島田 法子

(しまだ・のりこ)

日本女子大学名誉教授。専門研究分野は日系アメリカ人史。研究テーマは、西海岸における日系アメリカ人の太平洋戦争体験、ハワイにおける日系人の太平洋戦争体験、ハワイ日系人の短詩型文学にみる日系人社会の変容、ハワイのオキナワン社会のアイデンティティの変容、戦争花嫁と写真花嫁等。著書および研究論文多数。主要な著書は、『日系アメリカ人の太平洋戦争』(1995、リーベル出版)、『戦争と移民の社会史-ハワイ日系アメリカ人の太平洋戦争』(2004、現代史料出版)、編著『写真花嫁・戦争花嫁のたどった道―女性移民史の発掘』(2009、明石書店)。

(2013年8月 更新) 

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Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity

第二次世界大戦をめぐるハワイ日本人移民の忠誠心と日本人意識 ―短歌・俳句・川柳を史料として― - その3/3

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6.戦後のハワイ日系社会

戦争終結後は、日本人社会ではエスニック文化が一気に復活した。戦後のハワイ社会は日系文化にたいして非常に寛容で、「非アメリカ的」という激しい攻撃を受けることもなくなった。重要な制度であった日本語学校、仏教寺院、神道神社が再建された。日本人社会の生活習慣や行事等にも復活した。

久さびさに雛なつかしく飾りけり 川本恵子

なつかしき人の集ひや初句會 豊村

四年ぶり日本映画や初興行 恵子

戦後の日本人社会は、戦争中の軍需景気の恩恵を受けて蓄財がすすみ、好景気であった。人々は派手に消費した。大きなダイヤモンドの指輪が光っていたり、結婚式や出征祝いに多額の金が使われたりした。

五年目の友は成金Aクラス 一涙

マリ・リングその昔なら家が建ち 柳子

日本文化のリバイバルと並行して、ハワイ社会に寛容に受け入れられた日本人は、多民族社会ハワイへの同化に向かっていった。

伝統を捨てて二世に親しまれ 曲水

うろ覚え孫に合せて米国歌 日出子

1952年のマッカラン・ウォールター法によって一世にも帰化の道がひらかれると、日本国籍を保持するか、アメリカ国籍を取得するかの選択に直面することになった。

親と子の悩みも籍のありどころ 君子

帰化が是か帰化せぬが否か弥生月 横山松青

それまで日本人であることを声高に誇っていた一世も、帰化のための試験勉強の仲間入りをした。祖国に後ろ髪をひかれる思いを抱えつつ、また周囲から冷やかされつつ。帰化によって得られた最大の収穫は選挙権の行使であった。一世は感激に手が震えた。

待ってゐる母に済まない帰化願 浪江

六十にして明日なき春の帰化講座 横山松青

            帰化権をめざすABC冷かされ 灯花

            帰化市民初の一票へ手がふるえ 風影

同じ1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が主権を回復した。ハワイの一世は日章旗を見上げて感慨にふけった。1952年は、一世にとっての戦後が終わった年であったといえよう。一世は国籍がアメリカ人になっても日本の伝統や文化を積極的に保持し続け、アメリカと日本の両方に所属する複属性を保ち続けた。

十一年たえて久しき日章のみ旗かがやくけさの蒼空 中林無有

日本人としての名残や雑煮餅(帰化を許されて) 横山松青

独立日本の鐘が鳴る鳴る初御空 川本恵子

故里へアメリカ人で帰朝する 美影女

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おわりに

太平洋戦争は移民に同化をせまり、戦争を契機としてアメリカ化が進んだといわれることがあるが、短歌、俳句、川柳に表現されている一世は、法的地位が戦前の日本人移民、戦中の敵性外国人、そして戦後帰化権が認められてからは帰化市民と変わっていったが、その日本人意識は形を変えて彼らのうちに保持されていることがわかった。

