東 繁春

(ひがし・しげはる)

1954年、広島県呉市に生まれる。1981年に渡米、ロサンゼルスの加州毎日新聞とサンフランシスコの日米時事新聞で、日本語記者として働く。そのご、朝日新聞ロサンゼルス支局の助手、共同通信社のロサンゼルス米国法人で日本語ニュース配信マネージャーを経験。1998年7月に月刊英字新聞Cultural Newsを創刊した。Cultural News はロサンゼルス近郊の日本美術展、日本文化イベントを紹介している。最近は、デトロイトでの日本美術展やポートランドの日本庭園の紹介も行っている。月刊新聞 Cultural Newsのウェブサイトはwww.culturalnews.com

(2018年3月 更新)

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百年続く南カリフォルニアの仏教会とその開教使の横顔

120年の歴史を持つ南カリフォルニアの日系コミュニティーの中で、浄土真宗西本願寺派の仏教会は、特に20世紀の初めの約60年間は、宗教としての役割以上に日本人移民のための文化センターやコミュニティー・センターの役割を果たしてきた。

西本願寺派の米国組織、米国仏教団は、戦前から、信者が集まる場所を寺ではなく、仏教会と呼んでいた。最近は「お寺」と呼ぶひとも増えている。各地の仏教会に属する僧侶を開教使と呼ぶ。日本では浄土真宗をはじめ大半の仏教宗派では、住職の世襲制が一般的であるが、米国仏教団の場合、仏教会メンバーが寺の所有者で、各地の仏教会が開教使を仏教団へ依頼をし、招聘するという形式になっている。仏教会の運営は、キリスト教の教会運営を雛形にしている。

100年以上の布教の歴史を持つ米国仏教団では、1980年代までは開教使のほとんどが日本で生れ育ち、渡米した日本人だったが、それ以降は、日系人を含むアメリカ人が開教使になるケースが増えている。現在、米国仏教団は開教使を養成するコースを持っていて、最近は、日本に修行に行かず、米国内で僧侶になる人が増えている。

2017年3月、創立から90年以上が経つロサンゼルス市近郊のガーデナ仏教会(2017年2月27日の掲載記事参照)では、日本生まれの主任開教使、宮地信雄(みやじ・のぶお)師が引退し、ロサンゼルス生まれの日系三世・庵原ジョン一徳(いおはら・かずのり、当時55歳)師が、主任開教使に就任した。

庵原師は、広島生まれの一世の母とロサンゼルス生まれの二世の父に間に生まれた。子供のときから、両親に連れられてリトル東京にある西本願寺派ロサンゼルス別院に通っていた。その頃から、将来、僧侶になることを考えていたという。

僧侶になるために役に立つであろうと、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で心理学を専攻した。UCLAは、東京にある国際基督教大学と交換留学プログラムを実施していたので、庵原師は1983年にこの留学プログラムを使って、1年間東京に滞在し、その時、東京・築地本願寺で得度をするための準備をした。

UCLAを卒業した庵原師は、カナダ・トロントにある私立大学で心理学・修士号を取得した。1986年に、開教使を養成するための西本願寺派の北米開教区奨学金を得て、京都・龍谷大学に留学した。最初の1年は日本語の集中講義を受け、そして2年間の修士課程を済ませた。その後、文部科学省の国費留学生に認められて、龍谷大学の大学院で博士課程を4年間過ごした。親鸞研究の権威である浅野教信教授の指導のもと、修士課程と博士課程のテーマは共に「親鸞聖人における信の研究」で、とくに博士課程では、親鸞聖人が晩年に書いた「西方指南抄」(さいほう・しなん・しょう)に取り組んだ。

庵原師の米国仏教団開教使としての仕事は、1994年にフレスノ別院に派遣されることで始まった。その後、サンディエゴに近いビスタ仏教会、シアトル別院、ロサンゼルス地区のベニス本願寺に派遣され、2014年からガーデナ仏教会の開教使を務めている。

