小嶋 茂

(こじま・しげる)

新潟県三条市出身。上智大学卒。ブラジル国パラナ連邦大学歴史科修士課程修了後、東京学芸大学などの講師を経て、JICA横浜海外移住資料館設立に関わる。早稲田大学人間総合研究センター招聘研究員。移民史、移民研究。主な著作に「日系コミュニティの将来とマツリ」(山本岩夫他編『南北アメリカの日系文化』人文書院、2007年)、「日本人移民の歴史から在日日系人を考える-ブラジル移住百周年と日系の諸相」(『アジア遊学』117、勉誠出版、2008年)、「海外移住と移民・邦人・日系人」(駒井洋監修『東アジアのディアスポラ』明石書店、2011年)。

(2021年4月 更新)

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日系人と名前

日系人の名前 「スジロ」?!

ブラジルの著名なマンガ家ズィラルド(Ziraldo)の作品『マルキーニョ少年』(Menimo Maluquinho)に登場する仲間の一人に、スジロ(Sugiro)という日系人がいる。イチロやスシロならばまだしも、スジロなどという名前はどう考えても変だ。日系人や日本人の名前としてはおかしいとずいぶん前から感じていた。そしてある日、一挙にその謎が解けた。これはピアーダ(ブラジル風ジョーク)から生まれた名前だったのである。この話は、ブラジルにおいて日系人がどのように捉えられているかを知る上でも興味深い。

スジロは主人公マルキーニョ少年の近所の子で、日本人の子孫という設定である。日系人の大半がそう思われているように、従順でおとなしく勉強熱心。一番熱中しているのは、コンピューターだという。インターネットに浸りきりで、母親は彼を部屋から外へと引っ張りだしたい。しかしスジロを屋外へといざなえるのは唯一マルキーニョだけだ、との説明がサイトにある。そしてスジロの語源となった「あるブラジル名」と題するピアーダ(ジョーク)は、以下のとおりである。

“Um nome brasileiro” 

Mal o japonês chegou ao Brasil, sua esposa já ia ter nenê. Como ele queria prestar uma homenagem a terra que tão bem o acolhera, resolveu dar um nome brasileiro ao filho.

Pediu uma sugestão para um amigo que lhe disse:

- Sugiro Alberto, Ronaldo, Carlos, Antônio...

E o zapon, todo satisfeito:

-Ótimo nome! Ótimo nome! 
 Nome garoto ser Sugiro, no?

「あるブラジル名」

日本人がブラジルに到着するや否や、奥さんは早速赤ん坊が生まれることになった。彼は自分をたいへんよくもてなしてくれた国に敬意を表したかったので、生まれてくる子どもにブラジル人の名前を付けることにした。そこで、ある友人に名前を提案してくれるように頼んだところ、次のような返事だった。

-アルベルト、ホナルド、カルロス、アントニオ・・・はどうかな。

〔*Sujiroスジロは「はどうかな」にあたり、「提案します」の意味〕

それを聞いたザポン〔*ジャポン(日本[人]のこと〕は、すっかり満足して、こう言った。

-とてもいい名前だ。最高の名前だ。
 子どもの名前、スジロね。

〔この最後の一行は、単語の羅列で文法的にはデタラメとなっている。〕(筆者訳)

日本語に訳すと原語での面白みが削がれてしまうが、ポルトガル語をよく理解していない日本人が、Sugiroという言葉(動詞)を名前と勘違いしてしまう、という内容である。ポイントはいくつかあるが、要点としては、新来日本人がポルトガル語の文法や発音がよく分からないために、からかわれているのだ。だから本来ならば絶対あり得ない言葉が名前として採用されてしまった、というエスニックジョークである。その象徴がスジロという名前なのだ。ブラジルではポルトガル人に対するこの種のジョークが多い。何とも滑稽な、当事者にはありがたくないエピソードであるが、こうしたからかいや遊びがブラジル人にとっては、親密さを表わし、また深める要因の一つともなっている。多くの日系人はこのピアーダを聞いて、苦笑いしながらも、いっしょに笑い飛ばすだろう。


登録された名前

しかしひょっとすると、スジロという日系人は存在するかもしれない。知人の日系ブラジル人に、二世の岡林先生と三世のイシ先生がいらっしゃる。その岡林先生の名刺にはアルファベットでOkabayaskiと表記されている。どうやらご先祖が移民としてブラジルにいらした際、名前を登録する時に誤ってそのように記載されてしまったらしい。アルファベットだけ見ていると、東欧系の方かと推測してしまいそうだ。イシ先生の場合も、本来は石井であったものが、Ishiと登録されたと伺った。そうした例は日本人移民にかぎらず、少なからずあるようだ。

外国人の名前は音を正しく聞き取ることが難しい上に、それをどう表記するかは一度や二度聞いただけでは至難の業だ。ブラジルの元大統領クビチェックをKubitschekとすぐに書ける人は、ブラジル人といえども数少ないだろう。私の名前「茂(しげる)」もそうだ。パスポートにはアルファベットでSHIGERUと表記されている。しかしこれをポルトガル語読みすると、シジェルと呼ばれてしまう。シゲルと読んでもらうためには、SHIGUERUとUをGEのあいだに入れなければならない。しかしその場合も、今度はシゲールと発音されてしまったり、chiqueiro (シケイロ、豚小屋)と間違われたりする。もしchiqueiroと登録されてしまったら、一生笑いの種となり、まるでポルトガル人のピアーダだ。