戦前帰化不能とされた一世は、アメリカ国籍の二世の親としてハワイに永住する覚悟を決め、多民族共存社会のハワイで、祖国とハワイの両方につながる複属性を享受することができた。開戦とともに敵性外国人となった一世は、息子をアメリカ軍に送り出し、同化の圧力に屈してアメリカ文化・生活様式を取り入れたが、心中は日本人として祖国の勝利を確信し、矛盾した複属性を保った。そして戦後になると、再び寛容なアロハ精神に基づくハワイ社会で、日本文化のリバイバルを起こした。さらに帰化権が与えられるや、多くの一世は日本国籍を捨てたが、日本人としてのアイデンティティや価値観を捨てたのではなく、同化をすすめつつ日本人として生きるようになったことが、彼らの作品から読み取ることができた。彼らはアメリカ人であるとともに日本人という意識を保持し、二重の帰属性を持ち続けたのである。

一世の残した短歌、俳句、川柳によって、かれらの戦前から戦後に至る日本人としての思考、行動、情念の一端を知ることができた。彼らの文芸作品が、他で得ることのできない社会史、文化史の史料であることが証明されたといえよう。

 

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*2013年7月4日から7日にかけて行われた全米日系人博物館による全米カンフェレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity』での日本語セッション「一世の詩、一世の声 (Issei Poetry, Issei Voices)」のセッションでの発表原稿です。

このセッションの発表を聞く(音声のみ)>>

 

 

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Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity

第二次世界大戦をめぐるハワイ日本人移民の忠誠心と日本人意識 ―短歌・俳句・川柳を史料として― - その2/3

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3.二世部隊

ハワイの日系二世といえば、第100大隊、そして第442戦闘部隊はあまりにも有名である。彼らの輝かしい戦功・犠牲によって日系人の忠誠が証明されたといわれる。息子を軍隊に送り出すことによって、一世はアメリカへの恭順を示した。しかし、二世兵士の心情を思いやる一世、また兵士の親たちの悩みは深かった。

生みの親と育ての親の争ひに二世は迷ふ荊(いばら)踏む道 相賀渓芳

割り切れぬ千々の悩みに踏み迷ふ二世の親の心淋しも 相賀渓芳

敵とならん子の入営を微笑みつ 横山松青

開戦時から存続していた正規の二世陸軍兵士1,432人は他と分離され、白人士官9名とともに「ハワイ緊急大隊」という特別組織に投入され、1942年6月5日、密かにアメリカ本土に向けてホノルルを出港した。彼らは「第100大隊」と名前を変え、9月に北アフリカのアルジェに上陸。その後イタリア各地を転戦した。激戦のカッシノでは、200人の兵士が出撃し、生きて帰ってきたのはたった23人のみであった。1943年秋頃から、ハワイの日本人社会では、戦死した二世の葬儀が相次いだ。戦死者は、ホノルル市内のパンチボールの丘にある国立墓地に埋葬された。

カシノ戦記念の紫心章へ泣き 斧平

歐州の戰野をめぐる愛子に恙(つつが)なかれと夜毎念ずる 泉さだを

盆丘(パンチボール)の国立墓地に詣でくれば一目に胸を打つ眺めかも 中林無有

1944年に二世の徴兵が復活した。第442戦闘部隊の日系人兵士総数は18,000人に達し、第442戦闘部隊は、戦傷者に与えられる名誉戦傷章など、陸軍戦史上「最も多くの勲章を受けた部隊」となった。彼らの戦功は一世にとっても誇りであった。

朝寒や子の徴召の遂ひに來し 芳庭

二世輝く門出やレイの菊薫る(インダクチイ) 岡本蕉葉

日系兵士のいさをし永久に七四祭 横山松青

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4.終戦

1945年8月14日、ホノルルは華やかな対日戦勝パレードで町中が沸き立った。しかしその陰で、約3万5千人の日本人一世の多くが、祖国日本の降伏というニュースに途方にくれ、家に閉じこもり、悲しみにうちひしがれ、涙にくれた。一世の多くは、戦中密かに日本からの短波ラジオ放送に耳を傾けて、日本の勝利を確信していた。ホノルルも町でも、本土の収容所でも、アメリカの勝利をつげて鳴り響くサイレンが、一世にとっては敗戦のサイレンであった。

