郷 崇倫

(ごう・たかみち)

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  

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日系史における「勇者」 -日系アメリカ人兵士の活躍をふりかえる- その3

>>その2

トラウマを忘れてはならない

アメリカ国内では、従軍を経験した人々が深刻な心身症に悩まされることが良く知られています。特に、昨今のイラクやアフガニスタンでの軍事行動にかかわったアメリカ人の多くが、戦争からくるトラウマに悩まされていることは周知の事実だと思います。このことは、日系人にとってもまったく同じことだと私は思います。従軍を経験した日系人も、戦争を原因とするトラウマに悩まされているのです。

私は、ある日系二世の退役軍人から、今でも戦友を亡くしたことを原因とするトラウマに悩まされているということを聞いたときは、強いショックを隠せずにはいられませんでした。日系人の従軍の歴史においては、その輝かしい戦績ばかりが議論や学習の対象となりますが、その裏には、戦友の死や戦闘の悲惨さなどからくるショックやトラウマに悩まされる日系人の姿があるのです。

この事実があまり知られていない背景の一つとして、アメリカ社会において日系人を含むアジアおよび大洋州系のアメリカ人が、模範的少数派というレッテルを貼られたために、ネガティブな日系人のイメージが「盲点」になってしまったことです。

再評価へ

日系人の従軍の歴史において、たいへん興味深い出来事がクリントン政権時代にありました。それは、日系人の戦績の再評価でした。それまでの日系人に対する戦績の評価が適切であったかどうかが議論された結果、ダニエル・イノウエ上院議員や、先に挙げたタノウエ氏ら21人の日系人が名誉勲章を受章しました(戦死した人々も含めています)。このことは快挙だったのです。実は、それまで従軍を経験した日系人で名誉勲章を受章したのは、サダオ・ムネモリ氏だけだったのです。ムネモリ氏は家族とともにマンザナーに収容されていましたが、陸軍に入隊して第442部隊に所属し、タノウエ氏と同じように欧州戦線で悲劇の最後を遂げました。

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亀裂

最後になりますが、アメリカ軍のイラクでの軍事行為にかんして、ハワイ出身の日系人であり、陸軍の軍人であったアーレン・ワタダ氏がイラクへの派兵を拒否した出来事を紹介します。ワタダ氏は、イラクで行われているさまざまな軍事行為の合法性や正当性に疑問を感じ、熟慮に熟慮を重ねたうえで、派兵を拒否しました。この、いわゆるワタダ論争は、アメリカがかかわった過去の戦争の際に従軍を経験した多くの日系人のあいだに大きな亀裂を生みました。ワタダ氏の判断に一定の理解を示しつつも彼を批判する人々がいれば、「国の恥だ!」と強く主張して徹底的に彼を非難する人々もいました。今日も、アメリカのイラクでの軍事行為の合法性や正当性においては、たくさんの議論が残りますが、ワタダ氏はそれに対する見解を、派兵を拒否するというかたちで示したのだと私は考えます。

高速道路を走っているとき・・・

ロサンゼルス市内を縦断しているフリーウェイの405号線と105号線がまじわるインターチェンジには、このような名前がついています。

サダオ・S・ムネモリ記念インターチェンジ
(第二次世界大戦における名誉勲章受章者)

身近なところに、日系人の従軍の歴史を知ることができるのですが、多くの人々にとって、このことはあまり知られていないようです。私自身は、車を運転していてここを通過するときは、不思議なことに、背筋がぴんと伸びる感じがしました。

おわりに

上村さんに誘われたかたちでJAリビングレガシーに入り、それがきっかけで私は従軍を経験した日系人の皆様に会うようになりました。ロサンゼルスやオレンジ郡を訪問するときには、必ず従軍を経験した日系人の方に会うようにしています。そして、彼らのオーラル・ヒストリーを通して私は日系史にとって従軍の歴史が非常に重要であることを理解しました。従軍を経験した日系人ひとりひとりの努力によって、日系人がアメリカ社会で大きな信用を勝ち取ったことを忘れてはならないと思います。

現代の平和な社会を活きる多くの日本人にとって、日系人の従軍は日系史のなかでも、特に理解しにくいものであると思います。戦争に参加して、多くの血を流したことで日系人は正義を勝ちとったのです。アメリカの大統領であったハリー・トルーマンは日系人部隊の前で、「君たちは敵だけではなく偏見とも戦い、君たちは勝利した」と述べて日系人部隊をたたえています。