こうした音の一致から、日本人の名前を弄んでブラジル人からジョークを浴びせられることがある。テニスのサーブが下手だと「坂森さん」(saca mole、サッカ・モーリ〔サーブが弱いこと〕)と呼ばれ、お前は日本人だから「魚」(sacana、サカーナ〔放蕩〕)や「菊」(Que cu、キク―〔cuは卑語で肛門をさす〕)が好きだろうという具合である。


名前の使い分け

日本語名は時と場合により、揶揄されたり差別を受けるきっかけともなり得る。しかし南米の場合には、ファーストネームとラストネームのあいだにセカンドネーム(通常は洗礼名)あるいはまた、サードネームがあり、緩衝材の役目を果たしている。例えば日系パラグアイ人Wilson Shuji Onishi Hoshikawaさんの場合、ラストネームは母方の姓で「星川」、サードネームは父方の姓「大西」、ファーストネームは現地語名「ウィルソン」でセカンドネームは日本語名「秀次」となっている。ブラジルではサードネームに母方の姓、ラストネームに父方の姓となることが多いが、このパターンが一般的である。しかしこれはあくまで登録上のフルネームで、実生活ではウィルソン・ホシカワのように2語で通すことが多いようだ。そして日系人は、家庭や日系社会内ではウィルソンよりも秀次を使うといった使い分けがよく行われる。もちろん、日本名しか付けない場合や、二つないし三つということもあり、ケースバイケースだ。


日系人の名前を日本語で表す

日系人の名前を日本語でどのように表記するかは、かなりまちまちである。本人がどう表記するかはさておき、北米の日本語新聞、例えば「バンクーバー新報」や「北米報知」などでは、日系人の名前は一世など日本国籍保有者であれば日本と同じ表記、現地国籍であればカタカナ書きで現地語の読み方に従い、ファーストネーム・ラストネームの順番で表記することが多い。例えば、ダニエル・イノウエ、ジョージ・タケイといった具合だ。ところが南米の場合、例えば「ニッケイ新聞」や「サンパウロ新聞」は、一定していないが、二世や三世でも日本式に姓名の順で姓は基本的に漢字で表記していることが多い。例えば、高木ラウル、大竹ルイなど。これはなぜだろうか。二世や三世も日本人であるという意識が記事を書く側に無意識に働いているからではないかと推測する。一定していないことから、新聞社の方針ではなく、記者の個人的な意識によるものなのだろう。いずれにせよ、そこに書き手の思いが反映されていることは間違いない。


埋もれる日本語名

最近二人の日系人を「発見」した。一人は在日ブラジル総領事館に勤めるマルシ・コスタ(Marcy Costa)さん。話を聞いてみると日系人だという。名刺をいただくとマルシ・タガワ・オリベイラ・コスタ(Marcy Tagawa Oliveira Costa)と書かれている。そう言われてみれば、確かに日系人の面影が感じられる。マルシさんの場合、タガワは母方、オリベイラは父方、コスタは夫の姓とのこと。もう一人はネットで見つけたナタシャ・アレグリ(Natasha Allegri)さん。コミック・ブック・アーティストで、名前に日本名はないが母親は沖縄にルーツをもち、日系ボリビア人だ。日系人の名前に日本人の姓や名が消える時代となり、外見はもとより名前からも日系人かどうかを判断できない時代となった。名前が埋もれていくことは寂しい感じがすると同時に、日系人は新たな時代に入ったと強く感じる。

 

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日系人と日本語

移民家族とのひととき

「ヨウはカフェー・センアスーカにする。オッセーはどうする?」

「アルモッサもしていったらいい。」

戦前移民であるその一世長老は、日本から来た留学生である私が訪ねるたびに、そう言って歓待してくれた。そしてそのかたわらには必ず、婦人部で日本舞踊を舞い、俳句を嗜み、いつも笑顔のセニョーラ(夫人)がいた。この二人に加えて、二世の娘夫婦、そして時には片言の日本語を話す中学生の三世の孫までが同席し、入れ替わることもあったが、いつも家族のように接してくれた。そして最後は、お茶漬けと漬物の食事が定番であった。今となっては、もう再び会うことのできないその好々爺、そしてその家族との出会いは、遠くて懐かしい想い出、まさにブラジルのサウダージ(懐愁)という表現に相応しい体験だった。外国における独り身には、ずいぶん救われたひとときだったに違いない。

移民研究に取り組む今にして思えば、あの時期にその会話を記録したり、録音したり、なぜ思いが至らなかったのだろうか、と悔やまれる。いや、それは失礼なことになっていただろうし、研究対象としてあの家族を見る余裕などなかった。ちなみに、冒頭の文章は、「私は(砂糖を入れない)ブラックコーヒーにするが、あなたはどうする?」「昼食もいっしょに食べていったらいい」という意味になる。ヨウは殿様言葉「余は満足じゃ」の「余」ではなく、ポルトガル語の一人称単数にあたるeu(エウ)「私」が訛ったものである。最初は、もしかしてご先祖は・・・とも疑っていた。