戸外には停戰サイレンが鳴りており我は涙の心もてきく 福永漢月

この汽笛吾が皇國のとむらひの響きならずや胸にひゞかふ 竹井蘇人

頼みてしわが日の本の敗れしに心も魂も置き所なし 中林無有

ハワイの日本人はラジオ短波放送で、終戦を告げる天皇の声に接した。そして、天皇の人間宣言を受け止めることになった。受けた衝撃は日本にいる日本人と変わらなかった。

気も狂ふ思いあの日の御玉音 すみれ 

ラヂオへ顔せよ合ひ敗けたといふ故國からの一語一語 古川文詩朗

終戦から3箇月が経ち、大陸の収容所から解放されたハワイの日本人指導者たちが島に帰還し始めた。荒野の収容所から、光溢れる花のハワイに戻った一世たちの感慨も、また夫の帰還を待ちわびた妻たちの感慨も、一入であった。しかしホノルルの日本領事館は閉鎖されたままであった。

外の垣にも花の我家でご飯いたゞく 古谷翠渓

過ぎし日の思出ふかしとらはれの夫まちにし四年あまりの 志賀野浦子

たゞうれし妻が料理の雑煮なる 重兼花雪

御紋章の跡仰ぎけりお元日(元領事館の庭に佇みて) 横山松青

5.敗戦の祖国

戦後の日本の惨状は、まず進駐軍として日本へ渡った二世兵士からの手紙で伝えられた。ララ(Licensed Agencies for Relief in Asia, LARA)のドキュメンタリー映画も焦土日本の惨状を伝えてきた。

腹えぐる母國ニユースに昼も夜もさいなまれ居り夏深みつゝ 三陽夕陽丘

映画とも思へざりけりまざまざと戦災日本の現実のさま 泉 白水

緊急の救済が必要であり、食糧、衣料品、医薬品等が、移民たちからララを通じて祖国に届けられた。また日本との郵便が再開されると、日本の親族友人への無数の救援小包が送られた。日本との信書の交換が自由になり、久しぶりに日本からの懐かしい便りが届いた。家族中が日本からの手紙に引き寄せられた。中には思いがけない訃報もあった。

はらからに送る小包ととのへつ悲しき戦ひに心濁るも 山里慈海

五年ぶり故郷の便りへ寄る眼と眼 快夢起

ひらかなの便り祖國へ向いて讀み 晴耕

久方の古里のたよりはかなしくも母みまかりししらせなりけり 泉さだを

日本降伏後まもなく、日本敗戦を受け入れられない一世たちの間で、日本が戦争に勝ったという様々なデマが飛びかった。やがて「勝った組」と呼ばれる多くの団体が生れ、ある種の社会運動となったが、間もなく終息した。

まことなれかしと思へど好ましき噂の影はたよりなげなる 中林無有

珈琲採るあの一家勝った党だといふ 横山松青

大多数の一世は祖国の復興の響きをも耳にして、祖国への新たな誇りを抱くようになった。優秀な大和民族ならば、きっと立派に復興するにちがいなかった。アメリカ軍の支配下に、民主日本への転換に、多くの一世は期待した。

他に劣る国民ならじ今十歳経なば築かむ輝きの国 竹井蘇人

舊き人去り新しき人の立つ故國思へば胸おどるかも 比嘉静観

デモクラシー産声あげた新日本 潮風

その3 >>

 

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*2013年7月4日から7日にかけて行われた全米日系人博物館による全米カンフェレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity』での日本語セッション「一世の詩、一世の声 (Issei Poetry, Issei Voices)」のセッションでの発表原稿です。

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第二次世界大戦をめぐるハワイ日本人移民の忠誠心と日本人意識 ―短歌・俳句・川柳を史料として― - その1/3

はじめに

この発表は、ハワイの日本人移民一世の短歌・俳句・川柳を素材として、彼らの日本人意識、祖国への忠誠と移住地アメリカへの同化に焦点をあわせて、その変化を追うものである。取り上げる期間は、1931年の満州事変から、太平洋戦争を経て、1952年のサンフランシスコ講和条約発効に至るまでの、波乱に満ちた約20年間である。

この間、一世の法的地位・社会的立場は大変動を経た。戦前、日本人移民に帰化権はなく、一世は日本国籍の日本人であったが、ハワイ定住を決心しており、子どもたち二世をアメリカ人として育てた。一世は日米開戦とともに「敵性外国人」となり、日本人としての誇りや文化を抑圧される中で、アメリカへの恭順を表明し、息子をアメリカ軍に送り出した。戦後は、日本の敗戦に打ちひしがれた一世であったが、1952年マッカラン・ウォールター移民帰化法成立によって念願の帰化権を付与され、アメリカ国籍を取得していった。