それでは、どのようにすれば日本人が日系人の従軍を理解することが出来るのでしょうか。まずは、定期的に開催される日系人の退役軍人のためのリユニオンに参加してみると良いと思います。日本人にとっては、それは非常に敷居の高いイベントである印象はありますが、従軍を経験した日系人の「生」の声に耳をかたむけることによって、実際の歴史を学ぶことが出来るのです。また、従軍を経験した日系人のなかには日本語を話す人々もいますし、自ら自分の体験を語ることをとても好む人々もいます。日系史をさらに理解することの出来る場ですから、ぜひ参加することをすすめます。

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リユニオンなどの退役軍人にかんするイベントの日程などについてはJAリビングレガシーや日系アメリカ人の退役軍人会であるJAVA (Japanese American Veteran Association) に問い合わせると良いです。

JAリビングレガシー (info@jalivinglegacy.org)
JAVA (http://www.javadc.org)

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日系史における「勇者」 -日系アメリカ人兵士の活躍をふりかえる- その2

>>その1

諜報部隊(MIS)と進駐軍

第442部隊の次に日系人が所属した部隊としてよく知られているのは、MISと呼ばれる諜報部隊です。従軍を経験した日系人のなかには、日本語を習得して日本軍や日本国内の情報を収集する役割をになった人々や、進駐軍として日本の民主化政策にかかわった人々がいました。さきに挙げたマツモト氏は、MISを経験した日系人のひとりとしてよく知られています。また、男性だけでなく女性も従軍しており、そのなかには、先に挙げた上村さんの母親であるバーバラ・所方(しょほう)さんのように進駐軍として東京に駐留していた人々もいました。ここで、MISが関わったものをいくつか紹介しましょう。

日本軍の情報を集めるための部隊に所属していた日系人の多くは、東南アジアやオセアニア、そして南太平洋の地域で活躍しました。彼らのなかには、マツモト氏のように、進軍中の日本兵のすぐ近くで諜報活動をしていた人々もいました。私がマツモト氏に初めて会ったとき、彼は諜報活動の対象であった日本軍の兵士たちが山形県の方言を話していたため、広島県にルーツを持つ彼にとってそれが非常に困難な任務であったと話してくれました。

進駐軍として日本に駐留したMISの日系人のなかには、GHQ幹部の補佐をつとめる人や、東京裁判の際に通訳をつとめた人、GHQのさまざまな部署で働いた人、さらには日本各地の情報の収集に奔走した人などがいました。諜報活動の一環として、労働運動や政治活動の監視にかかわった人々もいました。また、日本人捕虜の尋問にあたった日系人も忘れてはなりません。

日系人が、進駐軍として日本へ来ていたことを知っている日本人の人たちもいるかと思います。日本人と姿かたちが同じの人が、アメリカ軍の軍服をまとい、進駐軍専用列車に乗っていたことを記憶している人々もいるでしょう。また、MISなどで日本に駐留した日系人のなかには、日本国内に住んでいる親戚を訪問する人々もいました。日本にいる親戚のことが心配だったのです。戦時中は、日系人は収容所に送られ、日本人は焼夷弾攻撃、沖縄戦、さらには原子爆弾の投下という悲劇の歴史を歩みました。これらの悲しい出来事は、日本人だけではなく、日系人にとっても非常に悲しい出来事でした。

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第二次世界大戦前に従軍した日系人

日系人の従軍の歴史は長いもので、第一次世界大戦に従軍した日系人もいました。その一人に、ハワイ出身のジョセフ・クリハラ氏がいました。アメリカ社会では、従軍を経験した人々は模範的な市民として尊敬されるべき存在ですが、クリハラ氏は第二次大戦中、日系人であるがゆえに敵性外国人とみなされ、他の多くの日系人と同様にマンザナー強制収容所に送られました。アメリカ政府はクリハラ氏に対して、「大きな裏切り」を犯したのです。このことにクリハラ氏はひどく失望し、アメリカの国籍を放棄して日本に移り住みました。