ガーデナ仏教会は、メンバーが約500人(200世帯)の大きな仏教会で、開教使は常時2人派遣されている。2017年3月、宮地師が引退し、庵原師が主任開教使に就任したとき、2人目の開教使としてシアトル別院から関谷沙羅(せきや・さら、女性)師が転任した。関谷氏は、東京・世田谷の出身で、高校生時代をサンフランシスコ・ベイエリアとニューヨーク・マンハッタンで過ごし、ボストン大学を卒業している。12年間、東京で仕事をした後、2012年に京都の中央仏教学院に入り、2015年9月に開教使としてシアトル別院に派遣された。

ガーデナ仏教会の本堂には、金色に輝く内陣がある。衣に袈裟をかけた普通の僧侶姿の庵原師は、耳にシンガーたちが舞台で使うマイクのヘッド・セットを付け、荘厳な内陣の前を自由に歩き回りながら説教をする。そして庵原師は、浄土真宗の重要経典である連如上人の「御文章」(ごぶんしょう)を読み上げる。その声の抑揚は、連如上人が語ったであろう15世紀の日本語を連想させる威厳を聞く者に感じさせる。

 

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日本人の戦後移民史:自らの虐待体験から渡米への経緯を自伝的小説として出版したロサンゼルスの医師

舞台は敗戦直後の東京、都心・文教地区の裕福な家庭の子どもたちが通う小学校に、毎日5キロの徒歩通学をする二郎。この二郎には級友にも先生にも言えないことがあった。二郎は、父親から虐待を受けていたのだ。

『家庭内捨て子物語』(2016年11月、論創社から発行)は、ロサンゼルスに実在の日本人医師、入江健二氏が書いた自叙伝的小説だ。衝撃的なタイトルとはまったく逆に、この本の文体は、とても明るく、気持ちよく、一挙に最後まで読むことができる。

父親から虐待を受ける子供の感情が克明に描かれているにもかかわらず、読後感に暗さを感じさせないのは、虐待を受けた二郎が、父親になり、息子の太郎に暴力をふるうという「被害者から加害者へ」の負の連鎖を描き、家庭内虐待を世に問い、克服したいという著者の決意のようなものがこの本の最後に示されているからだ。

この本は、フィクションであるが、著者・入江健二氏がこの本の自己紹介で明らかにしている履歴と、主人公・野呂二郎の設定を比べると、この小説が、入江氏の自伝に限りなく近いことが、容易に理解できる。

つまり、二郎が入った大学「東都大学」は東京大学で、二郎が小学校から高校まで通った学校「東都教育大付属」は、東京教育大学付属である。

東京教育大付属は、現在は筑波大学付属として続いている小・中・高学校で、戦前は、皇族が通う学習院に対し、民間の富裕層の子どもが通う学校というステータスにあった。敗戦直後も都心の富裕層の子どもたちが集まっていた。

二郎の父親は薄給の英語教師で、文教地区に住む余裕はなく、二郎を含む3人の息子たちに、片道5キロの徒歩通学をさせていた。そうした境遇の中で、二郎は級友たちの豊かさにはなじめないが、友達もでき、よき教師にも恵まれる。

敗戦直後の二郎の家庭は、非常に貧しく描かれているが、この時代は日本全体が非常に貧しかったことを考えると、二郎の境遇は、当時の日本ではむしろ恵まれていたのかもしれない。

東大生の受験勉強手記は、いつの時代でも、読者の興味をそそるテーマだ。1960年代に、東大生の受験勉強手記がいくつか出版されていたことを思い出す。

感性の柔らかい二郎の場合、受験勉強の中で、自分は社会から必要とされている人間ではない、という強迫感におそわれる。というのは、1950年代の日本では、若者は工学系の大学へ進み、日本の工業生産力の復活のために働くことが至上とされ、二郎の高校のクラス担任がそのことを語るたびに、二郎のこころには「君は必要じゃない」というメッセージに響いたのだった。

理科が苦手で、国語が好きだった二郎は、受験勉強を正当化するために「自分の得意なものに価値はなく、不得意なものにこそ価値がある」というレトリックすら作りだしていく。

