者として営業に携わり、その後2人の息子を育てるために退職しました。

2019年9月更新


ジョンはメアリー・スナダと結婚して40年になります。カリフォルニア州魚類野生生物局の海洋/漁業生物学者を退職しました。2人の間にはジェームズとデビッドという2人の息子がいます。ジョンは同局での研究に関連した科学論文を多数発表しています。また、セリトス・シニア・センターや日系ソーシャル・クラブでボランティア活動に携わっています。また、ロングビーチ・コイン・クラブの会員でもあります。妻のメアリーとともに、息子たちとシエラネバダ山脈の高地で釣りを楽しんでいます。

2020年9月更新


メアリー・スナダ氏は夫のジョンと結婚して43年になり、ジェームズとデイビッドという二人の息子がいる。元小学校教員で、ロサンゼルス統一学区の小学校に36年勤めた。現在は、オレンジ郡仏教会、全米日系人博物館、ゴー・フォー・ブローク全米教育センターの会員。好きなことは、釣りやダンス、そして昔からの友人たちや新しい仲間と旅行をすること。ディスカバー・ニッケイへもしばしば寄稿している。

(2023年10月 更新)


ケイラ・タナカさんは、2019年日系コミュニティ・インターンシップのインターンとして、日系アメリカ人弁護士会(JABA)と全米日系人博物館(JANM)に勤務しています。夏休み中、彼女は主に日系アメリカ人コミュニティに影響を与えた人たちへのインタビューや調査を行ってきました。現在、彼女はカリフォルニア大学リバーサイド校に通っており、4年目、最終学年を迎えます。

カリフォルニア州トーランスで育った彼女は、常に JA コミュニティに溶け込む場所がありましたが、このインターンシップの機会を得て初めて、家族や文化的背景をより深く知る機会を得ました。彼女は、ロサンゼルスの JA コミュニティ (およびリーダー) が彼女に与えてくれた機会と知識に心から感謝しています。将来、ケイラは法律の分野でキャリアを積み、さまざまなマイノリティ コミュニティに良い影響を与えたいと考えています。

2019年7月更新


チャック・タサカ氏は、イサブロウ・タサカさんとヨリエ・タサカさんの孫です。チャックのお父さんは19人兄弟の4番目で、チャックはブリティッシュコロンビア州ミッドウェーで生まれ、高校を卒業するまでグリーンウッドで育ちました。チャックはブリティッシュコロンビア大学で学び、1968年に卒業しました。2002年に退職し、日系人の歴史に興味を持つようになりました。この写真は、グリーンウッドのバウンダリー・クリーク・タイムス紙のアンドリュー・トリップ氏が撮影しました。

(2015年10月 更新)


日系三世、母方も父方の祖父母も沖縄県の与那原村出身。現在、英語・スペイン語のフリーランス通訳であり、Jiritsu(じりつ)というブログを運営している。このブログを通じて、個人的に関心のあるテーマやペルーの日本人移民またはそれに関連する研究課題などを発信している。

(2017年12月 更新) 


1996年、首都リマで生まれた。日系4世。大の猫好き。言語学専攻の学生で、歌手でもある。言語学は、ペルーカトリック大学で勉強している。ペルー日系人協会青年部の理事を務め、ペルー新潟県人会で活動をしている。日系社会の様々な行事で歌うのが好きで、熊本カラオケクラブのメンバーでもあり、ベントボックスというバンドでも活動している。

(2019年9月 更新)