郷 崇倫

(ごう・たかみち)

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  

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日系人社会における市民権の問題について:「N・R・A・の米國」を読んで思ったこと

ロサンゼルスで1931年に加州毎日新聞社を立ち上げた藤井整は、1934年11月に「N・R・A・の米國 附在米日本人の産業」を出版しました。1 彼がこの本を出版した主な目的は、世界恐慌のさなかに、アメリカ政府が打ちだしたニュー・ディール政策の詳細や当時の国際関係を、日系人社会に伝えるためでした。

藤井整はこの本の冒頭において、このように記しています。

この拙著を
在米幾十年の尊敬する先輩各位
親愛なる同胞諸氏
および
わが親しき友人達
愛する第二世諸君
に捧ぐ

この本は、日本語を母語とする一世にとって、アメリカ社会における生活術の指南書となり、将来の日系人社会を支える二世たちへの藤井整の愛情のあらわれでもありました。

この著書は、8つの章に分かれています。第1章~第6章は、当時のアメリカ政府の経済政策、フランクリン・ルーズベルト大統領の人物像、さらには、当時の国際情勢や一世の経済活動へのアドバイスで構成されています。第7章~附録は、主に当時の日系人事情について記されています。

今回は、彼がこの本の第7章において言及している、アメリカ社会における市民権の問題について、わたしなりの感想を書きたいと思います。

日系人社会とアメリカの市民権

黎明期の日系人社会において、市民権問題は極めて深刻なものでした。アメリカ生まれで、アメリカ育ちの二世には、生まれながらにしてアメリカの市民権が与えられた一方で、日本で生まれ育った一世がアメリカの市民権を取得するまでには、長い時間を要しました。一世にとって、アメリカの市民権が取得できなかったことは、当時の日系人社会においては、発展の足かせとなっていました。

1913年、加州の州議会において、一世による土地購入を禁止した外人土地法(排日土地法)が成立しました。これは、日露戦争において日本がロシアを破ったことや、日本が朝鮮半島を植民地化したことによって、アメリカ社会で急速に黄禍論が高まったことなどもその原因の一つとなっています。

外人土地法によって土地所有の道を絶たれた一世は、経済活動が厳しく制限されましたが、アメリカ生まれの二世の名義で土地を借りたり、購入したりするなどして一時的に対処してきました。ところが、まもなく未成年者の土地購入も禁止されたことから、一世の立場はさらに苦しいものとなりました。

そのような状況のなか、一世の小沢孝雄は1922年に、市民権獲得を目的にアメリカ政府を訴えましたが、却下されてしまいました。2 

また、この裁判から数年後、本の著者である藤井整は、市民権を取得できないという立場でありながら、ヨーロッパ系の弁護士、J・マリオン・ライト(J. Marion Wright)の助けを借りて外人土地法に立ちむかい、1928年に、日本人病院を設立を加州州政府に認めさせました。3 

これら一連の日系人の人権をめぐる一世の戦いを知ったとき、わたしは生まれて初めて、市民権というものが、数ある人権のうち、最も重要なものであることを認識しました。

のちに、成人した二世の若者らは、市民協会(Japanese American Citizens League)を結成し、日系人のアメリカ社会における地位向上に努めました。当時の若者たちのなかには、市民権をもつ二世が「良きアメリカ市民」であることをアメリカ社会にアピールすることによって、一世の人権も確立できるだろうという考えをもった人々がいました。

その後、日本との戦争が始まり、多くの日系人が収容所生活を余儀なくされてしまい、市民協会は極めて苦しい状況に立たされました。

1952年、一世によるアメリカ市民権獲得がようやく可能となりました。そして同じ年、藤井整は、外人土地法を葬ることに成功し、一世の人権を確立させました。4

戦後になってこのような人権確立が成功した理由のひとつとして、二世兵士らの活躍があげられます。ヨーロッパの戦地で活躍した第442部隊、情報戦に大きく貢献した陸軍情報部隊、さらには朝鮮半島で勇ましく戦っていた二世の活躍がアメリカ社会に知れわたり、「敵性人種」とされた日系人にたいするまなざしに、大きな変化があらわれたからです。5

