福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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メンソーレ!沖縄 in U.S.A.

第5回 アメリカ人の心つかんだ沖縄秘伝の空手 

劉衛流パンアメリカン・チーフインストラクター
新城友弘さん沖縄生まれの新一世


沖縄空手の一流派である劉衛流 (りゅうえいりゅう)。1979年から現在まで数千人のアメリカ人に指南してきたのが、劉衛流の南北アメリカの頂点に立つ新城友弘さんだ。

UCサンディエゴ内の道場を訪ねると、黒帯の門弟が6人集まっていた。道場に入る時は「押忍」、練習では「気をつけ」「正座」「先生に礼」といった日本語が用いられる。

新城さんに師事して16年になるオフィラ・バーグマンさんは「5歳の時から日本式の空手を習っていました。でも、新城先生に出会ってすぐに沖縄空手 の魅力にとりつかれました。日本の空手は攻撃と受け身が1対1の割合ですが、沖縄空手、特にこの劉衛流では一つの動作に対して二つの動作を繰り出すことも あります」と、沖縄空手に魅かれた理由を答えてくれた。

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劉衛流は中国に留学していた開祖、仲井間憲里 (なかいまのりさと)が沖縄に持ち帰った、中国拳法の源流を汲む空手・古武術。長年、門外不出の秘術とされていたものが、20世紀半ばに一般にも弟子を求め公開されるようになった。

新城さんが劉衛流を始めたのは、1960年代の後半、中学生の頃だった。本土の中京大学の体育学科で学んでいた間は、日本式の空手に取り組んだ。し かし、沖縄に帰省するたびに師匠を訪れて研さんを続け、大学卒業後は劉衛流をアメリカに広めることを目的に、1979年、同じ志を持つ友人と渡米してき た。

「米海軍に勤務している方の奥さんと知り合いになり、身元引受人になっていただいてサンディエゴにやって来ました。ところが、その女性はすぐにご主 人の転勤でワシントン州に引っ越してしまいました。途方に暮れて、友人とバルボアパークでぶらぶらしていたら、一人で空手を練習しているアメリカ人を見か けたのです。身振り手振りで話しかけて知り合いになり、彼と一緒にアパートの前庭などで空手の練習を始めるようになったのです」

自然な動きと精神修養

その後、少しずつ口コミで生徒が集まるようになり、道場を借りるようになった。現在ではサンディエゴとオーシャンサイドに住む門弟たちが、チュラビ スタの本部道場やUCサンディエゴ内の道場に集まってくる。門弟の指導は黒帯の弟子に任せ、新城さんが直接教えるのは子供を中心に70人ほどだとか。

「早い時期から礼節を身に付けるという意味でも、子供に教えるのは有意義です。ただ技能を習得するだけでなく、精神の修養になります」ここ30年で アメリカ人に急速に広まった沖縄空手。その理由について新城さんは「沖縄の空手、特に劉衛流は自然な姿勢を重要視します。立ち方に無理がないし、随所に自 然な動きを取り入れています。腰を落とした見た目の美しさばかりを重視すると、身体に負担がかかります。重心を低くするというのは白人や黒人の体型では非 常に苦しい。でも、沖縄空手では重心を低くする必要がない。アメリカ人に受け入れられたのはその辺にも理由があるかもしれません」

しかし、さまざまな流派が一堂に会して競う大会では、勝つために見た目の美しさを求めて、時には型に無理な姿勢も取り入れざるを得ない。そこが葛藤であり、克服すべき今後の課題だと語る。