また、日米戦争勃発前に陸軍によって徴兵された日系人もいました。しかし、徴兵されたにもかかわらず、戦争勃発直後には軍からスパイ容疑をかけられ、一方的に、そして不当に身柄を拘束されたのです。日系人がアメリカ軍へ入隊することは、母国アメリカをアメリカ市民として命をかけて守るということを意味しました。身柄を拘束された日系人のなかには、「軍服を着たまま一方的に牢屋にぶちこむとは何事だ!囚人扱いするな!囚人服はどこにある!」と言って抵抗した人々もいたそうです。

朝鮮戦争以後

第二次世界大戦の終結後、アメリカ政府は軍隊における人種隔離政策を改めました。これによって、朝鮮戦争以後は、日系人は他のアメリカ人と同じ部隊に所属するようになりました。そして、朝鮮戦争勃発とともに、日系人は再び軍隊で活躍するようになりました。朝鮮戦争に従軍した日系人のひとりであるカリフォルニア州在住のロバート・ミツル・ワダ氏は、アメリカ海兵隊の戦車部隊に所属して朝鮮半島で勇敢に戦い、アメリカ軍から表彰されました。

第二次世界大戦と朝鮮戦争にかかわった日系人の多くが二世でした。そして、ヴェトナム戦争がはじまると、多くの日系三世がアメリカ軍で活躍するようになりました。ヴェトナム戦争の際に大活躍をした日系人のなかでも著名なのが、ロサンゼルス郡最高裁判所の判事であるヴィンセント・オカモト氏です。オカモト氏は先に挙げたマツモト氏やワダ氏とならんで、高い戦績をあげた日系人として知られています。2008年、オカモト氏はJAリビングレガシーの関連組織であるニッケイ・ライターズ・ギルドから、自身の半生をもとにしたフィクション小説である、「ウルフハウンド・サムライ(Wolfhound Samurai)」を出版しました。

その3>>

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日系史における「勇者」 -日系アメリカ人兵士の活躍をふりかえる- その1

はじめに 退役軍人との出会い

JAリビングレガシーのスタッフになって1ケ月経ち、さらにオーラル・ヒストリーを使ってオレンジ郡の日系社会の研究に取り組み始めてから1年ほど経った時のことです。その頃の私は、日系史に魅力を感じ、研究活動においては順風満帆な日々を過ごしていました。もちろん、現在も横浜で順風満帆な生活を送っています。

JAリビングレガシーの一員となった私は、初めて、従軍経験のある日系人のリユニオン、日本で言うところの同窓会に参加しました。リトル東京のホテルニューオータニで行われたこの盛大なイベントには、第二次世界大戦から湾岸戦争が終結するまでのあいだに従軍した多くの日系人らが参加していました。このとき、私は生まれて初めて従軍を経験した日系人の皆様に会いました。

イベントに参加した人々には、アメリカ陸軍から表彰を受けたワシントン州在住のロイ・ヒロシ・マツモト氏もいました。マツモト氏は、第二次大戦中はMISと呼ばれた諜報活動をする部隊に所属し、東南アジア戦線で活躍した方です。

日系人の従軍の歴史は、第二次世界大戦の退役軍人らのオーラル・ヒストリーが多く残されていることから、日系史の中でもよく知られているもののひとつです。しかしながら、まだまだ一般に知られていない話もたくさんあります。日系人で構成された第522部隊が絶滅収容施設にいたユダヤ人を解放したことは最近になって知られるようになりました。また、朝鮮戦争やベトナム戦争に従軍した日系人のオーラル・ヒストリーは前者ほど残されていません。

私の所属するJAリビングレガシーの活動のひとつは、オーラル・ヒストリーの対象になることがなかった日系人の歴史に耳を傾けることです。中でも、最高執行責任者を務めるスーザン・上村さんが、朝鮮戦争に従軍した日系人のインタビューを実践してきたことは、特筆すべきことだと思います。

前置きは長くなりましたが、幸運にも、私はJAリビングレガシーの活動を通じて、多くの知られざる日系退役軍人の体験談を聞く機会がもてました。そこで、今日は日系アメリカ人の従軍について触れてみたいと思います。

