東 繁春

(ひがし・しげはる)

1954年、広島県呉市に生まれる。1981年に渡米、ロサンゼルスの加州毎日新聞とサンフランシスコの日米時事新聞で、日本語記者として働く。そのご、朝日新聞ロサンゼルス支局の助手、共同通信社のロサンゼルス米国法人で日本語ニュース配信マネージャーを経験。1998年7月に月刊英字新聞Cultural Newsを創刊した。Cultural News はロサンゼルス近郊の日本美術展、日本文化イベントを紹介している。最近は、デトロイトでの日本美術展やポートランドの日本庭園の紹介も行っている。月刊新聞 Cultural Newsのウェブサイトはwww.culturalnews.com

(2018年3月 更新)

media ja

消し去られていた戦時強制収容所の記憶をよみがえらせたグループカウンセリングの記録映画「キャンプの子供たち」

カリフォルニア州立大学サクラメント校名誉教授のサツキ・イナ(伊那五月、70歳)は、1944年5月に、カリフォルニア州のツールレークの戦時強制収容所で生まれた。カウンセリングの専門家で、収容所生活を体験した日系アメリカ人の心のケアを手掛けてきた人だ。

その伊那さんがプロデューサーとしてかかわった強制収容所をテーマにした映画が2本あることは前回のエッセイで述べ、その一つである伊那さんの両親の体験を中心とした「絹の繭から」(From Cocoon of Silk)の内容を紹介した。

今回は、もうひとつの映画「キャンプの子供たち」(Children of the Camps、1999年制作)を取り上げる。

わたしは、この記事を書くために、何度も「キャンプの子供たち」を見ているうちに、この作品は日系アメリカ人の記録映画として、ぜひ後世に残さなければならいと、思うようになった。

「絹の繭から」はドラマ仕立てで、戦時強制収容を体験した日系人の心の動きを描いているが、「キャンプの子供たち」は100%ドキュメンタリーで、登場人物に俳優はいない。しかも、映像には、演技やシナリオがまったくなく、参加者の心の動きが、そのままに記録されているのだ。

そして、日本の視聴者にとってありがたいことには、映画「キャンプの子供たち」には日本語があり、その翻訳が非常に理解しやすいことだ。

「エンカウンターグループ」は、1960年代にアメリカで広がったグループカウンセリングの名称だ。わたしは、1970年代の前半、京都精華大学教授でアメリカ文化を紹介していた片桐ユズルさんが主宰した、当時の日本では非常に珍しかった実験的「エンカウンターグループ」を体験をした。

実は、映画「キャンプの子供たち」はカウンセラーの伊那さんがファシリテーター(エンカウンターグループの用語で、司会者のような立場で、参加者が発言しやすいような場を作る役)として、子供時代を強制収容所で過ごした日系の男女3人づつ、計6人の心の動きをとらえた「エンカウンターグループ」の記録だ。

わたしが日本で参加した「エンカウンターグループ」では、わたし自身の心や参加者の心の動きがどんどん変化し、そのことに驚き、感動を体験した。その体験を言葉や文字で再現することは不可能に思われたし、ましてや、その体験を映像で記録し、映画作品として公開することなど、わたしには、思いもよらないことだった。

非常にプライベートな面が多く、映画にはなりにくいグループカウンセリングの記録が、今でも映画作品として見る人を感動させるのは、戦時強制収容体験をした人が、12万人にもおよぶこと、そして、戦争終結から70年が経った今も、心の傷を持つ人が多くいること、つまり、映画の視聴者と映画の登場人物との間に、共通理解が存在することが理由だと思う。

映画「キャンプの子供たち」のナレーションは、「この映像は1990年代はじめのワークショップの記録である」と説明するだけで、撮影の行われた場所や日時は知らされない。カリフォルニア北部の太平洋海岸らしき場所が写しだされる。ワークショップは週末の3日間にわたって行われたことが、映像を見ているうちにわかってくる。そして、ワークショップ後に撮影された参加者のインタビューが、ワークショップ進行場面の中でいくつも挿入され、参加者の心の変化を視聴者にうまく伝えている。