新城さんは、アメリカ人の妻、タミーさんとの間に5人の子供に恵まれた。この日も長男の友憲さんと次男の友嗣さんが練習に参加していた。「子供たち が空手をやるべきだと主張したのは家内です。半分は沖縄の血が入っているのだから、と半ば強制的に始めさせました。私はむしろ、そういうことは言わないタ イプなんです」と新城さん。ウチナーンチュの伝統は、アメリカ人妻の内助の功で引き継がれているようだ。

www.ryueiryu.com

* 本稿はU.S. FrontLine January 2008 (3rd week) からの転載です。

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フォーラム通じ「ウチナーンチュの交流」呼びかける

2008年3月1日、全米日系博物館のホールに二百名ほどの聴衆が集まった。お目当ては「沖縄出身者のグローバルネットワーク」と題された公開フォーラムだった。

沖縄からの海外移民の背景を説明したのは、琉球大学教授の金城宏幸さん。「経済が困窮していた沖縄に、少しでも多くの海外からの仕送りを得るため、 19世紀末から出稼ぎが目的の移民が促進された。第二次大戦敗戦後は、海外のウチナーンチュコミュニティがまさにライフラインだった。アメリカ、ペルー、アルゼンチンなど各地から、お金だけでなく食糧、衣服が送られた。彼ら、海外のウチナーンチュは自分たちの故郷再建のためにできるだけのことをした」

1990年に第1回の世界ウチナーンチュ大会が開催された。回を追うごとに参加者は右肩上がりで増加を続け、2006年の大会には5000人が集まった。参加者は必ずしも沖縄にルーツを持つ人ばかりではなく、沖縄出身者の子孫は7割という数字だった。会場に映し出された大会の映像からは、まさにお祭り騒ぎの賑やかな雰囲気が伝わってきた。国際通りを、国の民族衣装や国旗を手に練り歩く人々。アロハにレイの人々は明らかにハワイから駆けつけたのだろう。車椅子でパレードに参加している人もいた。手を握りあう人、満面の笑みを浮かべる人、それぞれが故郷への帰属意識を高揚感と共に強く感じているようだった。

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北米沖縄県人会からの奨学金で沖縄に留学し、その後働きながら6年滞在した山内優子さんもウチナーンチュ大会の体験を披露した。

「子供の頃、父にブラジルやハワイに親戚がいるんだと聞かされた時は、うちの家族は旅行好きなのかな、くらいにしか思っていなかった。しかし、実際に見た沖縄では目から鱗の体験の連続だった。2001年のウチナーンチュ大会で三線(さんしん)を弾いた時のこと、会場に詰め掛けた数千人の聴衆の熱気はまさに衝撃的だった。世界中の沖縄移民の子孫たちと個人的にも知り合い、今ではメイルで連絡を取り合っている。とにかくウチナーンチュが何をしているか、それを知りたいという気持ちがそうさせている」。山内さん自身は幼い頃に父母と渡米してきた新一世だ。沖縄での留学と滞在経験が、彼女のウチナーンチュ魂 を目覚めさせる転機になったのだ。

ウチナーンチュ魂は、沖縄生まれの祖母から受け継いだと話すのは、サンフランシスコ州立大学でアジアアメリカ研究に携わっているウェスリー・上運天(うえうんてん)さん。ハワイ生まれの3世だ。

「子供の頃、祖母はことあるごとに『有り難い』と口にしていた。毎朝、オレンジを手に、『有り難い』と言いながら各部屋に1個ずつ置いて歩く。それを拾って歩くのが幼い僕の役目だった」

そして「ご先祖様への感謝の気持ち、心を沖縄の人は大切にする」と強調。「ウチナーンチュ大会でも、大それたイベントとしてではなく、大きなホールに皆が集合して互いに交流を深めるだけでも十分意義がある。外国語を習いたい沖縄の学生も参加するといい。言葉がすべてじゃない。コミュニケーションは心だ。『いちゃりばちょおでえ(会えば皆友達)の精神だ』

金城教授をはじめとする3名の琉球大学のプレゼンテイターの研究発表と、在米のウチナーンチュ新世代2名のスピーチを熱心に聞いていたのは、50代以上と思われる層の人々だった。彼らの主言語も既に英語である。

驚かされたのは、山内さんが「ウチナーンチュ大会に参加されたことのある方は?」との質問にかなりの人(恐らく2割ほど)が手を挙げたことだ。そして、ロサンゼルスの日系社会で活躍している元政治家、医者、実業家の姿も聴衆の中に多く見受けられた。親や祖父母の世代から引き継いだ彼らのウチナーンチュ魂が、故郷の再建に寄与しただろうことは想像に難くない。