しかし、そこで二郎はつぶれなかった。社会が求めるものと自分が得意なことの接点として、医師になることを夢見るようになった。この本はまさに、二郎のドリーム・カム・トゥルー手記なのである。

本能的に死を意識する恐怖体験を「トラウマ」というが、『家庭内捨て子物語』には、二郎のトラウマ体験が何度も語られている。アメリカでは、現在、元兵士たちのトラウマが大きな社会問題になっている。毎年、数千人の元兵士たちが自殺しているからだ。この問題の治療法のひとつに、自らの体験を語るという方法がある。

この本は、著者・入江氏のトラウマ体験記でもある。入江氏は、主人公「二郎」に、自分の体験を再演させることによって、幼かった自らのこころが、どのように傷ついたかを克明に記録したのだ。社会変革運動を体験してきた入江氏にとっては、自らのトラウマ体験を、小説の形で世に公表することは、自然な選択であることが推測できる。

入江氏は、この本を通して自らの虐待体験を描くことで「被害者から加害者へ」の負の連鎖からの脱出のヒントを指し示そうとしている。

『家庭内捨て子物語』第2部では、二郎が日本で医師として生きていくことへ限界を感じ、解決策をロサンゼルスの大学でのガン研究の仕事に求め、渡米した経緯が語られている。そして、ロサンゼルスで出会った日本人から、英語が理解できない日本人のために、開業医になってほしいと求められ、二郎は、アメリカの医師免許を取得する。

第2部も、限りなく著者・入江氏の実話であると理解できるし、そしてこの章は、現代の移民物語でもある。戦前の日本からの移民は、大半が農業労働に従事していたが、戦後の日本からの移民は「頭脳流出」と呼ばれ、高い専門知識を持った日本人が多く、アメリカに渡っている。

著者・入江氏は、1991年にノン・フィクション『リトル東京・入江診療所』(草思社)を出版している。著者の30代から50代を描いた手記である。現在、入江氏は80歳に近づいているが、『家庭内捨て子物語』は、主人公・二郎を通して『リトル東京・入江診療所』では語られなったストーリが描かれている。

 

* 本稿は、Web新聞『カルチュラルニュース』日本語版に掲載された書評からの転載です。

 

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ロサンゼルス日系社会に大きな影響を与えた仏教会-1930年代の浄土真宗の開教使の記録から

南カリフォルニア地区における浄土真宗西本願時派の拠点といえるのがロサンゼルス・リトル東京にある西本願寺ロサンゼルス別院だ。このお寺では、45年以上にわたって1月初旬に「米国版紅白合戦」という歌謡ショーが行われ、毎年1000人近い観衆を集めている。

「米国版紅白歌合戦」の企画とステージ司会に第1回から参加している二世の西タックさん(現在、80歳)は、ウエスト・ロサンゼルスのソーテル地区で生まれ、1941年から1956年を鹿児島県加世田市(現在・南さつま市)で過ごした。西さんの本業はガーデナ(庭師)で歌謡ショーの企画や司会をやるようになったのは、1960年代にウエスト・ロサンゼルス仏教会(ソーテル地区)で日本で教育を受けた二世の集まり「寿会」に参加したことがきっかけだった。西さんは、この歌謡ショー活動のほかに、南カリフォルニア庭園業連盟の役員、南カリフォルニア鹿児島県人会の役員も長年にわたり引き受けていて、ロサンゼルス日系社会になくてはならない存在だ。

一方、ロサンゼルス市の南側に隣接するガーデナ市は、日系人が多いことで知られている。この市にあるガーデナ仏教会には、8畳の茶室があり、ロングビーチ生まれの三世・猪瀬加代子さん(現在75歳)はここで週1回茶道を教えている。三世だが、父親が日本で教育を受けた二世なので、日本語もうまく、日本文化をよく知っている日系人だ。