長年にわたって差別を受けてきた日系人社会が、世代に関わらず、自らの人権を確立するためにアメリカ社会に訴え、それらを勝ちとっていったことは、日系人社会の「財産」であると、わたしは思います。わたしは、より良い生活を求め、将来のためにさまざまな犠牲をはらってきた多くの日系人に、心からの敬意を表したいと思います。

日本社会がかかえる市民権の問題

日系人社会における市民権の問題は、これからの日本社会を活きる人々へのヒントになりうることを、わたしは確信しています。なぜならば、アメリカ社会においても、日本社会においても、市民権の問題は、侵すことのできない権利だからです。

そしてわたしは、日系人社会における市民権をめぐる諸問題に向きあうたびに、台湾系日本人という立場から、「外国につながる子ども」の市民権についても考えるようになりました。

日本社会における市民権の問題は、現代の日本社会がかかえる解決すべき諸問題のひとつです。この問題の根幹に、1947年に天皇裕仁によって出された最後の勅令によって、旧植民地出身者の市民権を日本政府が一方的に剥奪したことがあげられます。6

また、日本政府は1984年の国籍法改正で、それまでの父系優先血統主義を廃し、両系血統主義に改めました。日本人の父親をもつ子供たちに無条件で日本の市民権が与えられた一方、日本人の母親をもつ子供たちには市民権が与えられず、市民権をもたない子供たちの存在が問題視されたからです。

こうした法改正の背景には、国際結婚率の増加と日本社会における女性差別の問題が国際的な関心事になったことが挙げられます。7これを、ガイアツ(外圧)にともなう法改正であったと受けとめる日本人は少なくありませんが、国際結婚の当事者のひとりとして、「外国につながる子ども」の市民権の問題の解決が、80年代まで先送りされたことは許しがたいことであったと思います。

その後も、日本社会における市民権にかんしての議論が重ねられました。なかでも一番の焦点となっているのは、日本国籍保持者の多重国籍を法的に認めるか否かということです。外国とのつながりがさらに密接になっている現代の日本社会においては、「外国につながる子ども」の存在は、さらに目立つものになると思います。さらには、1990年以後来日した中南米からの日系人の定住化も進んでいます。8 

しかし、その一方で、このような社会変化が受け入れられず、外国につながりを持つ人々を日本社会から排除すべきだと主張するグループが存在するのも確かです。9

ひとりの「外国につながる」日本人として、わたしなりに、日本社会や日本人にたいして「特別な思い入れ」を持っています。排外主義をとなえる人々の意見にまどわされるのではなく、当事者との対話を積極的に実践することで、日本社会における市民権の問題が、建設的に議論され、ほんとうの意味において、開かれた日本社会の時代が来ることを願っています。

 

注釈:

1. 警醒社(戦前に存在した、日本のキリスト系出版社)をとおして出版されました。また、著書の題にでてくるNRAとは、世界恐慌のさなかに設立された国家復興庁(National Recovery Administration)の略であり、全米ライフル協会(National Rifle Association)とは一切の関係がありません。

2. 小沢対米国政府判決(Ozawa vs. the United States)。

3. ジョーダン対田代判決(Jordan vs. Tashiro)。

4. 藤井対加州州政府判決(Fujii vs. California)。彼がこの裁判で勝訴したのは、、南北戦争後の国家再建期(Reconstruction)に成立した奴隷制度から解放されたアフリカ系アメリカ人の人権を保障した合衆国憲法修正第14条(The 14th Amendment of the United States Constitution)の存在や、市民権をもたない住民の人権を保障した、1886年のイック・ウー(益和)対ホプキンズ判決(Yick Wo v. Hopkins)を活用したこと挙げられると思います。

5. アメリカ主導による日本民主化政策や、さらには冷戦によるアメリカの対日戦略の影響もありました。

6. GHQの圧力によって行われたという一面もあったが、このような決定は現代の日本社会における外国出身者の法的地位と社会的地位のあり方に大きな影響をもたらしました。

7. 日本政府は1980年に、女子差別撤廃条約に署名しました。これは国籍法改正のみならず、男女雇用機会均等法改正にも大きな影響をもたらしました。

8. 1990年に日本政府は外国人労働者の受け入れを目的に、入管法を改正しました。これをきっかけに、中南米などを中心に数十万人の日系人が来日しまし、日本社会における多文化共生のあり方に大きな課題をもたらしました。また、ブラジルの法規においては、ブラジルの市民権を保持している人々が、それを放棄することは出来ないとされています。

