中曽根 牧子

(なかそね・まきこ)

山梨県出身。東京外国語大学卒。元日本経済新聞本社・ロス支局記者。リトル東京ロータリークラブ創設会長。ラカニャダ在住。ジャーナリスト。

(2019年3月 更新)

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草の根「9066ミーティング」

米大学フットボールの祭典「ローズボール」で有名なロサンゼルス郊外パサデナ市に住むアキミ・チングさん(76)宅で先ごろ、草の根「9066ミーティング」が開かれた。チンさんは、中国系3世と結婚した日系3世だ。内科医の頃は仕事と子育てに専念していたので、「活動家」でも何でもなかった。ところが近年、「第2次世界大戦中の日系人強制収容の歴史を後世に伝えなくてはならない」という切迫した気持ちを持つようになっていた。そこで開いたのが「9066ミーティング」だ。

「もう時間がない」という緊急性を感じたのには理由がある。この2,3年の間に、パサデナ・コミュニティー・カレッジで長年洋裁を教えてもらった2世のメアリー・ウチヤマさん(享年92歳)や12歳年上の実兄カズオさんが相次いで他界して、「第2次世界大戦中の日系人強制収容を体験した世代が次々とこの世を去っていくことを実感した」からだ。チングさんの両親は、強制収容所時代のことを一切語らなかったし、自分は強制収容所で生まれたから、当時の様子を覚えていない。だから、体験者とか当時を研究している人たちに、強制収容時代の状況を当時を知らない人たちのために伝承してもらいたいのだ。

「イスラム教徒やユダヤ教徒、また、移民の人たちのためににも、米国史の汚点である日系人強制収容のような誤りを二度と繰り返してはならない」とチングさんは断言する。これまで、日系人の強制収容に関する教育的なイベントやプログラムは、JANMや大学など大きな団体や組織が主導してきた。チングさんは、自分の家族や友人に気軽に集まってもらい、身近な場所で学んでもらいたいと願った。集まったのは、チングさんのいとこ、洋裁とスペイン語のクラスメートなど20人ほど。日系人だけでなく、白人、ヒスパニック、英国人などチングさんの交友の広さを表している。

チングさんは1943年、アリゾナ州のヒラ・リバー強制収容所で生まれた。戦後、家族で加州北部にあるアカンポという小さな町へ移った。父親のいとこが梨園を営んでいて、そこで働く労働者のまとめ役を頼まれたからだ。その後、ロサンゼルスから北へ車で一時間半ほどの高級住宅地サンタバーバラに隣接するカーピンテリアへ引っ越し、チングさんは子女教育で有名な「モンテシト女学院(Montecito School for Girls、現Casa Dorinda)」で学んだ。名門カリフォルニア大学バークレイ校卒業後、同アーバイン校メディカルスクールの第一期生。100名の入学生のうち、女子は10名。その一人に選ばれた。同校卒業後は、内科医として退職するまでカイザー・パーマネンテに勤めた。

チングさんの両親、カズオ・オキノさんとヒデコさんは戦前、サンタモニカでも人気のフルーツ・スタンドを経営しとても繁盛していた。1920-30年代にハリウッドで名声を博したピーター・ロアも得意客の一人だった。「『株価が大暴落して大恐慌が始まった時、母はロアの小切手をまだ手元に持ってた』って母が言ってたわ。後の祭りよね」とチングさんは悲哀のある微笑みを浮かべた。

ヒラ・リバーへ強制収容された時、チングさんの家族はすべてを失ったが、七転び八起きの精神を持つ両親は戦後、加州へ戻り、また一から生活の基盤を作り始めた。「父が学校の用務員になったから、妹と私はモンテシト女学院へ入学できたのよ。」