いつ、どこで撮影されたのか、詳しくはわからないこの映画では、参加者のプライバシーも、最小限にしか紹介されていない。

この映画のプロデューサーで、ワークショップの司会者である伊那さんですら、ツールレーク強制収容所で生まれたとしか、映像の中では紹介されていない。参加者のプライバシーをあえて公開せず、人の心の動きだけに集中するというのは、実は「エンカウンターグループ」のやり方そのものなのだ。

「エンカウンターグループ」では、参加者の自己紹介は、名前だけで、それも本名でなくてもよい。いつも使っているニックネームでなく、その場で呼んでほしいニックネームを作ってもいいのだ。

ネタばれにならない程度に、しかし、映画の登場人物に興味を持ってもらうために、6人のワークショップ参加者を紹介してみよう。登場人物の名前はすべて本名だ。

トオル・サイトウ=4歳のとき、ユタ州のトパーズ強制収容所に入れられた。母は、日本語しか話せなかった。収容所の中での母の苦しみを自分の苦しみと感じていた。戦後、収容所を出て、学校に通っていたとき、いつも「おまえは、汚いジャップだ」といじめられたが、先生はまったく助けてくれなかった。映画のなかでは、他者にたいして一番攻撃的な発言を繰り返すが、映画の後半では、トオル自身の口からその理由が明らかさにされる。

ハワード・イケモト=2歳のとき、カリフォルニア州のツールレーク強制収容所に入れられた。自分には、アメリカ人なのか、日本人なのかという迷いはなく、アメリカ人であることをいつも確信している。だからこそ、強制収容によって、自分は祖国アメリカから突き放されたという感情をもっている。

ルース・ヨシコ・オキモト(博士号をもっている)=4歳のとき、アリゾナ州のポストン強制収容所に入れられた。鋭い剣が付いたライフル銃の夢をよく見る。そんなライフル銃を見た記憶がないのに、なぜそんな夢を見るのか、いつも恐ろしくなる。戦後はサンディエゴで暮らしていた。学校ではいつも日本人だといじめられていたが、小学校4年生のとき、黒人少女が、彼女の体を盾につかって、自分を守ってくれた。

リチャード・タツオ・ナガオカ=アーカンソー州のローワー強制収容所で生まれた。戦後はカリフォルニア州ローダイで暮らしていたが、自分たち家族がこの町で唯一の日系人だった。自分の顔が日本人でなかったらいいのに、といつも思っていた。父は40エーカーの葡萄園を一人で耕作していた。父は、自分がその仕事を引く継ぐことを望んでいたが、その父の期待が自分には苦痛だった。

ベッシー・マスダ=11歳のとき、アーカンソー州のローワー強制収容所に入れられる。収容所の中で、父がFBIによって連行されたときの恐怖が忘れられない。自分は、誰かによって捨てられた子供ではないか、自分にはいつも、何かが欠けているという感情がある。

マリオン・カネモト=アイダホ州のミネドカ強制収容所に入れられていたが、日本へ戻ることを志願した一家は、彼女が14歳のとき、捕虜交換船で、日本に送られた。カネモト家は、日本で捕まっていたアメリカ人との交換に使われたのだった。アメリカで育ったマリオンにとって日本はまったくの外国で、日本人に受け入れてもらったと感じたことはなかった。

この映画の冒頭で伊那さんが説明しているが、戦時強制収容があったことを、親の世代(一世や二世)は子供たち(二世や三世)にけっして語らなかった。だから、オキモトさんのように、剣のついたライフル銃の夢を見るが、その理由がわからないという体験が生じる。ほんとうは、強制収容所でその光景を見ていたのだが、記憶としては消し去られていたのだ。

「キャンプの子供たち」は、真実を教えてくれなかった親たちを責める映画ではない。むしろ逆で、グループカウンセリングによって、消し去られた記憶を呼び起こし、自分たち「子供」の体験を理解することによって「親」の苦しみに共感し、「親」の苦しみを和らげようとしている。多くの「親たち」はすでに亡くなっている。しかし、この映画の最後の字幕には「この映画は、お父さんとお母さんのために捧げます」というメッセージが映し出されている。

 

