ホーリー・ヤスイ

(Holly Yasui)

ホリー・ヤスイさんは、フリーランスライターであり、編集者、翻訳家(スペイン語から英語。大学で日本語に挑戦しましたが、挫折しました)で、現在はメキシコのドローレス・イダルゴに在住している。コロラド州デンバー生まれのヤスイさんは、コロラド大学で芸術学学士を取得後、ウィスコンシン大学でコミュニケーションアートを専攻し、修士号を取得しました。その後、メキシコに移住するまでワシントン州シアトルで働きました。現在、ヤスイさんは、ミン・ヤスイ氏の生誕100周年となる2016年、同氏のトリビュートイベントの開催に向け、準備を進めています。また、ヤスイさんは、ミン・ヤスイ氏に関わる資料等、特に録音記録(音声または映像)をお持ちの方で、当プロジェクトに貸し出していただける方を探しています。ご協力いただける方は、Editor@DiscoverNikkei.orgまでご連絡ください。

(2014年1月 更新) 

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Never Give Up! Minoru Yasui and the Fight for Justice

“We need more people like Min Yasui in the world—who are willing to stand up for what is right, for whom principles of justice are more important than personal comfort. I’m honored to be able to work on this film, about a man whose story needs to be heard by a wider audience.”

—Will Doolittle, co-director, Never Give Up!

November 2 is Day of the Dead in Mexico, and I live in the very fiesta-prone town of San Miguel de Allende. It is not a sad day but a colorful and joyous holiday. Families and institutions build beautiful altars to …

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Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity

娘から見たミノル・ヤスイ 「公民権ヒーロー」

父、ミノル・ヤスイは、いつも、いやほとんどいつも、私のヒーローでした。でも、全ての人がそう思っていた訳でも、いつの時代もそう思われていた訳でもありません。

1942年、父が夜間外出禁止令の合憲性を問いただすため試験的に裁判に乗り出した時、父をヒーローだと思う人はいませんでした。メディアは、父を裏切り者の「ジャップのスパイ」と決めつけ、日系アメリカ人市民同盟(JACL)は、「新聞の一面を飾りたがっている身勝手な殉教者」と呼びました。1944年、父がハートマウンテンの徴兵拒否者に訴えを退けるよう説得に行った時、彼らは、夜間外出禁止令を意図的に破った父が、収容所の不当性に対する抗議活動に反対することは裏切りだと言いました。1960年代、父は、デンバー・コミュニティ・リレーションズ委員会の委員長を務めていました。人種間の緊張関係が高まる中、メキシコ系アメリカ人による「正義のための十字軍」という団体は、警官による中南米系の若者に対する暴行事件をうやむやにされたとして、父の免職を声高に要求しました。1970年代から80年代のリドレス運動(補償運動)での父は、強情で威圧的でした。父の言葉を借りれば、「気難しい」性格だったので、父のスタイルややり方を嫌う人たちもいました。

ミン・ヤスイは、よきにつけ悪しきにつけ公人であり、人々の支持を得られるかどうかに関わらず、自分自身の立場を取ることを臆しませんでした。

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では、私は父について、ヒーローや公人としてではなく、一人の人間または父として、一体何が語れるでしょうか?

私にとって父は、愛情豊かで気配りのできる、寛容で素晴らしいお父さんでした。

私は、アクティビストの子供たちの話をいくつか読んだことがありますが、彼らは親に無視され、親の活動の重みの陰に隠れているように感じていたようです。私は、そんな風に感じたことはありませんでした。父は、平日はほとんど毎晩のように、そして週末でさえコミュニティの会合に参加していましたが(私たち姉妹は、お父さんとはそういうものだと思っていました)、父も母も、家族みんなで一緒に何かできるよう努力してくれていました。