9. 在特会(在日特権を許さない市民の会)の活動については、アメリカ国務省が発表した2013年度の人権報告書においても言及されていますが、同年の参議院選挙においては、外国人排斥を主張する政治団体、維新政党・新風が候補者を擁立させたことが話題となりました。議席を得ることはなかったものの、合計して16万票以上の得票を獲得しました。さらには、元警察官で外国人犯罪専門家を称する坂東忠信は、自身の活動を外国人犯罪から日本国民を守るためのものとしているが、実際には外国人の排斥を助長するものとして、批判を受けている。

 

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意外と知られていない大相撲における日系人の活躍

「巨人、大鵬、卵焼き」
「江川、ピーマン、北の湖」

これらは、昭和時代の日本社会で流行した言葉です。当時、大相撲は野球と並び、大衆の娯楽を代表するものでした。

これらの流行語が一世を風靡してから、数十年が経ちました。悲しいことに、現在の日本社会では、大相撲の人気が低迷しています。貴乃花親方を中心としたグループが抜本的な改革をさけぶ一方で、ここ数年、力士や関係者らによる不祥事がマスコミをさわがせました。そして、2011年の春、本場所の開催が中止となり、代わりに技量審査場所が開催されるという、異例の事態が起こりました。

以来、日本の大相撲は威信回復に努めていますが、今でも存続の危機に立たされています。

このように非常に困難な日本の大相撲界ではありますが、この世界で頑張っている日系人がいることを、あなたは知っていますか?

魁聖一郎(かいせい・いちろう)

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彼の本名は、リカルド・スガノ。三世の日系ブラジル人です。小さい頃より相撲の稽古を始め、ブラジルで行われた全国大会において無差別級優勝を勝ちとった、エリート力士です。ブラジルで一番という輝かしい経歴をもつ彼は、2006年の春に来日し、友綱部屋へ入門しました。この年、彼は前相撲で力士デビューを果たしました。

その後、およそ1年ほどで、三段力士として活躍するようになった魁聖は、幕下を経て、2010年7月、ついに十両に昇進、関取になりました。さらには、同年の11月場所、彼は十両で優勝し、念願の新入幕を果たしました。

2011年5月の技量審査場所では、初日から9連勝。新入幕の場所であるにもかかわらず、横綱佐田の海の記録に並び、敢闘賞を受賞しました。その後、一時的に番付が十両に下がったもの、2014年現在、彼は幕内上位力士のひとりとして、そして、未来の三役を目指して活躍しています。

わたしが彼のことを知ったのは、来日したばかりの彼をとりあげた短いドキュメンタリーを観たことが、きっかけでした。ドキュメンタリーで、タニマチ(支援者、支持者)からいただいたスッポンの刺身を親方(元関脇魁輝)にすすめられた魁聖は、それを口にしたとたん目を白黒させていました。わたしには、この彼の姿が非常に印象的で、それ以来彼の番付に目を通すようになりました。

それと同時に、わたしは彼以外の日系人力士にも、関心を持つようになりました。調べると、彼以外にも、日系ブラジル人の力士がいたことが分かりました。すでに現役を退いていますが、玉ノ井部屋の北東清(きたあずま きよし)と東風太士(あずまかぜ きよし)です。また、日系ブラジル人力士が誕生するずっと前、1930年代にすでにアメリカ生まれの二世の力士がいたことを知りました。

豊錦喜一郎(とよにしき・きいちろう)

豊錦関の本名は尾崎喜一郎。コロラド州生まれの日系アメリカ人です。1920年に生まれ、17歳のときに、日本にやってきました。翌年、彼は出羽海部屋の門をたたき、本格的に相撲の修行をはじめました。

しかし、彼の相撲人生は、決して楽なものではありませんでした。というのも、彼がようやく関取になったとき、すでに日本はアメリカと戦争状態にあったからです。戦時中、彼はアメリカ国籍保持者であることを理由に、アメリカのスパイではないかという疑いをかけられ、特高(特別高等警察)の厳しい監視を受けました。これがよっぽど堪えたのか、彼は今後このような疑いがかかることを避けるため、アメリカ国籍を放棄し日本国籍を取得します。そして、力士になるという日本へ来た本来の目的を一時中断し、旧日本軍に入隊しました。