チングさんが数日間かけて準備してくれた夕食を楽しんだ後、「9066ミーティング」が始まった。「9066ミーティング」の名前は勿論、日系人の強制収容を可能にしたルーズベルト大統領の「大統領命令9066」から名付けた。この日は、JANMでファシリテーターとしてボランティアをしている友人のマービン・イノウエ氏が講演者。同氏がまず、第二次世界大戦が勃発した直後の1942年、米西海岸に住んでいた日本からの移民1世と米国籍の2世約12万人が、マンザナやクリスタル・シティーなど人里離れた砂漠地に建設された施設10か所へ強制的に収容されたことを説明。クリスタル・シティー強制収容所には、イノウエ氏の両親と祖父母も収容されていた。同氏がそもそも、日系人強制収容の歴史を研究しようと思い立った理由は、チングさんと同様、イノウエ氏の両親も祖父母もそれについて何も話さなかったからだ。

イノウエ氏は、米国内での日系人強制収容の歴史を調べる過程で、第二次世界大戦中に南米に住んでいた日系人も米国へ連行され強制収容されたことを知った。オンラインのデンショー百科辞典(Densho Encyclopedia)によると、当時、約1,800名の日系ペルー人が米国へ強制収容された。「その日系ペルー人たちは戦後、ペルーが受け入れを拒否したため母国へ帰還できず、受け入れを承諾した日本へ移り住んだんだ」とイノウエ氏が説明すると、あちこちで驚きのため息が聞こえた。

イノウエ氏の解説が終わると、チングさんの提案で、参加者ひとりひとりが自己紹介と参加理由を述べた。米中西部出身という20代の女性は、日系人の強制収容について学校では全く勉強しなかったという。一方、英国出身の年配女性は、「70年代にイギリスでは既に、大学で勉強した」と語る。「UCLAでもその頃からやっと、日系人の強制収容について勉強するようになったわ」とイノウエ氏の妻、ドナ・ミトマさんが同調。しかし、参加者のほとんどは、ペルーはもとより、米国の日系人強制収容について学生時代に学ばなかったという。4世の男性も、「家族から強制収容についてほとんど聞いたことがない」と話す。

出席者の中だたった一人、強制収容を体験したのが、チングさんの従兄、ジョージ・スギモトさん(93歳)だ。チングさんの従兄だ。「アキミが収容所で生まれた時、僕は17歳だったよ」と優しく笑う。スギモトさんも、強制収容について余り深く話したくないようだ。「収容の大統領命令が出て余り時間がなかったなぁ。そそくさと荷造りして(北カリフォルニア)サン・ワキン・バレーの自宅を出て、ヒラ強制収容所へ向かった」とだけ話す。辛酸をなめたとか、米政府に対する怒りというような否定的な感情は見えない。根っから楽天的で、同時に人一倍の働き者だから、現在も現役だ。ほとんど毎日、通勤している。航空業界で財を成し、ロサンゼルスの日系社会では有名な慈善家だ。

知人や身近な人がある史実に関わっていると、その歴史的な事件が一層緊迫感を持って迫ってくるし、その史実の重要性を実感を持って会得できる。草の根「9066ミーティング」は、そんな機会を与えてくれるようだ。大きな組織が大会場で著名な講演者を迎え、大衆を相手に開く集会も大切だ。一方、家の近くで開かれ、気軽に参加できる小さな会合も同様に必要だ。

チングさんが、志を同じくする人がこの「9066ミーティング」を続けてくれることを願っていた矢先、イノウエさん夫妻が手を挙げた。幼少の頃から「第二の母」と思っている黒人のバーバラ・ウィリアズさん(93歳)が、「私の体験を今、話しておきたい」と言ってきたからだ。ウィリアムズさんは、キンダーガーテン時代からイノウエさんの親友であるマーカスさんの母。「黒人の目から見た強制収容」と題して、ポットラックランチを挟んで「9066ミーティング」を開くことにした。JETプログラムで2年半前から日本で英語補助教員をしている双子の息子、リキオとマコトが休暇でロスへ帰ってくる週末を選び、友人や近所の人たち35名ほどが集まった。その中には、半年前にロサンゼルスへ着任したばかりの在ロサンゼルス日本国総領事館の武藤顕総領事、三佐子夫人とお嬢さまの紗穂理さんの姿もあった。