私がまだ小さかった頃、母は父の秘書をしていました。平日の放課後と週末には、母は私たちをデンバー都心部にあった父のオフィスに連れて行ってくれました。父は個人経営の弁護士だったので、私たちが事務所で遊んでいても問題ありませんでした。オフィスは、デンバー中心部の街にあり、有名な穴場でもありました。父の顧客のほとんどは日系アメリカ人で、戦争の影響で貧しくなった人々か、貧しいマイノリティの人々でした。父は、法律扶助の弁護士事務所が一般的になる前の時代、既に同様の事務所を個人で営んでたのです。

そんな訳で、父は、現金の代わりに代価として物を受け取ることがよくありました。子供だった私たちは、漫画やちょっとしたものを「付け」としてもらうことができたので、近所の日系人のお店に行くことがとても楽しみでした。お隣の「アケボノレストラン」では、無料で食事をすることもできました。

ある年、二世の農夫が生きた七面鳥をくれたので、裏庭で飼うことにしました。大きく騒々しい鳥で、餌をやる度に私たちをつつこうとするので、皆に恐れられていました。厳密にはペットではありませんでしたが、11月が近づくにつれ、感謝祭のご馳走として七面鳥を締めるのは忍びない気持ちになっていました。農家の人たちは、都会の人のように家畜を締めることに抵抗はないので、私たちは七面鳥を返すことにしました。なんという取り引きでしょう。父は、報酬の代わりに年老いた気難しい七面鳥を何ヶ月もかけて太らせた挙句、他の家族が食べることになったのですから。

子供のころ、私たち姉妹は延々に続くJACLのイベントに堪え、デンバー道場で柔道を習い、復員軍人会キャセイ支部のホリデイパーティーや、トライステイト仏教寺での日本の侍映画上映会、父の法律関係やその他の職務のための会合に喜んで参加しました。また、父が執筆から編集、レイアウトをしていたAJAニュースの発行作業を進んで手伝いました。AJAとは、「Americans of Japanese Ancestry(日本にルーツを持つアメリカ市民)」の略で、100人以上の購読者がいました。(皆が購読料を支払っていたかは不明ですが、払われていなかったように思います。)姉たちと私は、ガリ版と宛て名印刷機を使っていました。コピー機よりも前、コンピューターの登場よりずっと前の時代です。私たちは、居間の床で一部ずつニュースレターを折り、郵便番号順に並べ、いくつかの包みに分けて紐で縛り、郵便局に持って行きました。

父は、ボーイスカウトのリーダーもしていました。女ばかりの家族(妻と3人の娘)や座り仕事からの息抜きにもなっていたのでしょう。父は、アウトドアが大好きでした。オレゴンのコロンビア川支流のフッド川で育った父は、幼少期から自然と戯れていました。父が率いる庶民ばかりの多民族編成の「第38部隊」という名のボーイスカウトは、1950年代から60年代にかけ、1年を通して月に一度、デンバー西部の山でキャンプをしていました。夏になると、私たち姉妹はスカウトに同行させてもらいました。日の長い天気の良い日には、釣りに連れて行ってもらうこともありました。私は、生きたミミズを釣り針に掛けることはできませんでしたが、川のほとりで父の隣に座り、おしゃべりをすることもなく(「魚を怖がらせるから」と父は言いました)、美しいロッキーマウンテンの中で自然の静けさに浸る時間が好きでした。

夏は、家族旅行の季節でもありました。私たちは、荷物をステーションワゴンに乗せ、西海岸、中西部、東海岸まで足を伸ばしました。車のリアウィンドウには、40州以上から集めたステッカーが貼られていました。ずいぶんと後になって知ったことですが、私が生まれる前から赤ちゃんだった頃にかけ、父は、1948年の日系アメリカ人避難請求法のためにロビー活動をして回り、関係書類の受け渡しをしていたそうです。父は、JACLと共にこの法律の議会での成立に貢献しました。同様に、父は1952 年の移民・国籍法(マッカラン=ウオルター法)のロビー活動のため、国内を回りました。この法律により、一世は帰化し、米国市民となることができたのです。