そして、戦争が終わり、復員した彼は再び、力士としての道を歩み始めますが、第二の力士生活はそう長くは続きませんでした。

結局、力士になることを諦め、進駐軍の通訳の仕事につき、進駐軍が日本を去った後は、東京で旅館を経営するようになりました。その後、彼はアメリカ国籍の再取得したものの、1998年に日本でこの世を去りました。

もし戦争がなければ、若乃花(初代)や栃錦のような、歴史に名前を残す偉大な力士になっていたかもしれない。そう思うと、日米戦争ゆえに、力士への道が立たれた彼の人生は、とても残念に思えてなりません。

日系人がもたらすだろう大相撲の復権

現在も、各地の日系人社会においては、相撲の人気は絶えないものです。野球やバスケットボール、サッカーなどの球技と比較をすると、いささか見劣りしてしまいますが、歴史の長さという点においては、右に出る存在はありません。

その証拠に、現在もなお、各地の日系人社会においては相撲が行われています。また、小東京の二世週祭でも、相撲大会が開催され、多くの人々が会場に足を運びます。

そして、各地の日系人社会のなかで実力をつけた人々のなかには、日本に足を運び、本格的な修行をする人々がいます。現在の日本の大相撲では、モンゴル人力士や、ヨーロッパ系力士の活躍ぶりが目立ち、日系人力士への関心はなかなか集まりませんが、これからの日本の大相撲で更なる活躍をすることを期待しています。魁聖関の活躍は、人気低迷がさけばれている日本の大相撲の復権に貢献するのではないと、影ながら応援しています。

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日本建築の美しさを世界に―中谷新七と桑港の日本庭園

今から5年ほど前、わたしはロサンゼルス郊外に住む広島県系(廿日市)の日系二世、中谷カツヤさんに会う機会がありました。初めて彼の自宅を訪れたとき、初対面にもかかわらず、みずからの人生経験を詳細に語ってくれたこと、日本の親族のことを紹介してくれたことをよく覚えています。

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今回は中谷家のエピソードのひとつとして、桑港(サンフランシスコ)の日本庭園について紹介します。

桑港の日本庭園には、茶屋、鐘楼(しょうろう)の門、鳥居、太鼓橋があります。実はこれらの建築物は、中谷さんの曽祖父、新七(しんしち)さんによって造られたものなのです。

桑港の日本庭園は、1894年の加州冬季国際博覧会のためにつくられたものです。そして、日本庭園に設ける建物物などをつくるにあたり、新七さんに白羽の矢が立ちました。彼は地御前神社の社殿をつくったことでも知られる、広島を代表する宮大工でした。

桑港に日本庭園をつくることを依頼された当時、新七さんは日本にいました。依頼を受け、彼は日本国内の最高級の資材を集め、地元広島において、柱や壁などといった、日本庭園に設ける建造物に必要なものを日本でつくり、船で桑港に輸送しました。その後、渡米した彼は日本から運ばれてきた建築部品を、桑港に設けられた博覧会の会場で組み立てました。

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これらの作業は、当時の中谷家にとって、非常に大きな経済的負担となりました。輸送の費用を捻出するため、新七さんは、先祖代々の土地の一部のみならず、先祖代々に伝わる宝物などを売却しました。私財を投げ打ってでも、日本建築の美しさをアメリカに伝えたい。そんな新七さんの日本の美への強い情熱が、桑港の日本庭園にある茶屋、鐘楼の門、鳥居、太鼓橋にはあらわれていると、わたしは思います。

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しかし、話はこれでは終わりません。ある時、カツヤさんは、日本庭園のそれぞれの建物の詳細を記した銘板(プラーク)のうち、太鼓橋のそれだけが、人目につかないところにあることに気づきました。

そこでカツヤさんは、公園を管理する桑港市に銘板の移設を訴えました。要求はなかなか受け入れられませんでしたが、度重なる要求の結果、銘板は移設されることとなりました。