日系人部隊 -第442部隊-

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第442部隊は、アメリカにおける軍事史においては、最も勇敢で、最も強い部隊として知られています。その輝かしい功績は、全米日系人博物館の展示でも紹介されていますし、彼らの体験談はオーラルヒストリーとしてたくさん残されています。さらには、彼らを題材にしたドキュメンタリー映画もつくられています。ひとつ例を挙げると、第442部隊に所属し、欧州戦線で悲劇の最期を遂げたテッド・タノウエ氏のドキュメンタリー映画「米国市民のタノウエ氏」(Citizen Tanouye)という作品があります。

第442部隊の創設は、全米日系市民協会(JACL)の日系人の正義を守ろうとする思惑が反映されたものでした。多くの日系人が全米各地の収容施設に送られた1942年に、全米日系市民協会(JACL)の代表がユタ州のソルトレイクシティで緊急の会合を開き、日系人はアメリカの国益を第一に考えていることを明確にするための対策が話し合われました。その結果、日系人部隊の創設を陸軍に働きかけることが決定しました。ひとりでも多くの日系人が、アメリカの戦勝のために命を懸けていることをアピールすることで、強制収容という難局を乗り越えようと画策したのです。JACLの提案に対して、アメリカ政府は日系人の入隊を許可しました。

日系人の入隊が許可されるようになると、収容問題のなかったハワイでは多くの日系人が志願をしました。一方、強制収容のあったアメリカ本土では、前者に比べるとごく限られた数の日系人が陸軍に志願しました。強制収容のためにアメリカ政府に対する不信感が強かったこと、またアメリカ国民としての自由や正義が奪われているのだから従軍を拒否すべきという風潮が日系人のあいだで広まっていたためでした。

日系人部隊が創設された当初、ハワイの日系人と西海岸の日系人のあいだには、目に見えない「壁」がありました。それは、ハワイの日系人が西海岸の日系人のことをあまり知らなかったからでした。ハワイの日系人は、従軍を肯定的に受けとめる風潮がありましたが、西海岸の日系人の多くは、非常に複雑な思いを持ったまま陸軍に志願したのです。日本の国籍を持った両親や反米感情を強く持っていた周囲の人々の反対を強く押し切って入隊にこぎつけた人々や、周囲の他の日系人たちの目を逃れるようにして真夜中に陸軍の基地に向かう人々がいました。日系人どうしにあった見えない壁を取り払うために、陸軍はハワイからきた若者たちを収容施設に連れて行きました。ハワイの日系人にとって、収容という現実は非常にショックなことでした。友人や親戚、同胞の人々がアメリカ社会にとって重要な自由と正義を奪われていた現実を彼らが目の当たりにしたのです。この一件は、ハワイの日系人が西海岸で活きる日系人の状況を理解する良い機会になっただけではなく、日系人部隊に所属する日系人全体の集団意識が高まるきっかけになりました。

その2>>

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オレンジ郡は「海の向こうの日本」ーオレンジ郡の過去を振り返るー

地平線の果てまで続いている海岸線。
まぶしい太陽の光。
宝石のようにキラキラと輝く海の水。
世界中から訪れる人々を魅了するテーマパーク。
一日じゅう歩き回っても、飽きることのない大型ショッピング・モール。
物語やドラマに出てくるような、大きくて綺麗な家。
健康で文化的な生活を容易に営むことの出来る経済的な豊かさ。
非の打ち所の全くない、一年を通した温暖な気候。

カリフォルニア州南部にある、オレンジ郡をひとことで表すのならば、「極楽」という言葉が最もふさわしいと思います。しかし、多くの人々はこのオレンジ郡の歴史に目を向けることがありません。オレンジ郡が、ロサンゼルスのベッドタウンという印象だけが根付いていることは、私自身にとってはとても残念なことです。というのも、オレンジ郡は、日系人や日本人と非常に関わりの深い地域なのです。それは、ただ単に日本人がたくさん住んでいるから、あるいは、日本の会社がたくさん進出しているから、という理由だけではありません。オレンジ郡には100年を越える日系社会の歴史があり、日系人はオレンジ郡の発展に欠かせない民族だったからです。