あれから早くも30年を超える時が過ぎた。同じ頃に、修士論文をまとめるためにインタビューしたある二世女性が、「それは『感謝』という言葉です」と語った時の衝撃が今も忘れられない。一世である両親から受けた日本の文化や遺産として、何が大切だと思うか、と尋ねた時の回答である。それからおよそ20年後、この「感謝」という言葉は、「おかげさまで」と言い換えられ、ハワイの日系人からも聞かされることになる。そして、日系人によるその英語訳が、素晴らしい見事な訳になっている。I am what I am because of you. 「あなたがいるからこそ、現在の私がある。」日本人としての心の拠り所、日本文化の伝統としての日常生活における価値観を、日系人をとおして学ばせてもらった気がした。異文化や多文化の中でぶつかりあい葛藤してきたからこそ、日本文化の拠り所を探し求め凝縮させていった日系人ならではの帰結であろう。日本語は話せなくとも、「おかげさまで」の意味を理解している日系人がいるということである。この言葉が継承されていることはたいへん意味深い。


ブラジルのコロニア語

冒頭のチャンポン語に戻ろう。これはブラジルではコロニア語と呼ばれている。コロニアとはポルトガル語で本来は「植民地」を指している。しかし第二次大戦後、帰国を閉ざされた日本人移民がブラジルでの永住を決意し、生き残りのための連携や協力を模索した時期から、日系社会の全体を指して「日系コロニア」と呼ぶようになった。そしてコロニア語とは、その日系コロニアで使われる言葉を指し、ブラジルの一世および二世のあいだで話されていた、ポルトガル語混じりの日本語のことである。今でもはっきりと覚えている表現に、以下のようなものがある。

 「次のエスキーナ(角)を右に曲がり、その通りをまっすぐに行けば、ヴァルガス通りに落ちます(辿り着きます)」

 「じゃあ今度のドミンゴ(日曜日)にいっしょにテニスを投げましょう(プレイしましょう)」

 「しばらくはオニブス(バス)が来ないから、あそこでタクシーをつかみましょう(に乗りましょう)」

下線の表現は、それぞれの状況で使われるポルトガル語動詞をそのまま日本語に訳したために起こる独特な言い方である。クリチーバ・モデル校の笹谷聖子先生はコロニア語を「ジャポンゲイス」と呼び(japonês〔ジャポネイス〕とportuguês〔ポルトゲイス〕の語呂合わせ表現)、以下の例を紹介されている。

「私はもうアポゼンタ(定年退職)しているから、セマナ(平日)はペスカ(釣り)に行ったり、ドミンゴ(日曜日)はフィーリョ(息子)の家でアルモッソ(昼食)したり、ビーダボア(安定した生活)ですよ。」

(『かけ橋』n°21, 2013. p.18)

歌を詠む日系人のあいだでも、ポルトガル語が日本語に混じり季語となっている語もある。

蜜柑もぐ吾子のノイバ(花嫁)は大女 青柳清流子

茎漬やマモン(パパイヤ)を漬けし日も遠く 樋口敏明

シュベイロ(シャワー)の湯ざめ侘しく思ひ寝る 念腹

(佐藤牛童子『ブラジル歳時記』2006年)

また「女郎(の子)、合いの子、ガイジン、便所、寄り合い」といった日本では現在日常生活でほとんど聞かれない、あるいは過去の言葉となっている単語が、日系コロニアではよく聞かれた。時代が凍結されてそのまま残っているような言葉である。ちなみに、「合いの子」は2000年、パラナ州ロンドリーナで制作された日系コミュニティ紹介ビデオのタイトルとなり、「愛の子」(filhos do amor)と表現された。合いの子の言葉がもつ侮蔑的な意味が転換され、肯定的な意味づけがなされている。言葉の価値転換という意味では、japa(ジャッパ)もそうだろう。英語のjapに相当するこの言葉は、本来は侮蔑的意味を持つことばである。しかし、ブラジルではおそらく2000年代以降、全く軽蔑の意味をもたず、使う方も使われる方も、ともに親しみを表わす言葉として了解されるような状況も生まれてきた。軽蔑の対象として捉える状況が減ってきたということだろう。ブラジルにおける日系人の貢献と深い関係があるに違いない。

そのほか、ほとんど年齢の変わらない相手から「おじさん」と呼ばれて、不快な思いをすることもたびたびあった。おそらく女性で、同じように「おばさん」と同世代から呼ばれて、不愉快な思いをした人もいるに違いない。これは面識のない知らない相手を呼ぶ際に、ポルトガル語では tio(おじさん) tia(おばさん)という言葉を使うことがあり、そのまま日本語に訳した不幸な誤訳である。この場合の、ポルトガル語tioとtiaの想定年齢はかなり広い。

あるいはまた、デカセギ関係の相談所に「用心棒求む」という求人広告が掲載されたことがあった。バイリンガル表記でポルトガル語では “Procura-se um guarda.” とある。詳細を見ると、デカセギとして留守にする間、田舎の小農園を荒らされたり奪われたりしないように管理者を求むとの趣旨である。なるほどguardaには番人や守衛の意味があり、ブラジルでは場合によっては発砲する必要があるかもしれない。用心棒とはうまく言いあてたものだと感心した。


「ルキケチ」と「おすまだよう」

ルキケチとおすまだようと聞いて、何のことか分かる人は少ないのではないか。前者は「コロニア語」、後者は「横浜ことば」である。ルキケチはコロニア語の一種といってもよいだろう。写真にあるように、これは店名である。Lucky Cat という店舗が日本語でも店名を表記しており、「ルキケチ」と掲げているのだ。これはブラジル風英語発音(?)から来ていると推測される。なぜなら、party はパーチィ、 Yakult はヤクルチ、Hello Kitty はハロ・キチ、Batman はバッチマン、と多くのブラジル人は発音している(ように聞こえる)ことからくる音変化と同じだからである。堂々と店名として掲げられていることからも、決して不自然なこととは捉えられていないと判断できる。