続きを読む

culture ja

強制収容所の跡地で水彩画ワークショップを始めた二世画家ヘンリー・フクハラ

二世の水彩画家ヘンリー・フクハラの名前を初めて聞いたのは、2014年5月に自らの強制収容所の体験を水彩画で表現している三世メリー・ヒグチさんに会ったときだった。

ヒグチさんのアリゾナ州ポストン強制収容所での生活は3歳から6歳のときだったので、ヒグチさんに当時の記憶はない。しかし、フクハラが1998年に始めたマンザナ強制収容所跡地での水彩画ワークショップに毎年参加する中で、日系人の収容所体験を水彩画で描けるようになった。

ヘンリー・フクハラは2010年1月に96歳で亡くなっているので、本人にインタビューすることはできない。ヒグチさんの話しからフクハラの創作活動をよく知っている人物がUCLAに勤めていたアルバート・セットンさんであることがわかった。

2014年8月からEメールでセットンさんに連絡を取り始め、やっと10月になって、セットンさんのサンタモニカのアトリエでインタビューすることができた。セットンさんから聞いた話とシアトルの伝承プロジェクトの記録からヘンリー・フクハラとはどんな人物だったのか探ってみた。

ヘンリー・カズオ・フクハラは、1913年4月25日に、オレゴン州に近い、カリフォルニア州ハンボルド・カウンティーのフルーツランドで、フクハラ・イチスケとウメの10人の子供の長男として生まれている。

フクハラ家は、北カリフォルニアから南カリフォルニアに移住し、サンタモニカに農地を購入する。最初は、大半の日系農場のように農作物を作っていたが、農作物は相場変動が激しいことから、値段の安定している鑑賞用植物の栽培と販売に転換して行く。フクハラは高校生のときから絵の才能が教師によって認めらていた。サンタモニカ高校を卒業して、教師の勧めもあってオーティス美術学校に入る。しかし、フクハラの美術学校での勉強は2カ月で終わっている。

フクハラ家の農場経営が困難になり、農場を続けていくためにはヘンリーの労働力が必要だったからだ。家業の鑑賞用植物の栽培と販売を続けながらもフクハラの創作意欲は衰えなかった。リノリューム板を使った版画は、1936年のオートモービル・クラブの会員雑誌「ウエストウェー」に掲載され、また、同じ年に、ロサンゼルス歴史・科学・美術・博物館(現在のロサンゼルス・カウンティー美術館の前身)で展示された。

1942年、12万人の日系人は強制収容所に入れられる。フクハラ家はカリフォルニア州マンザナに送られる。収容所でも絵画の才能が認めらたフクハラは、収容所内の生活をスケッチで記録する仕事を、収容所を管理する戦時転住局から与えられる。このスケッチの仕事で、フクハラは、トパーズ、ローワー、ジェロームの収容所を訪れている。

マンザナ強制収容所の生活を描いたフクハラのスケッチは、本にまとめらて、1944年に各地の収容所で販売された。

フクハラは1943年には、マンザナを出て、アイダホ州でのサトウキビ収穫の仕事についている。

マンザナ収容所をでたフクハラは、フクハラ家の家業を再建できる場所を探し始める。そして最後にたどり着いたのが、ニューヨーク州ロングアイランドだった。ここのディア・パークという場所でグリーンハウス(温室)を賃貸することができたのだった。フクハラは収容所から家族を呼び、ここに「フクハラ・ホールセール・フローリスト」が始まる。

「フクハラ・ホールセール・フローリスト」は菊の販売で評判を得るようになって行く。グリーンハウスの地主が亡くなったときには、土地を買うことができた。花の卸業は、ロングアイランドの温室で栽培するだけではなく、コロンビアやオランダから花を仕入れ、ニューヨークで販売をする花貿易へと拡大して行く。海外での仕入や、小売り店と交渉はすべてフクハラの仕事だった。しかし、この花のビジネスの成功のため、フクハラのアートに使う時間は、まったくなくなって行く。

しかし、59歳のとき大きな手術をしたフクハラは回復後、アート活動を再開し、絵画指導も受けるようになる。65歳になった1978年には、ビジネスから引退し、父母・イチスケとウメといっしょに、サンタモニカに戻る。戦前、フクハラ家が所有していた住宅は、没収されていなかったので、年老いたイチスケとウメは、余生を温暖なサンタモニカで過ごすことを選んだのだ。