猪瀬さんの青春は1960年代で、ガーデナ仏教会の青年部で過ごす時間が多く、夫の三世のケンイチさんともガーデナ仏教会で出会っている。猪瀬さんは1986年に家族経営していた苗木ホールセール事業を売却、引退後に多くの日系団体の役員を引き受けるようになり、茶道を始めた。現在では裏千家同門会ロサンゼルス協会の幹部のひとりになっている。

西さんや猪瀬さんの例に見られるように、現在のロサンゼルスの日系社会でリーダー的役割を果たしている人には、ロサンゼルスの仏教会で育ったり、青春を過ごした人が少なくない。

日系社会における仏教会の役割に関心を持っていた筆者に、思わぬ宝物をくれたのが、ガーデナ仏教会の長年の幹部メンバーで、米国仏教団のサンフランシスコ本部で教団新聞の編集にも携わったこともあるアラン・キタさんだった。猪瀬さんの茶道教室をガーデナ仏教会に見学に行った際に、キタさんを紹介された。

その日のうちにキタさんが、100ページにわたる論文を送ってくれた。それは、1931年に設立されたガーデナ仏教会の初代開教使、小倉康生(おぐら・こうせい)師が、1932年9月28日に南カリフォルニア大学社会学部に提出した修士論文  “A Sociological Study of the Buddhist Churches in North America with a case study of Gardena, California, Congregation”(北米における仏教会に関する社会学的研究、カリフォルニア州ガーデナの会衆に関するケース・スタディーを含む)だった。

 1930年に集めた仏教会活動のデータを基に書かれたもので、北米における浄土真宗の布教の歴史や1930年代初頭の仏教会の課題や目標が明確に記述されていた。

小倉師は、まず、北米における仏教会と日本のお寺の違いについて説明している。この説明は、21世紀になった今でも、日米の違いを理解するために役に立つ。日本のお寺は、一人の僧侶によって建立され、その僧侶の直系家族が引き継いでいく。それに対して、北米の仏教会は、各州が認めた宗教法人であり、寺院に相当する建築物はその宗教法人が所有し、僧侶はその宗教法人から手当てをもらう。

北米における浄土真宗西本願寺派の活動は、1898年にサンフランシスコ仏教会が創立されたことから始まる。1899年には、サクラメント仏教会、1900年にはフレスノ仏教会が設立される。ロサンゼルス仏教会(現在の西本願寺ロサンゼルス別院)の設立は、北米で9番目で、1905年のことだった。この年にはカリフォルニア州中部に位置するハンフォードと、カナダ・バンクーダーにも仏教会ができている。

北米での布教活動の本部となる北米仏教団(The North American Buddhist Mission)が、サンフランシスコに設置されたのは、1899年5月だった。第二次大戦以降は、教団名は、The Buddhist Church of America(略称BCA、米国仏教団)になっている。各地の仏教会に開教使を派遣する権限は、米国仏教団が持っている。

小倉論文によると、1930年には、デンバーまでを含む、アメリカ西部には西本願寺派の仏教会が35カ所あり、その他の宗派の寺院の数はわずか8カ所しかなかった。また、1930年代の初めには、約3万人の日本人移民が仏教会に属していたとあり、1942年に強制収容された日本人・および二世の人口が約11万人だったことを考えると、当時の日本人移民の3人に1人が仏教会に属していたことになる。当時の日系コミュニティーは独身者も多かったから、家族数で比較すると、2家族のうち1家族が仏教会のメンバーだったかもしれない。

小倉師は、仏教会メンバーの3分の2は日本ですでに仏教徒だったこと、西本願寺派の寺院が多い県からの移民が多かったことを、仏教会のメンバーが増えた理由として挙げている。そして、日本人移民が仏教会に集まるのは、信仰のためではなく、社交が大きな目的であったと報告している。

また当時、浄土真宗の一般アメリカ人への布教が全く進んでいなかったので、浄土真宗がこれからアメリカで生き残って行くためには、二世たちが大人になっても、仏教会に通い続けることが、アメリカでの浄土真宗存続の唯一の可能性であると述べている。