一世の文芸作品を分析すると、その間一貫して、祖国への想いが姿を変えつつも維持され、日本文化や価値観が保持され続けたことが見えてくる。一世移民は、日本とアメリカに対する二重の属性を戦前、戦中、戦後と、形をかえて保持し続けたのである。その二重性のゆえに、戦争は、一世の心を引き裂いた。一世は、戦争中も短歌や俳句に日々の感慨を綴り続けた。詩を作ることは、彼らの人間としての尊厳を保つ方法の一つであった。

今回私は、一世の文芸作品―短歌・俳句・川柳―を史料として、一世の思考や行動、情念を読み解きたいと思う。

 

1. 1930年日中戦争

日中戦争が勃発すると、ハワイの多くの日本人一世は大陸侵略のニュースに感激し、「皇国日本」を誇りに思った。戦況を知りたくて移民たちは邦字新聞や東京からの短波ラジオにかじりついた。そして、中国大陸の日本人兵士を思いやり、こぞって祖国に献金や慰問袋を送った。祖国訪問団も増えた。

戦況のラジオに秋の夜は更けぬ 横山松青

六十のおきな戦に出るとききわが雄心は勃々ともゆ 岩谷残花

戦没の勇士の霊を慰むと行く人のあり今日の船には 岩谷残花

日米関係が緊迫化して、1940年に日米通商条約が破棄されると、移民は日米戦争の陰に不安を覚えた。

春雷す日本は遂に無条約(通商条約廃棄) 横山松青

夏追うて宣戦の電波乱れ飛ぶ 横山松青

2.1941年12月真珠湾奇襲と開戦

真珠湾奇襲は、ハワイの住民の誰にとっても青天の霹靂であった。信じられなくて、米軍の演習だろうと思ったほどであった。開戦のその日に、ハワイ準州は軍政下に置かれた。ただちに灯火管制、夜間外出禁止令が発せられた。そして一世指導者たちが検挙されて収容所に抑留された(抑留されたのは日系人人口の1パーセント以下)。一世たちは、この衝撃をどのように受けとめたらいいかとまどった。

起こるべからざる事の起こりて日の国と星の国との戦ひ始まる 相賀渓芳

日本攻撃真珠湾の放送にやがて吾等は愕然としぬ 中林無有

捕はれてゆく夫門に見送れば白青燈の車闇に消えゆく 志賀野浦子

一世は「適正外国人」となった。スパイ行為の危惧から、一世のカメラとラジオの所持が禁じられた。公的な場での日本語の使用と、日本人の10人以上に集会が禁止となった。親書は検閲され電話は盗聴された。予想されたように日系人コミュニティは混乱したが、ハワイ軍政政府は日系人に基本的な部分で他の人々と変わらない生活を保証した。防毒ガスマスクも平等に配給された。一世は、引き裂かれたアイデンティティを詩に表現し、人間らしさを保った。

   敵性(エネミー)外国人(エイリアン)とふ其称呼よ夢の中にも吾にのしかかる
                                                                                           中林無有

ギャスマスクカメラに代へて春の町 横山松青

一世の日本人意識や大和民族としての誇りが容易に変わるはずもなかった。1942年、開戦後最初の正月を迎え、ハワイの一世はそれまでと変わりなく日本人として元旦を祝った。

一億の民の火玉か初光り(四十二年戒厳令下に新年を迎ふ) 横山松青

門松や問はでもあるじ日本人 横山松青

ハワイにいる一世には、戦艦の動きや砲車の動きから、戦況が肌に伝わってきた。日本を思いやる一世の心情が歌に詠われている。

島を出入る艦あわただし冬の雷 横山松青

街を砲車あとからあとから、日本が追ひつめられてゆく 古川文詩朗

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*2013年7月4日から7日にかけて行われた全米日系人博物館による全米カンフェレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity …

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ドラマ『99年の愛』― 時代考証を振り返って

(編集者注:本稿は、シアトルで行われた全米日系人博物館による全米カンフェレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity』での日本語セッション「99年の愛/憎しみ(99 Years of Love / Hate)」(2013年7月6日)で発表された原稿です。)