横浜ことばとは、1859年の横浜開港以降、居留地を中心として外国人と接触していた日本人のあいだで、外国人と交わしていた言葉を指しており、「横浜ことば」として記録に残されているものである。そうした語彙の中には、「かんかん(count, 貫目みるを)」「ちんちん(change, 両がいするを)」「はまち(How much, ねだんきくを)」などがある。一説には「ちゃんぽん」も横浜ことばだと言われている。しかし、「おすまだよう」は少し難しい。これは What is the matter with you? の音訳とされている。「(あなたは)どうなさいましたか。」の意味である。確かにWhat is the matter with you? を早口で発音していくと、そのように聞こえてくる感じがする。耳で覚えるとはこういうことかもしれない。横浜から海外に渡った移民には、横浜でのこうした経験を経て、その語彙を伝えている人がいることは想像に難くない。ハワイのピジン英語との関連も気にかかる。

移民とよばれる人たちが、どのような困難に直面してきたか、そしてそれを乗り越えてきたか、現在では滑稽にすら思えることが、実はたいへんな苦労を伴ったものであることを、こうした歴史は示している。

 

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移民と移住者

移民と移住者の違いは何か。そして現在ではあまり聞き慣れない言葉だが、移住人や移住民、移民者という言葉も使われていた。これらの言葉の違いは何か。

結論から述べれば、これらはすべて同じ対象を指し、使われた時代が異なるだけである。しかし時代の変遷とともにその意味が変化した。さらには、移住という現象の始まりや状況変化に深く関わっている。これらの言葉がいつ頃使われたのかを確認しつつ、その背景を見てみよう。

歴史的に見ると、これらの言葉が出現する順番は、移住人・移住民・移民・移民者・移住者となる。しかし当初は、ほとんど区別されずに使われていたようだ。人を指す言葉ではなく、その行為を表す「移住」という言葉は、『中外新聞』の明治2(1869)年7月20日付に、「日本人亜米利加に移住の事」というタイトルで初めて現れる。しかし人を指す言葉としては、移住人という言葉が一番早く、1884年5月6日付『読売新聞』に「米国政府の移住人保護」というタイトルで現われる。その二年後1886年には、複数個所で移住民という表現が使われている。さらに二年後1888年の『東京朝日新聞』にも、移住民という表現がある。語尾が「人」であるか「民」であるかはともかくとして、その「移住」という語が出現するのは、上記『中外新聞』1869年を除き、1880年代半ば以降であることが分かる。これはいわゆる官約移民が1885年に始まる時期と重なっている。つまり、1880年代中頃が「移住」という現象が一般的に知られるようになった時期だと推測される。

ほかにもこのことを裏付ける二つの例がある。一つは、1879年4月5日付『横浜毎日新聞』の外報記事「仏国人の出稼(エミグレーション)」である。ここでは、エミグレーションの訳が「出稼」とされており、「移住」という語はまだ使用されていない。もう一つの例は、ヘボン式で有名なJames Curtis Hepburnによる『和英英和語林集成』である。同辞典は1867年日本で最初に出版された和英英和辞典である。その第1版にはemigrateの用語が採録されているが、その意味はUtsuru; hiki-kosz(うつる、ひきこす)となっており、和英の項には移住や移民は収録されていない。emigrant, immigrant, migrant の語も英和の項には見当たらない。しかし、1886年に発行されるその第3版には、以下の用語が採録されている。

イジュウ(utsuri sumu)

Removal or changing one’s dwelling place; emigration from one country to another:     

  -nin, an emigrant

 Emigrate,i.v. Takoku ye utsuru, kuni-gae wo suru, iju suru

つまり、「移住人」「移住する」という言葉は、この頃になって初めて辞書に採録されたことが確認できる。そして、1888年8月7日付『東京朝日新聞』にも「布哇国事情」というタイトルのもと以下のような記述が見られる。

「日本人の移住ハ今を去る二十一年前即ち明治元年二渡航したる百五十名を以て嚆矢とす」

「明治十八年日布両国間に移住民の締約ありしより農業出稼の為移住する者九百七十余人あり之を第一回の移住民とす」

ここではいわゆる元年者が日本人移住の嚆矢だとして、明治18年つまり1885年の移住民が第一回移住民であるとしている。以上から判断すると、1880年代は移住や移住民という言葉が新聞で広く使われていたことが分かる。ところが1890年代に入ると、これに代わって「移民」という言葉が定着していく。その転換点は法律制定、つまり移民保護規則と移民保護法である。

明治時代、日本政府は殖産興業政策の一環として新事業を起こし経営が軌道に乗ると、民間に払い下げた。移民制度もまた同様であった。さらには日清戦争が始まったことにより、政府にその余裕がなくなったこともあり、移民事業を民間に移譲した。その結果、民間会社が増えていく中で弊害が現れ、取り締まりが必要になった。そのための具体的な法律が移民保護規則や移民保護法であった。(アラン・T・モリヤマ『日米移民史学-日本・ハワイ・アメリカ』1988年)