各地の仏教会が開く日曜学校や土曜日や平日の日本語学校には、仏教会メンバーの子供たちが集まっていた。その理由として、子供に日本語を教えたいという親の希望があったとともに、二世の子供たちに仏教に関心を持ってもらうことこそが、仏教会が生き残っていく唯一の可能性という教団側の積極的な取り組みがあったからだ。

日系人の強制収容の時代に、日系人の所有する土地や建物はすべて没収されたと言われているが、戦時中のロサンゼルス地区の仏教会の建物は、キリスト教牧師ジュリウス・ゴールドウォーター師(Rev. Julius Goldwater)によって守られていた。1945年8月から、日系人の強制収容所からの帰還が始まると、ロサンゼルスの仏教会の建物は、臨時ホテルとしてだけでなく、情報交換の場や就職斡旋場といったコミュニティーセンターとしての役割を果たすようになる。

ガーデナ仏教会の場合、1949年になってやっと本来の仏教会の役割を復活することができた。1960年代には、ロサンゼルス数カ所で、新たな仏教会が設立され、その隣接地に日系コミュニティーセンターが作られ、仏教会と日系コミュニテーは最盛期を迎える。

最初に紹介した西タックさん、猪瀬加代子さんの例のように、現在のロサンゼルス日系社会で、70代から80代前半のコミュニティー・リーダーたちに仏教会の影響を受けたひとが少なくないのは、1960年代に仏教会の活動の中で日系社会の人間関係が作られたからだ。

 

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ロサンゼルス・ソーテル地区に集まった日本人キリスト教信者たち

約100年前に一世たちが作り、今でも続いているロサンゼルスにある数カ所の日本語学校は、パサデナにある日本語学校パサデナ学園をはじめほとんどが「学園」と呼ばれている。しかし、ウエスト・ロサンゼルスのソーテルにある日本語学校The Japanese Institute of Sawtelleの日本語の正式名称は「ソーテル日本学院」である。

長い間わたしは、この学校の日本語名称は「ソーテル日本語“学園”」だと思い込んでいた。2015年12月に行われた90周年記念イベントで、高橋美和校長が何度も「ソーテル日本学院」と呼び、印刷物にも「学院」と書いてあることを見て、間違って名前を覚えていたことに気がついた。

日本では、明治学院、神戸女学院、広島学院(中・高校)の名称のように、キリスト教の理念によって設立された学校に「学院」がよく使われる。ロサンゼルスでは「学園」という名前を持つ日本語学校は、仏教会のメンバーを中心に設立、運営されてきた歴史を持っており、「ソーテル日本学院」は、日本人のキリスト教信者によって作られた学校かもしれない、とひらめいたのだった。

わたしの直感は、90周年記念イベントの時すぐに確認ができた。学院の創立者・坂本儀助の孫、ランディー坂本さんが出席していたからだ。その後、ランディー坂本さんとの数回にわたるインタビューとメールのやり取りを通し、戦前ソーテルに集まった日本人キリスト教信者たちの様子を知ることができた。

ソーテルに日系コミュニティができたのは、1920年代であった。西ロサンゼルス仏教会は1928年に設立され、1930年には西ロサンゼルスメソジスト教会が設立された。これらの二つの建物は、現在でも1ブロックしか離れていない場所に存在している。

1930年の記録によると、この頃のソーテル日本学院は、仏教徒とキリスト教徒の一世が一緒になって運営しており、二世に日本語教育を施す場になっていた。

坂本儀助は、現在の福島県いわき市の出身で、アメリカへ来る前にすでにキリスト教の信者になっていた。東京で英語を学び、後に京都の同志社英学校(現在の同志社大学の前身)に入学した。1894-1895 年の日清戦争と1904-1905年の日露戦争の従軍経験者でもあった。

坂本はいわき市で絹織の工場を経営していたが、事業が傾き、新たなビジネス・チャンスはないかと、妻と長男、父母を残して、1907年、37歳の時に単身渡米した。1913年、日本に戻り、妻のふさを連れて再渡米をし、1924年までに、母のまさと長男の織衛(おりえ)をロサンゼルスに呼び寄せている。