はじめに

テレビドラマの脚本の時代考証は初めての経験であった。我々3人(飯野正子粂井輝子、島田法子)は、『99年の愛~Japanese Americans~』の脚本の中にある歴史的にみて不適当ではないかと思われる点をリストアップし、TBSのプロデューサーや担当者に提出し、彼らを通じて脚本家の橋田寿賀子氏に検討していただいた。

我々が一番迷いまた考えさせられたことは、フィクションであるこの作品に、歴史研究者として歴史的に正確な裏付けを、どの程度まで求めることができるのか、あるいは必要とされるのか、と言うことであった。

歴史的誤りを指摘するリストは数ページに及んだ。それによって修正されたことも多かったが、受けいれられなかったこともいくつかあった。すなわち、脚本を修正するかどうかの判断はTBSと橋田氏に委ねられていた。

我々は、多少歴史的に不正確であっても、それがドラマを盛り上げるために必要とされることで、また大きく歴史を捻じ曲げるものではないという判断で、最終的には合意した。また今まで、このような形で日系人の歴史が、影響力のある日本のメジャーなテレビ企画として取り上げられたことはなく、今回、橋田氏という日本でも指折りの脚本家によってドラマ化され、この作品を通して多くの日本の視聴者が日系人の歴史を知ることになることは有意義なことだとも考えた。そして、このようなドラマを、実際に歴史を生きてこられた日系の方々が見て、歴史的に不正確なことが含まれていてもそれらを許容して、ドラマとして楽しんでいただけるかということが、私たちにとっては重要な判断基準となった。

以下に、まず、私たちが指摘したことで、ドラマを盛り上げるために必要とされ、修正されなかった事を挙げておきたいと思う。その後で、指摘に従って修正されて点を、多数ある中から、いくつか挙げておきたい。

A.作品が史実と合わないままに残された点

1.シアトル近郊が舞台なのに、主人公の一家は、サンタ・アニタ競馬場に設置された仮収容所に収容され、マンザナー収容所に移送される。

これは主としてロサンゼルスの日系人の歴史である。史実に則れば、シアトルの日系人は、まずピュアラップ仮収容所に入り、そこからミニドカ収容所へと移動したはず。ピュアラップは共進会場で、競馬場ではない。

  • 競馬場というひどい環境に置かれたエピソードを生かしたいので、設定は残すことになった。
    仮収容所として使われた競馬場は、2か所あって、ロサンゼルスの日系人はサンタ・アニタ競馬場に。またサンフランシスコの日系人はタンフォラン競馬場に収容され、そこからユタ州のトパーズ収容所へ移送された。
  • また、マンザナー収容所の設定が必要とされた。なぜなら、主人公の一家が収容されたところで、暴動が起きる。この騒動をドラマで取り上げたかったからである。
    収容所の中で、日系人が日系人を襲撃する事件は、1942年11月14日、ヒラリバー収容所で、同年11月18日、ポストン収容所で、同年12月6日、マンザナー収容所で、相次いで起こった。マンザナー収容所では、その後、「マンザナー騒動」という大きな事件に発展した。ドラマの中で、この部分はクライマックスの一つであった。
  • マンザナー収容所跡を、現代の次郎、しのぶ、さち、タクヤ、直人、景子の一家が訪問する場面が設定されている。

    しのぶの孫タクヤのセリフ 「とても人間の住めるとこじゃないんだよね」

    日系人の苦闘を現代に伝える場面である。

<シアトルとイチローについて>

  • それでもドラマの舞台として、ロサンゼルスではなく、シアトルを選んだ一つの理由は、イチローの活躍を取り上げることにあると思われる。脚本家の橋田寿賀子氏は、イチローの活躍と、日系人の苦闘の歴史とを、シアトルを舞台に対照させて描いている。ドラマの冒頭は、2010年のセーフィコ球場で、平松一家が野球観戦をする場面である。イチローが平松一家の話題となり、大きな役割を果たしている。

    次郎のセリフ 「日本人の選手がアメリカの球団に入ってこんなにもてはやされてるなんてねぇ。私たちが生きてきた時代とは大違いだ。こんな時が来るなんて思ってもみなかったものねぇ」
    しのぶのセリフ 「ほんと・・・。ジャップ、ジャップって馬鹿にされて嫌われてた昔のこと思ったらとても信じられない」
    ここでイチローのホームラン。