1960年代まで、夏の家族行事だったロードトリップは続きました。父はいつも忙しく、第二次大戦後、全米各地に分散してしまった日系アメリカ人の社会組織の構築と維持のため、今でいう「ネットワーキング」活動に余念ありませんでした。旅の途中、観光のために足を止めるたび、父はコミュニティセンターや教会、小屋などへより、人が集まり、話ができる環境があれば、会合に参加したりスピーチをすることもありました。父は、古いタイプの演説家で、派手なストーリーや仰々しい話し方で群集を魅了しました。父は私に対しても、そのような話し方でたくさんの話をしてくれました。その多くは家族の伝説となっています。

私たちの家では、強制収容所の話題はタブーだったり、沈黙や恥の意識に覆い隠されているものではありませんでした。実際、母が収容されていたグラナダキャンプ(収容所)は、子供が参加するサマーキャンプのような響きをもって子供の頃の私には聞こえていました。母は、沈んだトーンで「キャンプ時代の友達」の話をすることが頻繁にあり、私は、貧乏な生活をするよりずっと楽しいだろうな、と思いながら聞いていました。

一方父は、テストケースをどのように始めたか、語り聞かせるのが好きでした。ジョン・L・デウィット将軍による外出禁止令で定められた8時以降、父は、何時間もポートランドの街道を歩き、逮捕されるのを待ちました。父の努力は無駄に終わり、結局捕まることはありませんでした。父は、声明文と出生証明を手に警察本部に出向き、自分を逮捕することは警察の義務であるとどんな風に押し問答をしたか、生き生きと詳細に語ってくれました。警察官の「坊や、早く帰りな。面倒なことになるぞ」というオチのところで、私たちはいつも笑いました。

この逸話は、父の逮捕に関して深い部分まで掘り下げています。私は、父がこの話をしてくれた時のイントネーションや表現方法を鮮明に思い出すことができるので、当時について書かれたものを読むのが好きです。父は、自分が時々大げさな物言いをしたり、わざと自虐的な冗談を言うことがあることも自覚していました。そして、父にとって大切だったのは、権力者は皆が偏見を持っている訳ではないということを人々に知ってもらうことでした。例えば、警察官は、偉そうだけれども好意的で、同情的ところがあったというのを、伝えたかったのだと思います。

祖母、シズヨ・ヤスイに関するもう1つの家族の逸話も、私の中で強く印象に残っています。

1942年、FBIによる最初の連行で姿を消した祖父に代わり、祖母は、1人で一家を支えていました。父は、金曜の夜に逮捕され、父の写真は、「ジャップスパイ逮捕」という衝撃的な見出しと共に週末の新聞の第一面に掲載されました。月曜日、父はフッドリバーの祖母に電話し、心配をかけたことを謝りました。しかし祖母は、「心配どころか薦めるよ!頑張って!」と言ったそうです。

祖母の夫はどこかに連れ去られたまま不在で、彼女自身は英語を解さず、不安定な環境と周囲の敵意に直面しながら、農場や店の世話を一手に引き受けていました。このような状況にあったにも関わらず、祖母は、息子を叱るわけでも、逮捕されたことを怨むわけでもなく、息子を励ましたのです。ミン・ヤスイが、最後までテストケースをやり通そうとした勇気や意志を誰から受け継いだのか、このエピソードは物語っていると思うのです。

もしかすると父は、他の父親たちに比べ、良い「一家の稼ぎ手」ではなかったのかもしれません。私は、母が請求書の支払いや私たちの食事や衣服など、お金にとても苦労していたことを知っています。(末っ子だった私は、いつもお下がりを着せられ、とても嫌でした。)恐らく母は、お金の優先順位がもう少し高ければ、と時々思っていたのではないかと思うのですが、ヤスイ家には金儲けを重視する価値観はありませんでした。父は、JACL活動や、ブラック・アーバン・リーグ、ラテンアメリカン・リサーチ・アンド・サービス・エージェンシー(LARASA)、デンバー・ネイティブ・アメリカン・ユナイテッドといったコミュニティ団体設立のための無償の活動に忙しく、お金のことは、全て母に任せていました。母は、倹約と貯蓄に努め、低所得層のクライアントから受け取ることのできたわずかな報酬(父が請求した場合のみ)ができるだけ長くもつようやり繰りしました。