移民保護規則は1894年4月12日に公布されるが、2年後には改正され、移民保護法として1896年4月7日に施行される。これらの法律には、それぞれ以下のような移民の定義がある。

「本令ニ於テ移民ト称スルハ労働ヲ目的トシテ外国ニ渡航スル者ヲ謂ヒ」(移民保護規則)

「本法ニ於テ移民ト称スルハ労働ニ従事スルノ目的ヲ以テ外国ニ渡航スル者及其家族ニシテ之ト同行シ、又其所在地ニ渡航スル者ヲ謂フ」(移民保護法)

この1896年移民保護法以降、移住という「行為」を表す言葉は継続して使用されるものの、「人」を表す言葉としては、移住人や移住民は使われなくなる。わずかに移民者という言葉は見られるものの(例えば、筋師千代市『英語独案内』1901年)、ほぼ移民という言葉に統一されていく。そして、1905年には『日本移民論』という書籍が出版され、そこでもまた移民の定義が以下のようになされている。

「移民とは母国を去りたる人民が他国に於て個々に又は団体を成して生活する者を云ふ」

「移民はその停住期間の長短に依て、一時的移民(或は出稼)及永住的移民の区別あり、一時的移民とは三、五年の後母国に還る者を云ひ、永住的移民とは帰還を予想せざるものを云ふ」

ここで注意をひくのは、出稼ぎを「一時的移民」として捉えていることである。移民を「一時的」と「永住的」に区別し、一時的とは「三、五年の後に母国に還る者」と定義している。これは視点を変えれば、この当時、三年から五年程度出稼ぎとして海外で過ごし帰国した者が一定数いて、移民と呼ばれていたということであろう。のちに述べるように、現在では出稼ぎは移民とは捉えられていない。ここに戦前と戦後の違いが見られる。いずれにせよ、戦前は労働を目的として海外に渡る者は、その期間の長短に関わりなく移民と呼ばれていたことになる。

移民という言葉が使われていた事実確認に戻ろう。この移民保護法以降は、新聞で使用される用語はほぼ移民となる。出版物における用語も、以下のように一部を除き、移民がほとんどである。

「南米移民の断行を望む」(水野龍『南米渡航案内』1906年)

「我邦で此の移民といふ用語を用ふるやうになりましたのは、布哇へ移民を送った所謂官約移民の初期、即ち明治16(1883)年頃からのやうであります」(龍江義信『移植民講習会講演集』1931年【筆者注:官約移民の始まりは1885年】)

「ブラジル本邦移民の現状」「アメリカ合衆国本邦移民事情」(山本三生『日本地理体系 海外発展篇上巻』1931年)

「ブラジル入国の移民」「移民家族」「ブラジル移民」(石川達三『蒼氓』1935年)

「一団の無知な移住民」(菊池寛『文藝春秋』1935年)

「日本移民概史」(巻島得壽『日本移民概史』1937年)

「小資本を持って来た移住民は裸移民にもまして成功が難しい」(小山秀子『地球を廻りて』1942年)

また1928年には、外務省所管になる国立神戸移民収容所が開所される。しかし、同移民収容所は「移民は棄民を収容所は刑務所を連想させる」ことから、「1932年には神戸移住教養所と改称される」(神戸移住斡旋所『神戸移住斡旋所案内』1953年)。おそらくこうした背景がもととなり、1955年には外務省移住局第一課長から、「『移民』と言う呼称の代りに『移住者』とするの件」と題した以下の内示が出される。

「本件に関し従来本省及び在外公館に於ては「移民」と言う呼称を用いて来たが右は所謂「食いつめ者」の如き印象を与え移住政策上面白からざるに付いては爾後本省並びに在外公館に於ては凡て「移住者」の語を使用する事に統一致し法律用語としても逐次右に倣う事と致し度く。右高裁を仰ぐ。」

以上を整理すると、1890年代から1930年代にかけては移民という語が一般的に使われる。しかしその語から受ける印象は、少なくとも当局の立場からは望ましいものとはいえなかったようで、政策上の理由からその使用を避けるようになった。言い方を変えれば、当時移民に対して一般的に抱かれるイメージが好ましくなかったということである。しかしこの説には疑問も多い。いわゆる移民県の各地には、海外の移民から夥しい寄付や送金が行われ、地元に多大な貢献を果たした記録が残っている。上記の内示が根拠となったかどうかは定かではないが、おそらくこれをきっかけとして、戦後は「移住者」という用語が一般的に使用されるようになり、現在に至っている。それにも関わらず、興味深いことに現在でも「移民」という言葉は使われている。海外から日本にやってくる外国人に対してである。日本から海外に渡る人々は移住者と呼ぶが、海外から日本にやってくる人々は移民と呼んでいる。

この語にまつわる判断は難しい。第三者が抱くイメージとは無関係に当事者自身の価値判断がなされるからである。それは「日系人」という語と同じである。当然のことながら、移住した人々のほとんどが棄民であったわけではない。一定の財産が必要であったという説も確かである。大志を抱き夢見て渡った人々も数多くいたはずだ。夢破れのちにそのような意識に自分を重ねる人もいたかもしれない。しかし例えば、戦前にブラジルに移住し、帰伯二世でもある宮尾進(サンパウロ人文科学研究所元所長、故人)は、「自分が『移民』であることに何も負い目はなく、それどころか戦後の移住者と異なり、自分たちの力でゼロから築いてきた『移民』であることに、誇りをもっている」と述べる人々もいる。人により立場によりその価値判断や意識は異なるだろう。従って、移民は棄民を連想させると断定することには、一定の偏見が含まれていると思う。ましてや現在、外国に渡る日本人だけは移住者と呼び、日本に渡ってくる外国人や一般には移民と使い続けることには違和感がある。

移民、移住者、いずれにせよ、英語に訳せばemigrantやimmigrantである。移住は国際的な現象であることから、その定義も国際的に承認されたものである必要がある。国際移住機関(IOM)によれば、現在その定義は以下のようなものである。

Emigration - The act of departing or exiting from one State with a view to settling in another.