ところが、この銘板が、太鼓橋のステップとステップのあいだに「埋め込まれた」かたちで移設され、さらには、人々の目線よりも低いところにあったので、彼は不満をあらわにしました。

カツヤさんは、JAリビングレガシーや友人らの協力をもって、市にたいして、銘板の再移設を訴えたところ、ようやく、市は彼の要望に応じ、銘板を再設置する運びとなりました。

カツヤさんが銘板の移設にこだわった理由は、桑港の日本庭園では、それを設計した人物の名前だけが知られている一方で、細部に携わった宮大工の偉業がほとんど知られていないからでした。私財を投げ打って、日本の美をアメリカに伝えたいと願った曽祖父、新七さんの功績を、後世に語り継いでいきたいという強い思いから、彼は桑港市にたいして、陳情を続けたのです。

わたしは、中谷さん自身に、新七さんへの情熱とプライドがしっかりと引き継がれていることを強く感じとりました。

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日系人社会における「分裂」について

今回は、誰もが言及したくない話題について、あえて言及したいと思います。その目的は、読者にたいして特定の考え方を押しつけるためではなく、現在進行形で発生している問題の「核心」について一緒に考えてみたいからです。

今年7月、南加のグレンデール市(Glendale)の公園に、韓国系、アルメニア系の働きかけのもと、「慰安婦の少女像」が設けられました。建立の式典には、公民権と戦時補償のための日系人組織(Nikkei for Civil Rights and Redress)から代表のキャシー・マサオカ(Kathy Masaoka)氏らが参加をし、日本政府にたいして慰安婦問題の解決を訴えたほか、下院議員のマイク・ホンダ(Mike Honda)氏がビデオ・レターを通して支持を表明しました。

この出来事にたいして、新一世らを中心とする戦後移民の人々やその家族、在米日本人らは、極めて強い不快感、不満、さらには遺憾の意を表明したほか、グレンデール市と姉妹都市提携を結んでいる東大阪市が姉妹都市の解消を検討しました。さらには、自民党の参議院議員である山谷えり子氏が、政府与党に問題の解決を要求したことが報じられました。

韓国系を中心とした、国際社会を対象にした慰安婦にかんする啓蒙活動は極めて積極的なもので、グレンデール市につづいて、オレンジ郡のブエナ・パーク市(Buena Park)やアーバイン市(Irvine)においても「慰安婦の少女像」を設けようとする計画がもちあがり、在米日本人のみならず、地元の日系人からも多くの反対の声が上がりました。その結果、グレンデール市とは異なり、ブエナ・パーク市における慰安婦像設置計画は、中止に追いこまれました。

在米日本人ジャーナリストの高濱賛(たかはま・たとう)氏によると、この慰安婦像設置に反対の立場をとったのが、海兵隊員として朝鮮戦争に従軍し、日系人朝鮮戦争退役軍人会(Japanese American Korean War Veterans)の会長をつとめる、日系二世のロバート・ミツル・ワダ(Robert Mitsuru Wada)氏でした。

高浜氏の記事では、問題の核心には積極的には触れていなかったものの、ワダ氏にとっては、日系人と日本人の違いが適切に認識されていないアメリカ社会において、日本の戦争犯罪を理由とした、日系人にたいするヘイトクライムやヘイトスピーチを避けたいという重要な意図があったと思われます。アメリカ社会においては、日系人が日本人の戦争犯罪のスケープゴートにされることが少なくありませんでした。

わたしは、日本の戦後処理は日本政府と日本人の不断の努力によって解決する問題であり、日系人がその影響を受けることはあってはならないと思います。そして、日本人が戦争をはじめたことによって辛酸をなめた日系人が、日本の戦争処理問題に関与せざるを得なくなることは、とても残念なことです。わたしは、ひとりの日本人という立場から、日系人の皆様にたいして非常に申し訳ない気持ちでいっぱいです。日本人が過去の戦争犯罪の問題を別の形で対応し、さらには、当事者であるアジア諸国の事情を適切に把握していたならば、このような事態は避けられたのかもしれません。

しかし、わたしがここで着目したいのは、「慰安婦の少女像」をめぐる、日系人社会の「反応」です。先に説明したように、この二つの市では、それぞれのコミュニティが正反対の反応を示しています。