1960年代半ば、父は、決して儲かることのない個人経営の弁護士事務所をしめ、デンバー市のコミュニティ・リレーションズ委員会を監督する仕事に就きました。一番上の姉が高校に入学した時、父と母は、姉に続いて下の姉と私も大学に入れなければならないと考え、収入を増やすか少なくとも定期的な収入を得なければならなかったからです。お金とは違い、教育は重要視されていました。

もちろん私も大学に進学しました。ライティングクラスの課題で父にインタビューした時、初めて父の戦時中の体験について多くを知りました。私は、父の裁判を題材にした演劇を作ることにしましたが、父の生前に完成させることはできませんでした。

20代の頃、私は、アイデンティティの再定義と制度への抗議に夢中でした。そしてそれは、時として父の考え方と合致しませんでした。例えば、父は私のようにマルクス主義や反戦運動、過激な抗議戦略に賛同していませんでした。当時父は、補償運動に関わる実務的問題で手一杯でした。それでも普段の私たちの関係はとても良好で、コロラド大学の学生だった私は、毎週末のように実家に帰りました。私がロサンゼルスやウィスコンシン州マディソンの学校に通っていた頃、父はよく手紙を書いてくれました。父は非常に筆まめで、几帳面でした。毎日誰とどこで会い何をするか、といった予定を数ページにわたり詳細にタイプして書き出し、日々の行動を順序だてて整理していました。この大量の記録は、父が旅に出る時に特に役に立ちました。実際父は、1970年から80年代にかけ、補償運動のためにかなりの距離を旅することになりました。

私が南カリフォルニア大学の学生だった頃、父に同行し、マンザナール巡礼に参加したことがあります。そしてその時、私はスピーチが仰々しいと父を批判したことを覚えています。(私は、父が代表として参加したJACLがなぜその巡礼で歓迎されなかったか、後日知りました。)ウィスコンシン大学のアジア系学生組合で、父は補償運動についてスピーチをしました。私もこのイベントの開催を手伝っていました。父の古い演説スタイルやそれを聞く今風のアジア系の若者たちが目をキョロキョロさせたりクスクス笑ったりしていることが、最初は少し恥ずかしく感じられました。でも、彼らは少しずつ静かになり、落ち着きを取り戻し、最後に父が興奮状態で「二度と繰り返してはならない!」と宣言すると、彼らはみな立ち上がり、父に大きな拍手をおくりました。

私がハートマウンテンの徴兵忌避者について知ったのは父の死後でした。私たちの歴史上に起こったこの辛い出来事について、父がどのように関わったのか、父から直接話を聞くことはできませんでした。数年前あるコンファレンスで、私自身は当時の父の立場に完全には同意できませんでしたが、父の立場から発言することになり、苦しい立場に立たされたことがありました。私の演劇では、徴兵忌避者になった少年時代の友人を登場人物として、非常に困難な時代に二世の若者が直面する感情面やモラル面での複雑さを描きました。

私がリム・レポートを読んだのは、つい最近のことでした。(私は、過去20年に渡りメキシコに住み、退職後、2013年シアトルのJANMコンファレンスに参加するまで日系コミュニティとのつながりはありませんでした。)この資料は、私が小さい頃から知っていたJACLとは全く異なる様相を呈していました。私は、父が献身的かつ活発なメンバーとしてJACLに参加し、会に対して率直に意見もできる、近しい関係にあると思っていました。しかしながら、1943年、驚くべきことにJACL全米本部は父を拒絶し、父が収容されていたミニドカ収容所の草の根サポートグループを解散させるなどして、戦時中の父のテストケースに反対していたのです。