1. 戦前のオレンジ郡の日系社会

日本からの移住者であった一世がオレンジ郡に最初に来たのは、今から100年以上も前の明治時代の終わりの頃でした。大正時代にはいると、オレンジ郡の日系人は、青唐辛子の栽培を盛んに行うようになりました。全米で消費される青唐辛子の多くが、オレンジ郡の日系人によって生産されるようになったのです。青唐辛子のほかに、トマトなどの野菜類、そして苺も栽培され、アメリカ国内に向けて出荷されていました。そのほかには、養鶏で生計を立てる日系人や、鯉の養殖をする日系人もいました。

また、日系人による文化活動も盛んに行われていました。ガーデン・グローヴ市には、日本語学校がつくられました。そこでは、運動会などの日本の学校行事が行われました。柔道場もつくられ、将来の日系社会を担う若者たちが、各地の日系社会の対抗試合で大活躍しました。なかには、柔道の国際親善試合のために、日本を訪問した若者もいました。オレンジ郡の日系教会のひとつである、ウインターズバーグ長老教会がつくられたのもこの頃です。戦前のオレンジ郡においては、日系社会の急速な発展がみられたのです。

. 戦時中

ところが、日本軍による真珠湾襲撃、日米戦争の開戦、さらには、大統領行政命令9066号が出されたことにより、オレンジ郡の日系社会は崩壊していきました。戦争が始まった直後、オレンジ郡では夜間外出禁止令が出され、さらには長距離の外出も禁止されました。その数ヵ月後には、多くの人々が、アリゾナ州につくられたポストン収容所に送られました。人々は、灼熱の気候だけでなく、サソリやガラガラヘビといった有毒動物の危険にもさらされました。

. 戻れぬ我が家と反日感情

収容所での生活を余儀なくされた日系人らは、戦争が終結し、住みなれた我が家に戻ることが出来る日を指折り数えて待っていました。しかし、オレンジ郡に住んでいた多くの日系人にとってそれはかなえることの出来ないものでした。戦争勃発直後の混乱と、突然の立ち退き命令のために、多くの人々は土地や財産などの生活基盤を失ったため、戦前のようにオレンジ郡で農作業を営むことは不可能に近かったからです。しかし、中には、幸いにも、信頼できる白人に農地を託したことによって土地を失わずにすんだ人や、運良く農地を借りたり、購入することが出来た人々もいました。オレンジ郡に戻ることが出来た日系人は、住み慣れた土地で戦後の再出発をしようと試みたのです。

しかし、それは決して容易なことではありませんでした。当時は、まだ反日感情と隣りあわせだったのです。日系人は、オレンジ郡に日系人が戻ってくることを望まなかった白人らの差別的な嫌がらせに直面しました。戦前から戦後の数十年にわたって、オレンジ郡内で農業を営んでいたマスダ一家も反日感情の波にさらされた人々でした。日系人の再住を望まない白人によって、爆発物を送りつけられたのです。さらに、マスダ家の息子のひとり、カズオ氏は、第442部隊の2等軍曹としてアメリカの国のために戦い、イタリアで戦死したのですが、地元ウエストミンスター市の墓地が、カズオ氏の埋葬を日系人という理由で拒否したのです。

しかし、この一件が地方紙で取り上げられたことによって、オレンジ郡の反日感情の状況も変わってきました。反日感情撲滅の行進が行われ、アメリカ軍の幹部らが視察のために、オレンジ郡を電撃訪問する事態に発展したのです。そのひとりに、後に大統領となるロナルド・レーガン氏がいたことも特筆すべきでしょう。そして、この時、彼は日系人に対する差別を是正するための演説を行いました。さらには、カズオ氏の埋葬拒否の事実も多くの人々の耳に入り、地域住民などからの強い抗議があり、ウエストミンスター市の墓地が、最も条件の良い墓地へカズオ氏を埋葬することで解決にいたりました。

終戦後、日系人はアメリカのさまざまな地域で、激しい反日感情にさらされました。戦後の再出発と日系社会の建てなおしが、収容という苦しみを味わった日系人にとって、さらなる苦しみであったことも忘れてはなりません。