サンタモニカに戻ったフクハラは、すでに、水彩画家として知名度を得ており、やがて、サンタモニカ大学の成人教室やベニス・ジャパニーズ・コミュニティー・センターで水彩画を教え始める。

フクハラが後に「マンザナ・ペイント・アウト」と呼ばれる水彩画ワークショップを始めたのは1998年のことだった。当時、ベニス・ジャパニーズ・コミュニティー・センターでは、毎月第3土曜日に水彩画教室が開かれていた。フクハラは毎回、生徒たちといっしょに近隣のサンタモニカなどに出かけていき、屋外スケッチをさせていた。フクハラはそのスケッチの場所のひとつとして、マンザナ強制収容所の跡地があるオーエンズ・バレーを選んだのだった。第1回は25人が参加したが、その時の参加者には、最初は行き先も知らされなかった。

セットンさんは、1997年にフクハラに出会い、1998年の第1回の「マンザナ・ペイント・アウト」からフクハラの助手役をつとめていたが、フクハラは当時、セットンさんにも自分がマンザナに収容されていたことは語らなかった。

オーエンズ・バレーの壮大な大自然は、毎年、参加する水彩画家たちを魅了して行った。日系人の参加者の中からは、メリー・ヒグチさんのように自らの収容所経験を描く人も出てくるが、フクハラは絵画の描き方についてコメントをするだけで、収容所の体験や戦時強制収容についての自らの意見は語ることはなかった。

視力が衰えていくフクハラは、2005年を最後にマンザナに行くことを止め、2010年1月31日に96歳で亡くなるが、「マンザナ・ペイント・アウト」の参加者募集と絵画指導はセットンさんが引き継ぎ、水彩画家たちの間では、全米的に知られるワークショップになった。

2015年5月に計画されている4泊5日のワークショップには、全米各地から約100人が参加する見込みだ。

 

続きを読む

media en ja

強制収容所で生まれた三世が作った、強制収容所での父母の苦悩を描いた映画「絹の繭から」(2006年制作)  

長野県のある新聞社から通訳を頼まれて、9月にサンフランシスコ郊外のバークレーに行ってきた。インタビューの相手は、カリフォルニア州立大学サクラメント校名誉教授のサツキ・イナ(伊那さつき、70歳)先生だった。

伊那さんの母親はアメリカ生まれで、長野県で育ち、戦前に帰米している。通訳の仕事が終わったあと、伊那さんのことをディスカバー・ニッケイで紹介したいと言ってみたところ、数日後、伊那さんから2枚のDVDが送られてきた。いずれも日本語字幕が付いていて、伊那さつきさんが制作者(プロデューサー)としてかかわった映画だった。

1枚目は「キャンプの子供たち」(Children of the Camps)というタイトルで子供のときに強制収容所で過ごした日系人たちの話だった。伊那さんは、子供のときに収容所体験を持つ日系人を集めて1990年代にグループ・カウンセリングを行った。これは、そのグループ・カウンセリングの記録映画で、日系人が戦後、社会的に成功していても、収容所の体験がいかに深い心の傷として残っているのかが、描かれている。1999年に制作されたこの映画は、同年、全米公共放送(PBS)で放送されている。

そして2枚のDVDは「絹の繭から」(From a Silk Cocoon)というタイトル(2006年制作)だった。伊那さんの両親の強制収容体験をドキュメンタリー映像と、ドラマ映像を組み合わせて描いたものである。

この2つの映像は発表されてからすでに年数は経っているのだが、日本語であまり紹介されていない映像なので、今回、取り上げてみることにする。

まず「絹の繭から」について、取り上げてみたい。伊那さつきさんの父・伊那いたるさんは1913年、サンフランシスコ生まれ。生まれてすぐに母親といっしょに日本に帰り、日本で教育を受けたのちにアメリカに戻った。母・伊那静子さん(旧姓・三井)は1917年、シアトル生まれ。3歳で母が亡くなったので、3歳から13歳までを長野県で過ごし、その後、再渡米し高校を卒業して、また日本に戻った。