私は、JACLがこのような侮辱行為に及び、父に被害を与えていたことを知り、父が、戦時中に対立したJACLメンバーを許しただけでなく、その後も彼らと同意できる共通項、すなわち徴兵忌避者の問題や後の補償運動において協力し続けたことに、驚きを隠せません。父は、JACLの「政党路線」と契りを結ぶような人間ではありませんでした。そのように考える人もいたようですが、たとえ仲間や今後仲間になるかもしれない人が反対しても、父は、自分自身の信念に従いました。そして、父の信念の正当性と、それが公益のためであることを伝え、説得に努めました。父は大変誠実で、十分な道徳心を兼ね備え、他者の間違いを許し、自分の間違いは認め、他者の異論や意見に耳を傾け、策については妥協を認めましたが、信念を曲げることは決してありませんでした。

1983年、デンバー市の仕事を退職した父は、全米JACLの補償に関する委員会の代表として全力で活動に取り組み始めました。父は、大統領、閣僚、国会議員の他、党派を問わず影響力のある政治家に友人のいる知人や同僚に手紙をかき、何千本もの電話をかけ、何百回ものスピーチをし、インタビューに答え、毎日または1日にいくつものミーティングに参加しました。国内を縦横断し、文字通り数千マイルもの距離を移動し、ロビー活動のために高速稼動するよう設定されたマシーンのごとく生きていました。なぜなら父は、自分自身の先が長くないことを、そして一世の先はもっと短かいことを知っていたからです。父は、1986年の秋、70歳でこの世を去りました。

父が、1988年の大統領による市民の自由法への署名を見届けられなかったことを残念に思いますが、父にとって重要だったのは、結果よりも過程であったと私は信じています。そしてそれは、活動を継続する努力であり、自己誤審令状を請願した弁護士たちが、何年もかけ裁判所へ提出する意見書や書類の準備を続けたことや、全米日系人博物館などのコミュニティグループや団体が、我々に共通する過去の記憶をつなぎ、私たちを未来へと導くためコンファレンスやその他の活動、イベント等を行ってきたことと通じています。

父が成し遂げることの出来なかった多くのこと、すなわち1943年の裁判の棄却、1980年代の全米JACL代表選での落選、全団体の協力を補償運動に集結させられなかったこと、聴聞の機会さえ与えられず自己誤審礼状が却下されたことは、正義を信じられなかった人々や、それを行使しようとしなかった人々を落胆させたかもしれません。それでも父の信念は揺らぎませんでした。祖母や祖父の教えに従い、父は屈することなくやり通しました。

私は、小さい頃から大人になるまで父に言い聞かせられてきた明言と共にこのエッセイを締めくくりたいと思います。それは、祖父が父に言っていたことでもあります。

「私たちは、ある目的のために生まれてきた。その目的とは、この世をより良い場所にすることだ」

この言葉には、他者への献身をモットーとする意味合いだけでなく、包括的で深い寛容性があります。父は、娘たちや周囲の人たちに目的を果たすことを強いることはありませんでした。3人の娘たちは誰1人弁護士になることはなく、公とは程遠い世界で生きています。父は、私たちに意見を押し付けることもなく、私が知ったかぶりの大学生だった頃でさえ、私の異なる考え方を尊重してくれました。(でも、父は私に「わかったような話」をすることもありましたが。)父から助言を受けた私たち姉妹や従兄弟、その他多くの人たちは、父と同じ道を歩む者こそいませんが、それぞれが父によって開かれた道を歩んでいます。私たちは、それぞれの信念に従い、情熱をもって、世界がより良い場所になるよう個々の人生の中で最善を尽くしています。

 

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現在、ホリー・ヤスイさんは、ミン・ヤスイ氏の生誕100周年となる2016年、同氏のトリビュートイベントの開催に向け、準備を進めています。ヤスイさんは、ミン・ヤスイ氏に関わる資料等、特に録音記録(音声または映像)をお持ちの方で、当プロジェクトに貸し出していただける方を探しています。ご協力いただける方は、Editor@DiscoverNikkei.orgまでご連絡ください。

 

* ホーリー・ヤスイさんは、2013年7月4日から7日に行われた全米日系人博物館による全米カンファレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity』でのセッション「Hirabayashi, Korematsu, and Yasui: Family Perspectives」の発表者です。

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