わたしはこのような反応をきき、過去の日系社会が経験した「分裂」を今の日系社会の中にも垣間見たように感じました。戦時下の忠誠登録の問題、退役軍人と徴兵拒否者の複雑な関係、リドレス活動におけるハヤカワ氏(Samuel Ichiye Hayakawa)と市民協会(JACL)の対立、さらには、市民協会とNCJAR(National Council for Japanese-American Redress)の対立など、意見の相違によって日系人社会はしばしば、「分裂」しました。今回は日本の戦争犯罪という、外的要因が原因となった、日系社会の「分裂」といえるでしょう。

今回の問題は、多くの日系人にとって、触れたくないものを、無理やり触れさせられたという本音があると思います。その一方で、マサオカ氏やホンダ氏らのように、反日感情というリスクがあることを理解しながらも、日系人という立場から日本政府や日本人を批判する人々がいます。ホンダ氏に関しては、日本人などからは単なる有権者対策、あるいは、たちの悪い売名行為であるという批判もありますが、手柄欲しさの政治活動といった見方ではなく、アジア系アメリカ人の「連携」が背景にあると、わたしは考えます。

また、マサオカ氏らのとった行動については、安易な日本批判、日本非難ではなく、人道主義という点から、日本人が戦争犯罪の問題に真摯に向きあってほしいという「要望」の表れだと、私は考えます。

多くの日系人が、さまざまな理由でこの問題に向きあっていることは確かです。反日感情への予防に奔走する人々がいる一方で、あえてその問題に触れ、問題の解決のためのヒントを日本人に、日本政府にもたらそうとする人々もいます。慰安婦の問題をめぐる日系人社会の分裂が、今後、どのような影響を日系人社会にもたらすのか、非常に興味深いところです。

 

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アジア系アメリカ人研究―その誕生から現在まで

2009年5月26日、長年にわたって多発性硬化症と闘ってきたロナルド・タカキ先生が、自らの命を絶ちました。彼がおよそ四半世紀にわたって闘病生活をしていたことはすでに人々の知るところではありましたが、突然の訃報に、多くの人々が驚かされました。

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タカキ先生は、アメリカ社会におけるアジアや大洋州につながりをもつ人々ついて研究する学問、アジア系アメリカ人研究(Asian American Studies)の発展・確立に貢献した人物のひとりです。そして、彼の発表した“Strangers from a Different Shore”(1989年発表)と“A Different Mirror”(1993年発表)は、アメリカの歴史学における重要な研究成果であると同時に、アメリカ社会の多様性を理解する教材として、多くの学生に読まれています。

アジア系アメリカ人研究が誕生した背景には、1960年代の公民権運動が挙げられます。当時、キング牧師のリーダーシップのもと、アフリカ系の社会的地位向上のための運動が全米で繰り広げられました。アフリカ系に触発されたアジアにつながりを持つ人々が、おたがいに手を取りあい、連帯を強め、みずからの社会的地位を向上しようと立ちあがったのが、アジア系アメリカ人研究誕生のきっかけとなりました。

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さらには、この運動のさなか、加州大学で歴史学を教えていたユウジ・イチオカ先生が、アジア系アメリカ人(Asian Americans)という概念を提唱し、これがこの運動における追い風となりました。アジア系という概念をとおして、日系、中国系、韓国系、フィリピン系、インド系など、国境や宗教、文化習慣の垣根を越え、人々は団結し、人種差別や、積年のネグレクトに立ち向かいました。

アジア系アメリカ人研究が生まれた直接のきっかけは、1968年の桑港州立大学での学生運動でした。当時の学生や若い研究者たちは、マイノリティ事情を研究するための学部の創設を、大学に要求しました。運動にかかわった人々は、マイノリティの、マイノリティによる、マイノリティのための学問をつくることによって、みずからの歴史に目覚め、アメリカ社会に、先人たちの「貢献」を伝えることが必要だと考えていました。

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当時、州立大学の学長をつとめていたのは、日系カナダ人の言語学者サムエル・イチエ・ハヤカワ(Samuel Ichiye Hayakawa)でした。著名な共和党員であり、強硬なタカ派として知られた彼は、若い学生や研究者らの要求に断固反対の態度をとったことから、多くの人々の反感をかったのみならず、日系人社会において「憎まれ者」となりました。日系人の敵が、じつは、同じ日系人であったことは、さらなる皮肉でもありました。