. 短農の若者たち

戦後のオレンジ郡の日系社会において、特徴のある出来事といえば、短農の若者がやってきたことであると私は思います。1950年代から1960年代にかけての約10年という短い期間でしたが、日本国内の厳しい審査をクリアした数百名の日本の若者たちが、オレンジ郡で農業を営む日系人の農場で働くためにやってきました。3年間という限られた期間ではありましたが、短農として、オレンジ郡にやってきた日本人は、朝から晩まで働き続けました。特に、農繁期になると、徹夜で働くことが毎日のように続きました。当時、オレンジ郡においては、苺とセロリの生産が、とても盛んでした。勤勉な短農の若者たちは、農場を経営する日系人にとって、非常にありがたい存在でもありました。日本からの若者たちは、短期間ではありましたが、農作業などを通して、オレンジ郡の経済の発展だけではなく、日系社会の発展にも寄与し ました。

余談ではありますが、短農にまつわるエピソードとして、このようなものがあります。短農の若者たちは、英語が公用語であるアメリカで働いてたので、多くの日本人は、彼らが日本に帰国した際には、英語が堪能になったのだろう、と思いがちです。ところが、短農の若者たちのなかには、英語を話す機会が少なかった人々がいました。雇い主が二世であったり、または日本で初等教育を受けた、日本語が堪能な帰米二世だったり、あるいは、一世との交流があったからでした。さらには、メキシコ人と一緒に働くこともあったので、スペイン語が堪能になって、日本に帰国した短農の若者たちもいたのです。

. 日本企業の進出と「ゆうかり会」

1980年代ごろから、多くの日本の企業がオレンジ郡に進出し、多くの日本人が、駐在員としてオレンジ郡に住むようになりました。さらには、日本の小売店や、書店などがオレンジ郡で店舗を展開するようにもなりました。現在、オレンジ郡には紀伊国屋、三省堂、さらには、ブックオフが店舗を展開しています。さらには、日本企業の進出のために、日本たたきが全米で広まったことも、多くの日本人にとって、記憶に新しいことであると思います。

その当時、オレンジ郡では、駐在員の配偶者たちによるグループ「ゆうかり会」がつくられました。ゆうかり会の活動には、地域社会への奉仕活動や、文化活動、さらには、フラトン市にあるカリフォルニア州立大学で行われた日系人のオーラル・ヒストリー調査への協力がありました。特に、地域社会への奉仕活動は、アメリカ社会における、日本人や日本企業に対するイメージアップに貢献しましたし、日系人のオーラル・ヒストリー調査においては、アート・ハンセン教授による一世のオーラル・ヒストリー調査に積極的に協力しました。

アメリカにおいては、日本の企業に対して、収益を地域社会にあまり還元していない、という評価をすることがよくありますが、「ゆうかり会」のように、地域社会の振興のための奉仕活動を積極的にやっていた日本人の存在を知ってほしいと私は思います。

. わたしたちの「ふるさと」でもあるオレンジ郡

私自身にとって、オレンジ郡は第2のふるさとです。私は、日本の高校を卒業してから、オレンジ郡にある大学に進学し、そこで日系人をはじめとするアジアおよび大洋州系のアメリカ人の歴史、そして、オーラル・ヒストリーを学びました。現在の私自身の研究活動にとって、基礎となる重要なことがらを私が学んだだけではなく、オレンジ郡の地で、多くの人々とのあいだに友情を育んだことも、私にとって忘れることは出来ません。

オレンジ郡を訪問するときは、私は必ずといっていいほど、街中の景色と、頭のなかで描いた、農作業に励む日系人や、短農の若者たちの姿を重ねあわせます。ベッドタウンになってしまったオレンジ郡ですが、その地は、かつては日系人が農業を通して、オレンジ郡だけではなく、アメリカ経済を支える要であったことを、私たちは忘れてはならないと思います。

カリフォルニア州のオレンジ郡は、日系人にとっても、そして、日本人にとっても、関わりの深い地域なのです。それは、運命の赤い糸で結ばれた関係のようなものであると、私は思います。日系人にとっても、さらには、日本人にとっても、オレンジ郡は、切っても切れない、そしてかけがえのない地域のひとつです。ですから、より多くの人々に、その歴史に対する大きな関心を持ってほしいと思います。

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マンザナーへ、そしてマンザナーから

第4回 風のように過ぎ去った1日目

ロン・パインの資料館から戻ると、キャリーさんは、私にジョッシュさんを紹介してくれました。彼は、私がマンザナーに来る数ヶ月前から、マンザナーでボランティアとして働いていました(この数日後に、彼はデス・ヴァレーにある国立公園に移り、そこでもボランティアとして活躍しました)。私は、彼から、ボランティアの仕事のひとつである、手紙などのデジタル化のやり方を教わりました。「デジタル化」と格好良く書きましたが、これは、収容された日系人が残した手書きのメモや手紙を、パソコンに打ち込むという作業でした。そして、日本語の出来る私は、とある日系二世が、一世である父親にあて、日本語で書いた手紙を英訳することになりました。