俄然、2011年の世界ウチナーンチュ大会に参加したくなってきた。筆者は沖縄県人ではない。しかし、上運天さんも強調していたように「血のつながりよりも、むしろ心が大切」なのである。

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日系ペルー人の終わらない戦後 その3: ペルー政府を許すことが出来ない: 親川八重さん

その2 >>

4歳の時に家族と共にペルーからアメリカへ渡った中松さんと違い、第二次大戦中、親川八重さんは既に結婚して夫の経営するリマの市内のマーケットを 手伝っていた。親川さんは1918年沖縄生まれ。結婚相手の暮らすペルーに渡り、数年が経っていた。夫が連行されたのは昼休みのことだった。突然ドアを ノックする音がして、夫と夫の兄の名前が呼ばれた。そのまま警察署に連れて行かれ、二度と家に戻ることはなかった。

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夫が消えてもペルー政府からは何の連絡もなかった。「残された家族はそれはもう心配した。でも、多分アメリカに連れて行かれたのだろうと想像はして いた。ペルーの新聞もアメリカと結託していたのか、消えた日本人について記事にすることはなかった。私には子供がいなかったので店の仕事に専念することができた。それでも、ペルーの役人が店にやって来て、売上金を全部持ち去った。そして、家族の食費の分だけ支給してくる。小切手帳まで没収された」

やがて夫からの手紙が届いた。アメリカの収容所をたらい回しにされているようだった。そこで夫の父親である義父と相談し、残った家族でアメリカに向 かうことにした。「お店の品物もすべて置き去りにした。当時、ペルーではシャツもネクタイも縫製できなかったので、うちの店では日本から仕入れた品物を 売っていた。それもすべて政府に盗られてしまった」。後ろを振り返らず、親川さんの一家はペルーの港から船に乗った。「私以外の人も皆、商売で成功していたのに、すべてを捨てて船に乗っていた。コーヒーショップの経営者、レストランの経営者、アパートの経営者もいた。彼らはアメリカでどうなったのだろう。 その後のことはわからない」

ニューオーリンズの港に入り、汽車でテキサス州クリスタルシティーの収容所に着いた。そこで1年ぶりに再会した夫と喜びをかみしめた。3年間の収容 所生活の後に戦争が終わった。「沖縄に帰るという話もあった。しかし、その時、義父が日本人は今、戦争に負けて食べ物にも困っている。外から引き揚げた者 はもっと辛い思いをする。引き揚げるべきではない、と言った。結局、私たちはカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のコビナに移住することにした」。親川さん の夫はガーデナー(庭師)の職を得た。親川さん自身は洋裁の仕事をした。家族は皆、寄りそうようにして生活していた。家族だけでなく、ペルーから来た人 は、中村権五郎というリーダーを中心に皆で助け合っていたと言う。そして、親川さんは1952年に娘のリンさんを出産した。

親川さんに会って話を聞いたのは2006年の春のことだった。自分が生きてきた90年近い人生を振り返り、彼女は最後にこう言った。「19歳でペ ルーに渡った時は一生そこで暮らすものだと思っていた。アメリカに来てから一度もペルーには戻っていない。ペルーの政府を許すことが出来ない。なぜ補償の運動に参加しなかったか?中村さんのような人が生きていたら、彼を中心に弁護士と何か活動をしていたかもしれない。しかし、私たちのような者には何もできなかった」

ペルーのことは今でも夢に見るそうだ。「ドアがノックされた時のこと。びっくりして目が覚める。あの時に私たち家族の人生は大きく変ってしまった」

中松さんと親川さんが揃って口にした「自分たちの家族以外に、戦時中の移送の体験を話したことなどなかった」との言葉は衝撃的だった。戦争の犠牲に なった日系ペルー人たちは、理不尽な過去を胸の内にしまって、彼らにとって異国であるアメリカで一生懸命に働いてきたのだ。今回の取材を通して、日系ペ ルー人たちの悲劇を広く伝えていかなければならないという思いを強くした。

(終)