桑港州立大学での学生運動は、ついにはバークレーの加州大学など、近隣の大学に広がり、1969年、大学側はエスニック・スタディーズ(Ethnic Studies、民族研究)学部の創設を認めるにいたりました。アジア系学生による運動は、学生側の勝利に終わりました。

そして、最初の学部長には、人類学者のジェームス・ヒラバヤシ先生が任命されました。アジア系アメリカ人研究は、新しく誕生したエスニック・スタディーズから枝分かれするようにして誕生し、研究者や学生らによって、今まで光が当てられることのなかったアジア系の歴史を広めるための運動がはじまりました。

また、アジア系アメリカ人研究では、過去の歴史の再評価のみならず、学生や研究者の教育にも、熱心に取りくみました。先述のタカキ先生、イチオカ先生、ヒラバヤシ先生のみならず、長年にわたって羅府の加州大学で社会学を教えていたハリー・キタノ先生、東海岸の大学で教鞭をとっているゲイリー・オキヒロ先生など、多くの著名な先生方の貢献によって、アジア系アメリカ人研究は、学問としての基礎を堅固なものにすることができました。

その結果、アジア系アメリカ人研究は、近隣の大学のみならず、全米の主要な大学にも広まりました。加州大学ではバークレーと羅府のキャンパスにおいて学部が創設され、さらには、1987年には東海岸のコーネル大学にも、学部が創設されました。

1980年代になると、アメリカ社会において人種や民族のサラダボールという考え方が人々のあいだに浸透し、多様性が尊重されるようになりました。このころになって、アジア系アメリカ人研究は、アメリカの学界にその地位を確立することができたといえるでしょう。

ところが、1990年代になると、アジア系アメリカ人研究をとりまく環境が大きく変化しました。多様性を尊重する社会を認める人々が増える一方で、宗教が規定する厳格な道徳観や保守的な考え方に傾倒する人々の一部から、エスニック・スタディーズの本質は、意図的に差別の構造を深刻なものにするもので、いわゆる逆差別をもたらすなどという、根拠に乏しい主張がでてきました。

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さらには、2001年9月11日に米国中枢同時多発テロ事件が起こり、アジア系アメリカ人研究は、新たな時代に直面しました。中東系やイスラム系のみならず、シク教徒にたいするヘイト・クライム、ヘイト・スピーチに続き、レイシャル・プロファイリングの是非が問われました。さらには、いわゆる愛国法(US Patriot Act)が施行され、国家の安全保障を大義名分に、人々の権利を制限すべきだという考えに賛同する人々が増え、マイノリティ寄りであるというレッテルの貼られたアジア系アメリカ人研究は、その意義が大きく問われました。

また、アジア系アメリカ人研究をはじめとするマイノリティ研究は、アメリカ社会に深刻な分裂をもたらすという、極端な考えを主張する人々がでてきました。その背景には、ヨーロッパやオーストラリアにおける多文化政策の問題に代表される、国際規模でのマイノリティ問題がありました。

依然として、アジア系アメリカ人研究をとりまく環境は、非常に厳しいものです。近年の不況により、アジア系アメリカ人研究をはじめとするマイノリティ研究は、大学への予算削減のあおりをうけています。そのような状況であっても、アジア系アメリカ人研究にたずさわる人々は、過去のアジア系アメリカ人の歴史を伝えていくことで、アメリカ社会に自由、正義、平等などの大切さを発信することを続けています。

最後に

多様性の時代をむかえたとはいえ、単一民族や島国根性という言葉に代表される日本社会においては、アジア系アメリカ人研究という学問は、アメリカ社会特有のものであると受けとめれがちです。しかしながら、アジア系アメリカ人研究は、多様性にたいして寛容な精神をつくり、人々の社会参加と社会的包摂を促すことで、持続可能性のある社会をつくるための「教訓」を日本社会にもたらすものであると、わたしは思います。

 

追記:JAリビングレガシーが制作したタカキ先生への感謝の気持ちをこめた動画をご覧ください>>

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