Immigration - A process by which non-nationals move into a country for the purpose of settlement.

この場合のsettleとは …

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日系人とは誰のこと?

「日系人」とは誰のことか。この問いに対する回答は簡単ではない。現在における定義は「永住を目的として海外に渡った日本人移住者、およびその子孫」である。しかし、その過去の定義を調べて見ると、時代とともに大きく変化している。さらに当事者の意識の問題がある。決められた定義とは別に、この言葉を使う側の人により、それぞれ異なる意味が込められることがある。そうなると話が噛み合わない。多くの一世つまり移住者は、自分は日本人で、現地で生まれた二世以降が日系人であると考える人がたいへん多い。言い換えれば、日系人に自分自身を含めていない場合が多い。その一方で、日系人がどれくらいいるかと尋ねられれば、一世を含めて数えることが多く、その時点で話は矛盾してくる。

そもそも日系人と言う言葉はいつ頃から使われるようになったのか。記録を辿ると、どうやら戦後のようだ。アメリカの北米新報社『紐育便覧』1948年や、ブラジルのグラフヰカ・ブラジレイラ社『移民四十年史』1949年がそれであり、おそらく印刷物に現れる言葉としては最初である。「日系」という表記であれば、アメリカでは「日系市民」(北米時事社『北米年鑑』1928年)、ブラジルでは「日系伯人」(伯剌西爾時報社『伯剌西爾年鑑』1933年)という表現が日本語新聞の年鑑に現れる。しかし、「日系人」という表現は、戦前の出版物には見当たらない。

1950年代以降は、「日系人口」(パウリスタ新聞社『パウリスタ年鑑』1950年)、「日系人人口」(山本喜誉司、塚田為世『ブラジルの日系人人口推計』1957年)、「日系人住所録」(城戸三郎『全米日系人住所録』1959年、Portland Chapter JACL『ポートランド地方日系人住所録』1967年)、「日系人会」(シアトル日系人会『日系人創立十周年記念帳』1960年)などと、海外の日系社会では広く使われるようになる。

日本においてはどうか。1957年から「海外日系人大会」が開かれるようになり、以後「日系人団体」「日系人社会」というような表現も一般的になる。しかしその一方で、外務省から発行された『海外在留邦人数調査統計』では、「日本国籍を有しない日本人」(1968年)から「その範囲を画し得ない」「片親のみが日本人の子を日系人とみるかという問題が生じる」(1986年)まで、その定義は揺れている。

日系人という言葉が一般的に使われるようになっても、その意味は一定しない。そしてそれぞれにどのような意味が込められているのか。その手がかりの一つは外国語訳である。例えば、上記『ポートランド地方日系人住所録』(1967年)の英語訳はGreater Portland Area Japanese Directoryである。日系人の訳はJapaneseと読み取れる。また「海外日系人大会」の海外日系人の英語訳は、Japanese abroad(1966年)から、Nikkei and Japanese Abroad(正確な時代は不明)へと変化している。この場合のNikkeiが何を意味するのか、これもはっきりとしない。

確かに一世が中心だった時代から二世や三世への時代へと移行すれば、Japanese の意味合いは依って立つ位置により変わらざるを得ないだろう。国籍のみを表すものではなくなり、一世にとっては当たり前のことが世代により変わり、Japaneseに込められる意味も異なり得るとも考えられる。

上記外務省出版物に記載されている「日系人定義」では、1986年の時点で「片親のみが日本人の子を日系人とみるかという問題が生じる」として、混血が日系人かどうかの判断を下すことなく保留している。混血であるかどうかに関わらず、「日本人の血統をひく者」と定義が変わるのは2002年(『海外在留邦人調査統計』)、21世紀に入ってからである。

見方を換えれば、この定義の変容に深い関わりをもつのは混血の進展である。今でこそカナダやアメリカ、そしてブラジルでは、日系人の混血人口はその過半となり、混血の日系人は当たり前の存在となった。日本においても陸上競技や柔道などスポーツの世界で、日本代表となる人が多数輩出していることは周知の事実だ。今日「混血の人たちは日系人か」という疑問を抱く人はごく少数である。しかしながら、2015年のミス・ワールド日本代表に宮本エリアナが選ばれた際には、日本人か否かという議論が起こったように、未だに混血を日本人や日系人として受け入れられないと考える人がいることも事実だ。