    過去と現在の対照が、イチローによって示されている。
  • そして、最後のレストラン「大和」(しのぶの息子ケンのレストラン)の場面でも、イチローが話題になる。

    さちのセリフ 「今でも原爆は許せない。あんな残酷な爆弾だってわかって落としたアメリカだって許していない。しづ姉ちゃんが可愛相で・・・」
    続けて 「けど、・・・イチロー選手のようにアメリカ人にも尊敬され愛されてる日本人も出て来たし・・・いつまでもアメリカに偏見を持ってるのはもう時代遅れかもしれないわね」

    ここでも、過去の人種偏見が克服されたことを、イチローによって示している。
  • 主人公の名前を一郎としている。イチロー選手の活躍に、兄一郎の思い出のフラッシュバックがかぶさっていく。

2.二世の子どもたちが、英語が下手で、お互いに日本語で会話している。

  • 確かに不自然だが、日本人俳優による日本のドラマということで、そのままになった。
    最初は、子どもたちが日本人学校にしか行ってないという設定だったが、時代考証として、日本語学校は補習校で、放課後に通うことを示し、また日本語学校の先生たちはアメリカの公立学校教育を重視していたことを示した。この部分は修正された。

3.主人公一郎の父、長吉に関する設定が、史実から外れている。まず、長吉は島根県の貧農の二男坊という設定。

これは、移民は貧農というステレオタイプに則っているといえよう。実際には、長吉の一家のように、全く現金の余裕がないという貧しい世帯からの移民は、困難であっただろう。また、長吉が移民するのは1912年という設定で、これはありえない。1908年の日米紳士協約によって、家族の呼び寄せ以外の労働移民は認められなかった。(また、シアトル港に上陸するが、イミグレーションの手続きが描かれていない。)

  • 野中さん一家が親戚の呼び寄せで移民するのについていくという設定で、長吉についてはそのままになった。

4.しのぶに関する設定が、史実から外れている。(しのぶは1年間アメリカに滞在しワシントン大学に学ぶという設定。東京には祖父、祖母、弟たちが残っていることになっている。)

当時、娘をアメリカに連れてくることは普通ではないだろうし、日本から来たばかりの外交官の娘がワシントン大学で学ぶということも考えられない。当時の日本の女学校は、大学進学を念頭においているとはいえず、英語教育もそれほど充実していなかった。

  • しかし、しのぶが大学構内で人種差別を受けて、二世の主人公一郎と出会うという設定のために、しのぶがシアトルに来ることが必要とされる。

    しのぶのセリフ 「日本でずっとアメリカの大学へ入るのが夢で英語の勉強もして、やっと願いがかなった」

5.また、しのぶが、愛する人から離れたくなくて帰国船から海に飛び込んだという設定も例がない。また、海岸から一郎の農場まで歩いて行ったという設定は無理。

  • 海に飛びこんだという設定は、ドラマとしてどうしても残す。その後のことは詳しくは描かないことにする。
    実際には、しのぶが海に飛びこんで、夜の海からしのぶが這い上がってくる。そして歩き出して夜の闇に消える。次の場面では、しのぶが平松農場で牛の世話をしているところを、一郎が発見する。

6.1922年夏の設定で、ワシントン州の外国人土地法に反して、一世の長吉が、生まれたばかりの息子、二世の一郎名義で、キャサリンから土地を買った。

ワシントン州では、1921年の外国人土地法によって、外国人の土地所有権と借地権が禁じられた。続いて1923年の土地法では、未成年の二世による土地所有と借地も禁止された。未成年の一郎には土地を所有する資格がなくなるので、本来、一郎が成人するまで、キャサリンあるいは成人二世の知り合いに名義を借りるしかない。

  • このまま残すことに。

7.日本に帰国すれば「日本は平和だ」というセリフは、日中戦争中という史実に合わない。

  • 「人種差別がなくて平和」という解釈でセリフは残すことに。

8.長吉は娘二人を、広島に嫁いだ妹のところと、沖縄に嫁いだ妹のところに預けるという設定。当時、島根県の貧農の一家が、娘たちを広島と沖縄に嫁がせるということは普通では考えられない設定。