父・いたるさんと、母・静子さんが出会うのは1939年のサンフランシスコ・トレジャー島で開かれたゴールデン・ゲート国際博覧会だった。静子さんは、この博覧会で日本の生糸展示を説明する「シルク・ガール」として日本から派遣されていた。映画のタイトル「絹の繭から」は、シルク・ガールの仕事が母・静子さんのアメリカでの人生の出発点、という意味で使われている。

さつきさんの両親は、1941年4月にサンフランシスコで結婚する。静子さんはシルク・ガールの仕事を終えて、いったん日本に戻り、結婚のため、再渡米した。そして1941年12月7日(日本時間12月8日)日本軍によるハワイ・パールハーバー攻撃で、日米戦争が始まる。

静子さんにとって、1942年4月から始まった強制収容所での生活は、2人の子供の妊娠と子育ての時期となった。長男のキヨシ(潔)さんは、1942年12月にユタ州中部に設けられたトパーズ収容所で生まれた。長女のさつきさんは、1944年5月にカリフォルニア州北部のツールーレーク収容所で生まれた。

1942年2月に、アメリカ西海岸に住む日系人にたいしてルーズベルト大統領による強制立退が発令されて、1942年4月から強制収容が始まり、約12万人が10カ所の強制収容所に送られた。

1943年になると、アメリカ政府は、強制収容所にいる日系成人に対して、アメリカ合衆国に忠誠を誓うことができるか、アメリカ合衆国を守るために軍隊に入る意志があるかどうかを問う、いわゆる「忠誠登録」を始める。

忠誠を誓うと答えた日系青年たちは、徴兵の対象となり、強制収容所から戦場に向かった。しかし、このとき、忠誠登録に対しノーと答え、アメリカ市民権を放棄して日本への送還を選択した日系人が約5000人いたのだった。

さつきさんの両親は、実は、このアメリカ市民権放棄者だったのだ。映画「絹の繭から」では、いたるさんと、静子さんの残した日本語の日記と手紙を使って、当時の伊那ファミリーの収容所での困窮した生活と苦悩を描いている。

いたるさんは「自由が保障されない限り、アメリカ合衆国への忠誠質問に答えることはできない」と質問そのものへの回答を拒否していた。また、強制収容所から日本に送還されるよう、自らのアメリカ市民権を放棄したのだった。静子さんも、夫と同様に市民権を放棄した。

実は、アメリカ政府も二世によるアメリカ市民権の放棄を容認していた。強制収容所内に不平分子を収容しておくよりは、アメリカ市民権を放棄して外国人になった者を、国外に追放するほうが得策と考えたからだ。

アメリカ市民権の放棄者は、日本が戦争に勝つことを信じ、日本への帰国を望んでいたが、日本の敗戦が確定し、日本では食糧難、住宅難が起こっていることが伝わってくると、日本への送還希望を撤回するようになっていく。

映画「絹の繭から」のみどころは、アメリカ人が作った映画でありながら、父・いたるさんの心情を、いたるさんの残した日本語の俳句を映像とナレーションで紹介し、その後に、英語で内容を紹介しているところだ。日本へ送還されるかどうかが決定される査問を前に、いたるさんは、次のような歌を書いていた。

日脚伸ぶ、窓あり審判待つおそれ

送還か釈放か、ゆきにあさ焼す

伊那いたるさんと静子さん夫婦、そして収容所で生まれた2人の子供たちの日本送還は、いたるさんの友人がアメリカ政府に出した嘆願書が認められて、撤回される。そして伊那ファミリーは一般の市民生活に戻るため、強制収容所から釈放されてオハイオ州シンシナティへ行くのだった。

しかし、伊那ファミリーが最後に釈放されたのはテキサス州クリスタル・シティーで1946年6月のことで、日米戦争の終結から1年近くも経っていた。

9月にバークレーで初めて、さつきさんに会ったとき、さつきさんは映画「絹の繭から」をNHKで放送してもらいたい、と私に伝えた。そのときは、どう返事をしてよいものか、困ったが、「絹の繭から」を見て私は、この映画は日本で見てもらいたいと思った。強制収容所での日系人の苦悩をこれほど克明に描いた映画はないと思ったからだ。

続く >>

 