もう一つの大事な視点は、「日系人」という定義はいわば日本人の側から見た定義で、今となっては、日系人の側で必ずしも関心をもたれている定義ではないことである。つまり、日系人だと言われても、興味を示さない、あるいは拒否する人がいることだ。これは良し悪しの問題ではなく、ましてや押し付けることもできない。ブラジルの著名なタレント、サブリーナ・サトウはジャッパ・ド・サンバ(サンバのジャップ)とも呼ばれ、日本人の血統を引き継いでいる。日本の定義では紛れもない日系人だ。本人に日系人という意識があるかどうかは分からない。しかしある日系女性大学教授にとっては、「サブリーナは決して日系ではない」という。なぜなら「日系コミュニティに参加していないから」というのがその理由だ。この意味で、2000年および2001年に日系人自身が主催した会議(Nikkei 2000, COPANI 2001)で議論されたnikkeiという言葉の定義は、たいへん意義深い。日系人定義とは異なり、血統に関わらず個人の意識を重視している点である。(詳しくは拙稿「海外移住と移民・邦人・日系人」『東アジアのディアスポラ』陳天爾、小林知子編、2011年、参照)

そもそも「定義」とは物事の理解を助けるための道具のようなもので、正しい定義と誤った定義があるわけではない。その定義を考えた当事者の関心と、それが作られた時代を反映している。時の経過そして環境の変化とともに、定義がいわば使い尽くされ、ほとんど意味を持たないようになる時代がくるのだと思われる。日系人定義は古びてきて、nikkei定義が新しく台頭してきたと言えそうである。現在、日系人と呼ばれる人たちは、少なく見積もっても300万人いると推測されている。しかし間違いなくその半数以上、あるいは三分の二、おそらくもっと多くの人々が、日系人という意識を持たない人たちであろう。その300万人という数字の意味は、まったく不透明である。そしてすでに正確な数が分からなくなっている。その一方で、少数派ではあるがnikkeiという言葉に強い共感を示し、意味を見い出している人たちが存在する。押しつけられたものではなく、自覚的な自己認識(self-identity)である。彼らの存在感そして活動は明確で、広がる可能性がある。何となく日系人と思っている人たちは、遠からず減少し消えていくに違いない。nikkeiという意識やアイデンティティをもつ人たちはどうか。そこには未来がある、と感じるのは私だけだろうか。

 

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移民研究との出会い

移民研究との出会いには本当に感謝している。そのきっかけは二つあったと思う。一つは大学でのすばらしい講義、そしてブラジルでの生活体験である。

1978年、上智大学ポルトガル語学科に入学すると、ポルトガル語やブラジルについて学んだほか、その頃上智にいらした加藤周一、金田一春彦、鶴見和子という先生方の講義に接する機会を得た。日本文化の特徴や日本語の面白さ、そして比較研究の奥深さに、目を開かれる貴重な体験だった。

とくに鶴見和子先生には、大教室での講義のほかゼミでも薫陶を受け、いろいろなことを学ばせていただいた。大教室で講義をなさる際も、黙って途中退席しようとする女子学生を容赦なく注意された。試験では自分で書き留めたノートならば持ち込み可とし、コピーや他人からの借用物は不可とされた。

鶴見ゼミには社会人や他大学学生も自由に参加して、たいへん活気があった。自宅にゼミ生をお招き下さり、自ら台所に立ちご尊父のお話をされることもあった。比較社会学の講義では、内発的発展論とともに先生の研究テーマであった移民研究の話が、「チンジマリ考」をはじめとしてたいへん興味深く、強く印象に残っている。移民を世界のなかの日本人、世界市民として捉えた話が新鮮だった。

人の話をよく聞いて議論し、自分の考えをまとめ、答えを見出していく学問の面白さと、比較することの意味を体得していった。専門にする言語をマスターして、その言語を使って比較する仕事ができる人物となるよう励まされた。

のちに自分が大学で教える立場になった時、試験では自分の手書きノートならば持ち込み可という鶴見方式を導入し、先生を偲んだ。鶴見先生に出会わなければ、今の自分はいなかったと思う。

なぜブラジルか、とよく聞かれる。ブラジルという国に関心をもち、ポルトガル語が学べる大学に入ったのは、もう35年以上も前の話である。入学したその年は、ちょうどブラジルへの日本人移住70周年記念にあたり、前年には日本でも様々なイベントが開かれていた。ブラジル紹介のコンサートや映画上映会もあった。ブラジルが「21世紀の大国」と謳われていた時代である。

新潟県生まれの私は、冬になるとどんよりとした曇り空が多いこの地方特有の気候に、その頃はとくに魅力を感じていなかった。ともすると暗い陰鬱なイメージと重なって見え、閉ざされた寂しい町にしか映らなかったからである。それゆえかもしれない。太陽がいっぱいで底抜けに明るく、陽気でいろんな人たちが集まっているブラジルのイメージは、その対極のように思われた。それがブラジルに惹かれた理由、少なくともその一つだろう。

もとはと言えば、そんな単純な動機だった。そして、大学2年を終えると、学科で留学生制度が始まり、そのチャンスを得て学部留学生としてブラジルへ渡った。

1980年のことである。その年、初めての外国であるブラジル、リオのガレオン空港に到着した。そこは全くの別世界で、独特な街の匂いがして、見る人会う人が明るく饒舌で気さくだった。ポルトガル語がまるで音楽のように聞こえた。「メニノ・ド・ヒーオ」というその当時流行っていた歌も(もちろんそれは後になって分かったのだが)空港に流れていて、何ともエキゾチックで魅惑的で、「外国」が五感から入ってきた。そこから始まり、ブラジルへ取り付かれるようにして、ジュイス・デ・フォーラ、クリチーバ、サルバドール、サンパウロと4つの街で生活し、いつしかブラキチとなり10年を越える時間が過ぎていった。