この手紙を読むことで、一世と二世の間には意思の疎通において言葉の壁があり、互いを理解することに苦労していたことを知りました。親子という関係でありながら、話す言葉、そしてものに対する考え方が異なるために、一世と二世との、埋まることのないギャップがあったのです。そのような状況にもかかわらず、一世と二世は、お互いを理解することに、最善の努力を尽くしたのです。

また、アメリカ生まれでアメリカ育ちの二世が、一生懸命日本語で書いたものだということも読み取れました。手紙を読んでいると、自分の気持ちや、自分のまわりで起きていることを父親に伝えようとした二世の姿が、私の頭のなかに浮かびあがりました。書かれている日本語はしっかりと、そして正しく書かれていました。それは、手紙を書いた二世が、必死になって日本語を習得した証でもありました。

また私は、その二世の父親である一世が、息子である二世にあてた手紙にも目を通しました。その手紙に書かれている日本語は、現代のそれとは少し違い、どこかしら古臭いものを感じましたが、非常に綺麗な日本語で書かれていました。その手紙には、アメリカ軍に入隊した息子に対して、家族の近況を、そして、家族が皆元気でいることを伝える内容がつづられていたのです。一世の父親は、ガーデナー(日本でいう、庭師にあたります)の仕事をして生計を立てて、家族を養っていました。そして、近所に住む一世や二世、そして三世の人々と助けあいながら、日々を過ごしていたのです。

さらに、私は、タイプライターで書かれた手紙のデジタル化の作業も行いました。その手紙は、とある二世の若い女性が書いたもので、長い間待ち望んでいたタイプライターが、遂に手元に届いた喜びをつづったものでした。マンザナーなどの各地の収容所では、生活物資の不足が、プライバシーがなかったことに加えて、とても深刻な問題でした。日々の生活において、最低限必要なものでさえ、不足していたのです。その手紙には、このようなことが書きくわえられていました。「タイプライターがあるのはうれしいけれど、紙がないから困っている!」。私は、はじめ、彼女のこの言葉に苦笑しましが、その後すぐに、ことの深刻さに気がつき、悲しくなりました。

これらの手紙通して、私は、日系人の戦時中の体験をより一層理解することが出来ました。大学の講義では、主に教科書などの書物を通して日系史を学びますが、「生」の日系人の歴史に触れる機会が限られています。しかしながら、実際に日系人によって書かれた手紙を読み、その内容を読みとることによって、私は「生」の日系人の歴史に触れることが出来ました。

夢中になって、手紙を読み続けていると、キャリーさんの声がしました。私を呼んでいたのです。彼女は、「今日は、朝早くから車を運転してここに来たでしょう。もうすぐ5時だから、今日はこれであがっても良いわよ。」と優しく言ってくれました。朝早くにオレンジ郡を出発し車を走らせてきた私は、次の日に向けて体を休めるために、少し早めに帰宅しました。

帰宅後、私はインディペンデンスの街にある、小さなスーパーマーケットで買った缶詰をあけて、夕食を食べました。その後、ラップトップの電源をつけて、教授への提出物であるレポートを書きました。

インディペンデンスは、とても静かな街です。自分の耳にはいってくる音は、近くにいる犬の鳴き声と、ラップトップが動いている音、そして自分のタイピングの音だけです。ラップトップの画面に、1日の出来事、そして自分の思ったことを、私は少しずつ書いていきました。

タイトルの通り、私のマンザナーでの1日目はあっという間に過ぎ去っていきました。実習生としての第1日目の私の収穫は、期待以上のものでした。この日読んだ手紙は、当時の収容所での生活を垣間見ることができただけでなく、私に日系史の研究に対するさらなる意欲や、将来性を与えてくれたのです。この夜、生まれて初めて、たくさんのことを勉強することが出来た私は、うれしさと感謝の気持ちでいっぱいでした。

(次回に続く)

 

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