続きを読む

war ja

強制収容所の体験を語らなかった母が残した写真をもとに収容所生活を描く三世女性

わたしの伯母(母の姉)は、現在90歳近くになるが、広島での原子爆弾体験を約20年前まで、語らなかった。わたしの母の家族は、戦争当時は、広島市に近い呉市で暮らしており、伯母は、1945年8月6日朝、広島駅に停車していた列車の中にいた。戦争体験について、わたしの広島県呉の家族と同じように語りたくない、という傾向が、ロサンゼルスの日系アメリカ人たちの間にもあることに、最近、わたし自身が気がついた。

きっかけは、2014年5月に、ロサンゼルス近郊トーレンス市内にあるエルカミノ大学で開かれた絵画展示会への案内状だった。5月はアジア系アメリカ人をテーマにしようというキャンペーンがアメリカの連邦政府や地方行政の間で行われていて、エルカミノ大学では、図書館内で約1カ月の絵画展示が行われた。

アジア系アメリカ人テーマ展示に選ばれたのが、ロサンゼルス生まれの三世、ハツコ・メリー・ヒグチ(75歳)の作品「EO 9066」シリーズだった。EO 9066というのは、エグゼクティブ・オーダー9066号(大統領執行命令9066号)、つまり、1942年のルーズベルト大統領による日系人の強制収容命令を意味している。

ヒグチは、和歌山県出身の一世の父とサンタモニカ生まれで、和歌山県で教育を受けた二世の母の下に、1939年にロサンゼルスで生まれている。初めての子供だったのでハツコという名前をもらった。ヒグチは3歳から6歳まで、父母といっしょに、アリゾナ州ポストンの強制収容所ですごした。この収容所で、妹と弟が生まれた。

エルカミノ大学展示会では「EO 9066」シリーズの最新作「非外国人保育所」(Non-Alien Nursery School、水彩画、大きさ縦22インチx横30インチ)が会場入口に展示されていた。アメリカ生まれの日系人の子供は、外国人(Alien)ではないという意味で、戦争当時は「非外国人」という名称が使われていたのだった。

[inline:Higuchi.jpg]

強制収容所で過ごしたときは、3歳から6歳だったヒグチには、当時の記憶はない。ヒグチ一家は、強制収容所を出たあとは、ロサンゼルスに戻り、1951年に現在のロサンゼルス空港近くに、10エーカーの農地を購入した。しかし、この農地購入のローン頭金を支払った直後にヒグチの父親は、45歳で死亡した。当時35歳だったヒグチの母親がひとりで、この残された農地を耕作、経営して、ローンを支払った。

ヒグチの母親は、ポストン強制収容所での生活について、ヒグチに話をしたことはなかった。「非外国人保育所」は、ヒグチの母親が2008年に亡くなったあと、母親の残した写真の中から、2014年に見つけた写真を模写したものだ。ヒグチは、自分が12歳だったときに亡くなった父親からも、ポストン強制収容所の経験を聞いた記憶がない。

ヒグチは1957年に、白人生徒が大半のトーレンス高校を卒業して、UCLAに入学した。ヒグチによると、当時、女性の就職先は教師しかなかったので、UCLAで教師の資格を得たという。そして、1962年から引退の2003年まで、トーレンス学校区(教育委員会に相当)内の小学校の教師として働いた。高校時代には、女子生徒会の会長に選ばれたり、UCLA時代には、当時白人学生が大半の中で「ホーム・カミング・クィーン」に選ばれるなど、ヒグチは、白人の中でも、常に模範的な存在だった。

ヒグチが、自分が幼児期にポストン強制収容所に居たことを知ったのは1980年代のこと、40歳代になってからだった。当時、日系人から日系戦時強制収容にたいする賠償運動が起こり、新聞で強制収容所のことが取り上げられたからだ。しかし、ヒグチは、自分から積極的に、母親にポストン強制収容所の体験を聞こうとはしなかった。ヒグチは、その理由を、仕事や子育てに忙しかったからだ、と説明している。

ヒグチが、初めて日系強制収容所の跡地を訪れたのは、1998年、ロサンゼルスの画家、ヘンリー・フクハラが始めたマンザナ・ペイント・アウト(Manzanar Paint Outs)に参加したときだった。フクハラはロサンゼルス出身の二世で、戦時中はマンザナに収容されていた。コンテンポラリー画家として成功したフクハラが、このマンザナ・ペイント・アウトを始めたとき、フクハラ自身は85歳だった。フクハラは、参加した画家たちに、自分の収容所体験を語ることも、米政府を非難することもなかった。