そんな町の一つ、パラナ州の州都クリチーバ。この町で私は一番長い「移民」生活を送った。学部留学生として始まり、一度日本に戻って卒業したあと、サルバドール日本人補習校に勤め、パラナ連邦大学大学院に入学。そしてパラナ州政府文化局や日本国領事館での勤務を経て、永住権も申請した。

あと一息というところまで辿っていた。しかし結局、申請結果を待つことなく帰国してしまった。アイデンティティを考えるようになったからである。「このままでは、もう日本人には戻れないかもしれない。ずいぶん感覚がブラジル人化している・・・」。たまに日本から訪ねて来る日本人と会うと、そんな気持ちが高じていた。

ブラジルはもちろん好きだ。しかし日本から離れたいわけではない。日本にもブラジルにも惹かれる。両方に関わりたい。だからとにかく一度日本に帰ることにした。1993年のことである。そしてちょうどその頃は、いわゆる「デカセギ」現象の最盛期にあたっていた。ブラジル日系社会で大きな変革が起こっていた時期である。その転換点を目の当たりにした。

ブラジルは移民の国である。しかし、アメリカやカナダとは明らかに異なる移民大国である。アングロサクソンとラテンの違い。それだけではなさそうだ。混沌とした多様性とゆるやかな統一性がある。黒人文化の色濃いサルバドールとヨーロッパ移民が多いクリチーバでは、人も社会も異なる国家のように、明らかな違いがある。

小田実の『何でもみてやろう』を読んで、学部留学生時代にバスで2ヵ月かけて、ブラジル全土を旅した。正確には1ヵ月旅行を二回行い、北半分と南半分を見て周った。その体験が、ブラジルという国の多様性を実感する基礎となった。

北に行けば海岸線は美しいものの貧しさと隣り合わせで、古着や食べ残し、絞めた鶏を頭陀袋に入れてバスに乗り込んでくる乗客がいた。最長47時間の長距離バスに揺られて、ぬかるみにはまったバスを乗客みんなで押した。南に行けば人はずっと背が高く色白で、便器の位置も高く用を足すにも窮する場所があった。ブラジルとは「ベルブリンジア(Belbulíndia、ベルギーとブルガリア、インドを合わせたような国)」であるとのちに学んだ。

さらには、大学のクラスメートや知人の自宅に招かれると、それぞれ移民としての文化を維持しエスニックコミュニティが存在することに、たいへん感銘をうけた。

友人のイタリア系ブラジル人の家庭では、「一人では寂しいだろう」と週末やクリスマスによく呼ばれた。家族のようにして過ごし、パスタの準備を手伝いながらカンツォーネを一緒に歌った。

ドイツ系ブラジル人の家庭では、ゲーテの写真が掲げてあり、家族全員が異なる楽器を演奏してクラシック音楽を嗜み、ファミリーコンサートが開かれた。お前も何か楽器を弾くか、それとも日本の歌を歌えるか、と言われて困った。

ウクライナやポーランド系の友人には、民族舞踊のセミプロがいて、リハーサル見学に訪ねると、その熱心さや華麗さに見とれた。「ウクライナ系ブラジル人であることを誇りに思う」と、その一人は笑顔で語った。

それに引き換え、日系人の踊りのグループでは、老婆や中年女性しかおらず、若者は見当たらなかった。不思議な対照だった。この現状が変化し始めたきっかけが、のちのデカセギ現象である。

さらにことの始まりの一つは、パラナ連邦大学大学院歴史科の面接試験である。「あなたは日本人なのだから、日本人移民のことを研究したらどうか?」と質問を受けた。同歴史科はブラジルにおける移民研究のメッカであり、クリチーバはその多様なエスニックから「エスニック・ラボラトリー」とも呼ばれている。先生方はほとんどすべて移民の子弟、つまり二世ないしは三世である。研究テーマには別のことを考えていたが、結局この質問は核心を突いていた、としかいいようがない。サンパウロ大学の斉藤広志先生からも移民研究をするならパラナ州がいいと勧められた。最終的なテーマとして、「南パラナにおける日本人移民とその子孫の文化変容」を選び、今日に至るまでその延長線上の研究を続けている。

多くの偶然が重なり、この道を歩ませていただいた。鶴見先生はじめ先生方には本当に感謝している。そして今では、もっともっと続けたいと思っている。時間が足りない。自分の分身がほしい。日本を少し離れようとして、ブラジルで出会ったのは、意識したことのない「日本」だった。移民研究に出会えてよかった、と今では心からそう思う。私たち日本人が、日系人から日本について学ぶことは非常に多い。

日系人について語るとき、私はいつも「Okage sama de(おかげさまで)」の話をする。ハワイ日本文化センターの日系人の方々が展示テーマの一つとして選び、英語で“I am what I am because of you.”と訳している。すばらしい訳だ。ブラジルでも、同じように先祖から受け継いだ遺産として「感謝のきもち」を大切にしている二世がいる。異文化の中で暮らし、日本人移民の子孫として日本文化を意識した時、日系人としての文化遺産や拠り所の一つが、この「おかげさまで」になっている。日本の私たちがともすれば忘れつつある、しかし大事にして次世代に繋いでいきたい貴重な遺産である。もっともっと移民研究に関わる若者が増えてほしい。そして、こうした人生を歩ませてくれた両親にも感謝したい。

 

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