1920年には、現在のロサンゼルス・ダウンタウンにあるコンベンションセンター近くに、G.S. Supply Co.という食料品店を経営するようになっていた。1921年、この店舗をソーテル地区に移し、1925年に大きな自宅を新築した。この住宅は今でも残っていて、ランディー坂本さんが所有している。

1925年11月、坂本は自宅の一室で、4人の子供たちに日本語を教え始めた。これがソーテル日本学院の始まりだという。同じ時期に、坂本の自宅でメソジスト派牧師によるキリスト教信者の集会も始まった。

日本での坂本は、バプテスト教会のメンバーだったが、ロサンゼルスにはバプテスト派の日本人牧師がいなかった。メソジスト派の日本人牧師が定期的にソーテルを訪れることを約束してくれたことから、ソーテルにメソジスト派の集会が生まれた。

このソーテルの日本人メソジスト派信者らは、1930年5月にウエスト・ロサンゼルス・コミュニティ・メソジスト教会 (West Los Angeles Community Methodist Church)を結成する。この教会は、今日のウエスト・ロサンゼルス合同メソジスト教会(West Los Angeles United Methodist Church)の前身にあたる。

ソーテルのメソジスト教会に、戦後、日米友好のシンボル的存在として注目を集めることになるクエーカー教徒の牧師・ハーバート・ニコルソン(Herbert Nicholson, 1892 – 1983)が現れたのは、1940年のことだった。この当時、日本人教会は、すでに現在の教会の建物(1913 Purdue Ave)を所有しており、フジモリ・ジュンイチという日本人牧師がいた。しかしフジモリ牧師が病気になったため、かわりに25年間の日本宣教からアメリカに戻ったばかりで、流暢な日本語を話すニコルソンが牧師として招聘されたのだった。

ニコルソンは、在米日本人にとって最も困難な時代を、日本人と共に歩んだ。1941年12月7日、真珠湾攻撃の日の夜、坂本とウエスト・ロサンゼルスの日本人コミュニティーのリーダーたちはFBIに拘束された。ニコルソンは、これを予期していたという。12月末までには、坂本はモンタナ州ミズーラにある連邦刑務所に送られた。その6カ月後には、マンザナー収容所に移され、家族と合流した。

この時期、ニコルソンは日系コミュニティの擁護に奔走した。自らトラックを運転して、ロサンゼルスとマンザナー強制収容所の間を何度も往復して、収容所の日本人に物資を届けたり、収容所の中で礼拝を行った。

戦後、ニコルソンは、食料不足の日本人のためにと、ミルクを出すヤギを沖縄と本土の戦災地に送り、日本の教科書に「やぎのおじさん」として取り上げられる存在になる。またニコルソンは、坂本の故郷いわきに身体障害者の福祉施設「いわき福音協会」の設立を試みていた坂本に協力している。

一方ソーテル日本学院は、1929年に現在の2110 Corinth Avenue に教室棟と講堂兼道場を建設した。された。現在でもこれらの建物は使われている。講堂兼道場として使われている建物は、ソーテル柔道クラブがスポンサーとなって建築したもので、その所有権は、現在でもソーテル柔道クラブが持っている。

戦後、儀助が亡くなってからは、ソーテル日本学院の創立者、坂本儀助がソーテル・キリスト教信者たちのリーダーだったことは、忘れ去れてしまった。

 

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日系人が語り始めた「もうひとつの勇気」 -戦闘訓練を拒否し、反逆罪に問われた元日系兵士の名誉回復-

第二次大戦中の日系兵士の歴史は、ヨーロッパ戦線で活躍した442部隊がよく知られているが、442部隊としてヨーロッパ戦線に送られる前の訓練の段階で、戦闘訓練を拒否したために、反逆罪に問われ、懲役刑を受け、不名誉除隊になった日系兵士21人がいた。