フクハラは2010年に亡くなっているが、マンザナ強制収容所の跡地に集まり、絵を描くこのイベントは、毎年、参加者が増え、今では、毎年5月の第3週末に、全米から100人以上が集まる恒例行事になっている。しかも、参加者の大半が白人という現象が起こっている。マンザナ・ペイント・アウトに参加する中で、ヒグチは「EO9006シリーズ」を描くようになった。

2004年10月ヒグチは、当時88歳になる母親をネバダ州ラフリンで開かれたポストン強制収容所体験者のリユニオン(再会)に連れて行った。このリユニオンの後、自宅に戻って、ヒグチは母親に収容所での体験を尋ねるが、母親はそれでも、答えてくれなかった。ヒグチの母親は「話したくない」と繰り返すばかりだった。それでは、思いを書いてくれと、ヒグチは母親に紙を渡した。そのとき、ヒグチの母親は「いつも子供の将来が心配だった」と書いた。この文章を読んで、ヒグチは初めて、強制収容所の中での母親の思いを知ったのだった。

 

続きを読む

community ja

「二世ウィーク・クィーン」は南カリフォルニアの日系団体をまとめるきずな

1930年代、約3万人の日本人が住んでいたロサンゼルス・リトル・トーキョー(小東京)で、日本人商店主たちが始めた「二世ウィーク」(二世週祭)イベントは、戦争時の中断を乗り越えて、今年で80周年を迎える。

二世ウィークは、リトル・トーキョーを舞台として、8月の半ばの1週間が開催期間だ。祭りは、最初の日曜日に行われるグランド・パレードで始まり、1週間後の日曜日にオンド(音頭)と呼ばれている昼間の盆踊りで閉幕となる。

グランド・パレードの出し物として、青森からねぶたが来た2007年はパレードが大きな盛り上がりを見せた。その後、パレードの勢いはあまり盛り上がらず、パレードコースも短縮された。しかし、そうしたイベントの集客数に関係なく、80年間一貫してこのイベントが「二世週祭」として多くのロサンゼルス日系人の絶大な支持を受けているのは、「二世ウィーク・クィーン」(二世週女王)と呼ばれる親善大使役を発掘し、養成していくネットワークが南カリフォルニアの日系人コミュニティーに根を張っているからだ。

戦前から戦後の50年代まで、二世週女王の選出は、いわゆる美人コンテストで、候補者たちは日本国総領事公邸で1次審査を受けた後、5人に絞りこまれた。60年年代になってから、南カリフォルニアに約10カ所ある日系コミュニティー・センター (英語でJapanese Community Centerあるいは Japanese Cultural Institute と呼ばれている)が推薦団体となって候補者を出すようになった。

また、日系市民協会(Japanese American Citizen League)の支部や、親睦団体オプティミスト・クラブの支部などが、単独あるいはコミュニティーセンターと合同で参加している。最近は、新一世が中心の日本食レストラン協会(Japanese Restaurant Association)が推薦団体に加わっている。

ただし、すべて推薦団体が、毎年、候補者を出すわけではないので、多いときで8人、少ないときで5人と、候補者数は毎年変わる。

二世週女王の選出は、8月の二世週祭パレードの前夜、コロネーション・ボール(戴冠式)と呼ばれているイベントで行われる。候補者は3カ月前から毎週、集められ、人前で話をするときのマナーや、日本文化の基礎知識を教えられる。ロサンゼルスの日系人には、映画俳優、エンターテイメントの有名人もいるので、コロネーションのステージ上で、候補者たち全員が短いダンスを披露する年もある。

二世週女王に選ばれるのは一人だけだが、そのほかの候補者たちは、コート(英語で宮廷の意味)と呼ばれ、ミス・トモダチ、ファースト・プリンセス、そしてプリンセスのタイトルがそれぞれに与えられる。