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日系ペルー人の終わらない戦後 その2: この国で生きていくのに必死だった: マイク・中松さん

>> その1

カリフォルニア州サウストーランスの自宅で出迎えてくれたマイク・中松さんは1938年のリマ生まれ。沖縄出身の日系2世だ。検眼医を引退した現在 は、夫人のアイコさんと海外旅行するのが楽しみだと話す中松さん。その穏やかな表情から、ペルーからの強制連行と収容所生活、アメリカに残留して家族でゼロからの出発を余儀なくされた過去を読み取ることは難しい。

両親はリマ郊外で食料品店を経営していた。ペルー日系社会での実力者でもあり、日系人が稼いだお金を日本本国へ送金する組織の役員も務めていた。

第二次大戦中のペルーでの日本人狩りの対象となった中松さんの父親は、1943年、突然、家族の前から姿を消した。翌44年に母親と6人の子供たちは、父が待つアメリカ、テキサスのクリスタルシティー収容所に向かった。収容所の中の学校に進学し、生活言語はスペイン語から英語に切り替わった。戦争が終わった後は、日本へ帰る選択肢もあったが、母親が反対した。戦場となった沖縄は焼土と化しており、アメリカに残った方がまだ望みがあるのではないかと思ったからだそうだ。

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親戚も知りあいも誰もいないロサンゼルスに、1947年に、中松一家は移ってきた。既に50歳になっていた中松さんの父親は、風船作り、イチゴ農園での労働に従事した。全財産をペルーに残してきた父は、家族を養うのに必死だった。中松さん自身もイチゴ農園で働いていたせいで、検眼医の学校に進学するのが遅れ、同級生は皆、年下だった。

検眼医として働き続けた数十年後、アメリカ市民の水準以上の生活を送れるようになった中松さん。日系ペルー人が強制連行と収容に対して、アメリカ政府に賠償要求の運動を展開している時も、両親も本人も活動に加わることはなかった。「とにかく生きていくのに必死だったから」と話す。

中松さんの夫人も日系アメリカ人として収容所生活を経験している。夫人のアイコさんは今でもよく「戦時中の政府の日系人への態度はフェアではなかっ た」と振り返ると言う。しかし、母国から引き離されて連行された日系ペルー人の多くが、自分たちの過去の悲劇については沈黙を守っている。中松さん自身も その一人だ。幼い頃の自分に起った出来事をよりよく知るために、大人になってから、日系ペルー人の強制連行に関する本を何冊も読んだそうだ。それによって、自分の受けた体験と歴史的史実はリンクしたものの、それを第三者に伝えたことは一度もなかった。自分がペルー出身であることを積極的に明かすこともしなかった。中松さんの息子は日系ペルー3世ということになる。しかし、彼はルーツの国、ぺルーには興味を示していないそうだ。「彼が興味を持った時に初め て自分で調べ始めればいいこと。父親の私から強制する気は毛頭ない」と中松さん。

巨大な権力によってアメリカに強制連行されて運命を翻弄された日系ペルー人たち。戦後60年以上経った今、アメリカ一市民として平和な生活を送れて いることにただ感謝している彼ら。しかし、その平和な生活は、家族で一丸となり自力で基盤を作り育ててきたものだ。日本を離れ移住したペルーで成功した後に、再びアメリカ移住を余儀なくされた日系ペルー人が、中松さんが言うように「生活していくのが必死で、賠償運動など考えたこともなかった」というのは確 かに本音かもしれない、と思わされた。

その3>>

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メンソーレ!沖縄 in U.S.A.