とくに沖縄と内地(日本本土)の間には交流はなかったと思う。また沖縄では、同じ町村内で結婚することが普通であった。

  • ドラマにとって、広島と沖縄という、戦争の最大被災地を舞台にするために、必要な設定であったと想像できる。

9.平松農場の人たちが一週間以内に立ち退くように命令される。

一週間ほどの猶予しか与えられなかったのはシアトルに近いベインブリッジ島の日系人の場合であった。特に漁師は軍事的な危険情報を持っていると考えられ、3月23日に、立ち退き命令の第1号で立ち退きを命じられた。この人たちは、マンザナー仮収容所に送られた。マンザナー仮収容所は、6月2日、収容所と変更になった。その次に立ち退きを命じられたのは、ロサンゼルス港のターミナル島の日系人漁師たちで、3月30日だった。この人たちも一週間ほどしか猶予を与えられなかった。しかし、これ以外の日系人の場合には、もう少し時間的猶予が与えられた。

  • ドラマでは、歴史的にはもう少し時間の余裕があったかもしれないが、日系人の苦闘を示すものとして、このまま残すことに。

10.弘の軍隊志願の動機として「収容所から出るためならなんでもする。でも他に方法が無なかった。」というセリフはおかしい。西海岸以外の地区への大学や農業労働で出ることは可能だった。他に方法がないということは正しくない。

  • 弘の精神的な状態を表すものとして残すことに。

11.1943年夏の一郎としのぶの新婚旅行で、シアトルに行くという設定は無理。当時は、志願兵のみの立ち入りは許可されていた。

  • 話の筋として外すことはできないので、フィクションとしてこのまま残すことに。新婚の二人が、シアトルのレストランにもホテルにも拒絶されるという差別を経験する場面と、日本人のホテルを預かっている親切な白人女性ベティとの出会いの場面が描かれる。ここでの幸せな数日の思い出が、一郎の死後のしのぶを支えるという設定になっている。

    しのぶのセリフ 「その何日かのしあわせな思い出があるから、今まで生きてこられたの」
  • 歴史的には、1943年4月から、志願兵に限り、日系二世が西海岸に立ち入を許可する方針がでた。しかし、新婚旅行に「夫婦」で西海岸に立ち入る許可は、出なかったであろう。1944年の春からは、民間人が西海岸に戻る許可が、実験的に、少しずつ出るようになった。1944年末までに、約1,500人の日系の民間人が西海岸に戻った。さらに、1945年1月からは、立退き令が撤回されて、西海岸への帰還が自由になった。

B.時代考証の指摘によって、史実に沿って修正、あるいはカットされた点

1.移民の渡航費が「お上からの補助」をもらえる、あるいは「日本人会から借りる」という設定であった。実際は花婿の負担だった。

  • カット。

2.平松農場に、冷蔵庫や電話があったという設定は無理かもしれない。

  • 無いことに。

3.シアトル近郊で米作りをしているという設定。シアトル近郊ではしていない。

  • カット

4.日本人の子どもは公立学校に行かれなくて、日本語学校に行っていたという設定。子どもたちは公立学校に行っていて、放課後のみ日本語学校に行った。

  • カット

5.日米交渉のただ中の1941年夏の段階で、領事館員が日本に引き揚げるという設定はおかしい。

  • 商社の人が引き揚げるという設定に変更。ただし、「領事館の松沢事務官も急に帰国命令がでているそうだ。」というセリフは残し、しのぶが帰国しなければならない設定を守る。
  • 最初の設定は、1940年に、外交関係者が日本に引き揚げるということだった。そして民間人の最後の引き揚げ船が1940年に出たという設定だった。これは全部修正された。

6.日系市民協会(JACL)の山崎登から、長吉に連絡がくるという設定は、無理。一世の長吉はメンバーになれないし、JACLが電話をかけてきて意見を聞くということはない。

  • 「日系市民団体」という名称で残す。個人的な知り合いからの連絡ということにする。

7.「外出禁止令が出て日本人は働くこともできない」というセリフは誤り。

  • 夜間外出禁止令に訂正。
  • 日中は外出できた。また夜間外出禁止令が実施されたのは、1942年3月27日からで、最初の台本にあった1941年のクリスマスの頃はまだ実施されていない。 …

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