二世週祭女王とコートたちの初仕事は、コロネーションの翌日、グランドパレードのフロートに乗って小東京であいさつをすることだ。そして、翌年の新女王とコートが決まるまでの1年間、二世週女王とコートは全員、ロサンゼルス日系社会の親善大使役として、サンフランシスコ、シアトル、ホノルル、そして名古屋に行き、訪問先のイベントに参加する。このうち米国の3都市は、日系アメリカ人のイベントで、名古屋は、ロサンゼルスと名古屋が姉妹都市の関係にあるためだ。

また、ロサンゼルスでも、日系関係者の開業記念式典や、日系団体主催ローカル・イベントへも参加し、二世週女王とコートたちは、コミュニティー内での親善大使役を頻繁にこなしている。

1954年の二世週女王に選ばれたジュン・アオチ・バーク (June Aochi Berk)さんは、2012年に日系女性の遺産協会(Nikkei Women Legacy Association)を立ちあげ、二世週女王たちと連絡を取り始めた。わたしが編集・発行する英字月刊新聞「カルチュラル・ニュース」は、この遺産協会の協力を得て、2012年8月号からほぼ毎月、1950年代から今にかけて選ばれた13人の二世週女王の体験記を紹介した。

[inline:culturalnews.jpg]

体験記では、選ばれた年代に関係なく、だれもが二世週女王になったことで人生が変わったと、述べている。また、歳をとるごとに、二世週女王になれたことの意義が深まっていく、と言うひとが多い。

二世週女王の体験談を紹介していくと、ロサンゼルス日系史を垣間見ることができる。

1954年クィーン、アオチさんの場合は、二世週女王になったことでファッション・モデルの仕事が舞い込んだ。京都の会社が日本産シルクをつかったイブニング・ドレスの販売をロサンゼルスで始め、そのモデルに選ばれたのだ。このドレスのデザイナーは有名アメリカ人で、ショーもビバリーヒルズをはじめ、これまで、日系人たちが行くことがなかった高級な場所で行われた。また、この仕事で日本へも行った。

70年代は、日本経済の高度成長の時代で、小東京にもその影響は及んでいた。1976年クィーン、サンディー・トシユキ (Sandy Toshiyuki) さんは、二世週パレードで、松下幸之助やハワイ州知事のジョージ・アリヨシ夫妻と会っている。また、小東京再開発のさきがけとなったニューオータニ・ホテルの開業式に参加できたのも、76年のクィーンだったからだ。

70年代から80年代にかけての二世週女王は、なんと、ブラジルで開かれたミス・日系・インターナショナルに参加していた。1985年クィーン、テッシュ・オカベ・カトー (Tish Okabe Kato) さんにとって、サンパウロでのこの国際イベントへの参加が、もっとも印象に残る経験だった。

1993年クィーン、ナオミ・オノ・ソグネフェスト (Naomi Ono Sognefest) さんは、その年、アメリカを訪問された天皇・皇后にロサンゼルスで会った。日本の親戚に、ロサンゼルスで天皇・皇后と話をしたと語ったところ、信じてもらえなかった、と回想している。

90年代までの二世週女王の体験談からは、二世週女王になることによって、彼女たちの視野が、ロサンゼルス日系社会の外に広がったと要約できる。

2000年、2010年代になると、母親が日本人新一世で父親が非日系というハパ(Hapa、ハワイ語で混血の意味=現在、ロサンゼルスの日系人の間では、イベントなど公な場所でも頻繁に使われている)のクィーンが増えてくる。

ハパ・クィーンは、日本人の母親から日本語や日本文化を受け継ぎ、日本での滞在や生活経験を持っているのが特徴だ。そして、二世週女王になるまでは、日系団体に参加したことがなく、戦時中の強制収容所の体験談すら聞いたことがないという人も多い。

2011年クィーン、エリカ・マリコ・オルセン (Erika Mariko Olsen) さんの場合、二世週女王の1年間を通して、これまで知らなかった日系アメリカ人の歴史を学ぶことができ、二世週女王とコートたちは、次世代の日系社会のリーダーとしての自覚を持つようになったと述べている。

80年間の二世週女王の歴史を見ていくと、ロサンゼルス日系社会は、日本人エスニック・グループから、自らは日系人という自覚がなかったハパ世代が日系人になることを選択し、より多様な文化を包みこんだ社会グループへと発展していることがわかる。

 

続きを読む