2012年にこの懲罰を受けた日系兵士に関する初めての書籍が出版され、ロサンゼルスの日系人の間で、ようやく知られるようになった。そして2015年9月12日に全米日系人博物館内のタテウチ・フォーラムで行われた、442部隊の功績を継承することを目的とする非営利団体「ゴー・フォー・ブローク」と全米日系人博物館の共催によるシンポジウムでは、懲罰を受けた元兵士の家族約20人と、元兵士1人が初めて公の前に姿を現した。

このシンポジウムは「もうひとつの勇気」(A Different Kind of Courage) と題されていた。

第二次世界大戦中に、日系人強制収容所から、二世の志願兵を集めて米陸軍の中に日系部隊(442部隊)が作られたことは、よく知られているが、日本の真珠湾攻撃による日米戦争の勃発前そして、日系部隊が編成される前から、数百人の日系二世や帰米二世(米国生まれで日本で教育を受けた二世)が、すでに米陸軍に入隊していた。

1941年12月に日米戦争が始まると、日系兵士のうち、特に帰米二世は、敵国の出身であるとして、米軍内で不信者として扱われるようになっていた。日系兵士には、糞尿の処理、便所掃除、雑草除去、荷役など武器を持たない仕事が与えられた。

そして、このように軍隊内で不当な扱いを受けていた日系兵士たちに、止めを刺すような事態が起こった。カンサス州のフォート・ライリー陸軍基地では、1943年、ルーズベルト大統領がこの基地を訪問した際、同基地内のすべての兵士が大統領の閲兵を受けている間に、約130 人の日系兵士は、大統領へ危害を加える恐れがあると隔離され、数時間、拘束された。

その後、日系兵士たちは、ヨーロッパ戦線に派遣される442部隊として訓練するため、アラバマ州のフォート・マクレラン陸軍基地に集められた。1944年3月20日、当時、マクレラン基地には約600人の日系兵士がいたが、この日、上官の差別発言に反発して戦闘訓練への参加を拒否した106人の日系兵士が拘束された。そして、この中から28人が起訴され、21人に反逆罪が適用され、5年から36年の懲役と強制労働が課せられた。

懲役刑を受けた二世兵士は、戦後の大統領恩赦によって、全員、軍の刑務所から釈放されるが、不名誉除隊の烙印をされた。

懲罰を受けた21人の元日系兵士のうち、11人が40年かかって、米陸軍に異議申し立てを行い、名誉回復を行ったが、2012年にオレゴン州ウイラメット大学教授のリンダ・タムラ博士の著書 Nisei Soldiers Break Their Silence (沈黙を破った二世兵士たち)が出版されるまでは、この事実は、日系人の間で知られることがなかった。

シンポジウム「もうひとつの勇気」では、リンダ・タムラ博士、懲罰を受けた元兵士の名誉回復の訴訟を担当したポール・ミネリック弁護士、そして懲罰を受けた元兵士の長男で、日系市民協会(JACL)ロサンゼルス支部長を務めたことがあるゲーリー・イタニさんがパネリストとして発言した。

懲罰を受けた元兵士たちは、すでにほとんどが亡くなってるが、シンポジウムでは、95歳のフレッド・住母家(すもげ)さん(写真)と、亡くなった懲罰兵士の家族約20人が初めて公の前に姿を現した。

「ゴー・フォー・ブローク」を代表して展示マネージャーのクリス・ブラサットさんは、「日系兵士の歴史の中で、懲罰を受けた兵士の存在は、442部隊兵士とは、正反対の立場になるが、戦場に行くことを決断することも、戦場に行くことを拒否する決断も、いずれも、勇気ある決断であり、ゴー・フォー・ブロークの日系兵士の功績を記録し、その体験を次世代に伝える活動にとって、懲罰を受けた兵士の体験も次世代に伝えなければならないこと」とあいさつした。

 

関連書籍

Nisei Soldiers Break Their Silence: Coming Home to Hood River by Linda Tamura, University of Washington Press

 

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