第4回 世界のウチナーンチュの動きを知らせる新聞を編集発行

金城武男さん
ハワイ生まれ帰米二世


沖縄系移民の動向をまとめた新聞「五大洲」をロサンゼルスで編さんしているのが、発行人の金城武男さんだ。「五大洲」とはアジア、ヨーロッパ、アフリカ、オーストラリア、アメリカの5大陸を指し、世界を意味する。

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新聞の名はハワイ移民の先駆者、当山久三の言った「いざ行かん、我らの家は五大州」に由来する。この言葉が表すように、沖縄出身者は全世界に移住し ている。「移民の末裔たちの近況を一目で把握できる媒体がない、であれば自分で編集しなければ」と思ったのが創刊のきっかけだと金城さんは語る。以来43 年、隔週または月刊で発行を続け、2007年11月12日号で588号目を迎えた。

タイプ、コピーの切り張りと手書きが混在した4ページの紙面。沖縄から発信された記事がある一方で、ブラジル、ハワイ、インディアナ、フロリダなど 世界の沖縄県人会のニュースに紙面の多くを割いている。情報源は、金城さん自身が購読している沖縄関連の新聞や県人会のニュースレター。

金城さんは、1922年にハワイで生まれた。1歳で母親に連れられて沖縄に渡った後、アメリカに戻って来た帰米二世だ。沖縄本島中部の金武で小学校 を終え、14歳の時に親戚に連れられてハワイに戻った。沖縄に残っていても仕事がなく、ハワイのパイナップル畑で働けば1カ月の給料が60円、当時の日本 の校長先生の月収の3倍が稼げたからだ。

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11カ月後の1938年、金城さんはアメリカ本土に移った。ロサンゼルスの親戚が経営しているイチゴ農園に置いてもらい、そこで1週間休みなく働き 続けた。「ハワイでは日曜は休みだったのに、ここではまったく休みがない。だから少しでも休みたいという一心で、親戚の子にくっついてジュニア・ハイス クールに通い始めました。英語は分からなかったけど、代数でAをもらった。無事同級生と一緒に卒業でき、ベルモント・
ハイスクールに進学しました。そこには日系二世も多かったですね」

高校卒業を前に、アメリカと日本が開戦。金城さんはサンタアニータの日系人収容所に送られた。その後、アイダホ、ワイオミングと転々とし、アーカン ソーのリロケーションセンター内の高校を卒業する。大学進学を希望したが、収容所生活を送っている日系人を入れてくれる大学がない。市民権を放棄して沖縄 に帰ろうと思ったという。しかし、いざ終戦を迎えると、日本は食料難だという話が伝わってきた。結局、帰国は諦め、ニューヨークで数年働いた後、1948 年、ロサンゼルスで庭師になった。そして85歳の今も庭師を続けながら「五大洲」を発行している。

世界の移民の心をつなぐ

「沖縄出身者がどこでどのように苦労しているか、成功しているかを知らせるために作り続けている。創刊時のタイトルは『Okinawa Immigrants, Sons and Daughters (沖縄移民の子女)』。年間10ドルのサポートをいただいて読者に送っています。送り先は沖縄の市町村、南米のブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビ ア、メキシコに全米各地の県人会。ヨーロッパではフランスとドイツ、アジアではフィリピンなど。年間10ドルなのに100ドル、500ドルと小切手を送っ てくれたり、『楽しく読んでいます』という励ましの言葉を書いてくれたりする人もいます。私は新聞の仕事で給料をもらうつもりはない。会計報告は毎年きっ ちりしています」

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金城さんが発行している新聞は、世界の沖縄移民、そして移民を送り出した沖縄の人々の心を一つにつなぐ役目を果たしている。しかし、そろそろ後継者探しをするべき時ではないだろうか。

「今後については、いろんな人が心配してくれます。(後継者を)探してくれるという人もいたが、私の方から断わりました。これまで誰のアイデアでも なく、自分の考えで出してきたんです。(日本では)小学校しか出ていない私が、ウチナーンチュの動きを知らせるためだけにやってきたわけです。それに『売 らんかな』でやっているものでもない。ほかの人が続けたいなら、まったく別の名前でやってくれればいい。その方がその人の自由にやれるでしょう。これから も私が一人でやり続けて、できなくなったらグッド・バイ。それだけのこと」

「ウチナーンチュの動きを知らせる」ことをライフワークとして取り組んでいる金城さんの愛郷心の強さは、インターネットの時代になっても、彼の新聞を毎月待っている多くの読者の故郷を思う心をそのまま反映している。

* 本稿はU.S. FrontLine January 2008 (3rd week) からの転載です。

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