ウィリアムズさんは、ロサンゼルスのダウンタウン西側に位置するデイトン・ハイツ、別名J-フラッツで生まれた。ミシシッピー州出身で黒人だが奴隷でなかった曾祖父とボストン生まれの白人の曾祖母がロサンゼルスへ引っ越してきたので、4代目のカリフォルニアンだ。「J-フラッツでは、右隣も左隣りも日系人。カキバさんとホシザカさんの間に自宅があった」という。「人種なんて関係なく、普通の近所付き合いをしていたわ。美味しい料理を作ったらお隣さんにお裾分けしたり、してもらったり。うちでも池に鯉を飼っていたわ。隣の家に遊びに行ったり、来てもらったり。だから母は私に『あなたも日本語学校へ通ったら』と言ったくらいよ」と話す。

「近所の人が皆、サンタ・アニータ集合所へ連れて行かれた時のことは、よく覚えてるわ。母はその朝、何時間もかけてビスケットや卵焼きやコーヒーを『最後の朝食に』と言って作ったのよ。それからも後も、チキン・パイやアップルパイを作って、サンタ・アニータまで持っていって差し入れしてたわ」と言う。

サンタ・アニータは元々競馬場で、日系人たちは、最終目的地であるワイオミング州ハートマウンテン強制収容所へ向かうまで、馬小屋で寝起きしなければならなかった。ウィリアムズさんがそのことを思い出し、感極まって、言葉を失っていると、中年の小柄な日系人女性が手を挙げた。「私の祖父母に代わって、ウィリアムズさんのご両親に心から『ありがとう!』とお礼を申し上げたいです。私はウィリアムズさんの隣に住んでいた『カキバ』の孫です。」ウィリアムズさんだけでなく、参加者全員が驚いて目を丸くした。「あなたのご両親は、私の祖父母が大切にしていた着物や三味線や日本人形などが入ったトランクを第二次世界大戦中ずっと大事に保管しておいてくれました」というジョアン・カキバ・アサオさんの説明に、目頭を押さえる参加者が多い。日系人を裏切らず、約束を守ってくれた白人らの美談を書物やJANMの展示で見たり聞いたことがある人は多い。実際に助けてもらった人と助けた人の親族から、その話を目の前で直に聞ける機会はそうそうない。そんな機会を与えてくれるのも、草の根「9066ミーティング」の利点だ。

ウィリアムズさんのミニ講演が終わるや否や、武藤総領事夫妻がウィリアムズさんのところへ駆け寄った。「素晴らしいお話をありがとう。」総領事は、日本国外務省発行の生け花のカレンダーをウィリアムズさんに贈りながら礼を言った。三佐子夫人も米日系人の歴史に大変興味を持ち丁度、「サウスランド(”Southland”)」(Nina Revoyr著)を読んでいるところで、「家族で、本当に良いお話を伺えました」と感想を述べていた。

ニューヨークを中心にCOVID-19感染が急増する中で、不安やヒステリアが中国系アメリカ人のみならず日系人を含むアジア系米国人やアジアからの移民に対し、偏見や差別がおこらないためにも、第二次世界大戦中に日系人強制収容の苦い経験は積極的に語り継がれなければならない。

 

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そこに居るだけで「日系」代表: カーピンテリア市長で三世のウェイド・ノムラさん

リトル東京にある日系団体のトップとして先頭を切って日系人の地位向上に努める三世がいる中で、日系コミュニティから離れて米社会に根差した生活をしながら、「そこに居るだけで『日系』を代表している」三世も沢山いる。いや、そういう日系人の方が大多数だろう。サンタバーバラ生まれで三世のウェイド・ノムラ氏(65歳)は、その代表的存在だ。

ロスから車で北へ約一時間半ほど、サンタバーバラのすぐ南に位置するカーピンテリア市市長に、昨年12月就任した。30年近く、日系アメリカ人市民連盟(JACL)のサンタバーバラ支部長をしているが、この15年は、日系社会を越えた分野での活躍が注目されている。

ノムラ氏は、カリフォルニア州立工科大学サンルイス・オビスポ校卒業直後に、造園会社「ノムラ・ヤマサキ・ランドスケイプ」を設立し、社長に就任。二年前に乳癌で他界した同じく日系三世の故ロクサン・シノダ・ノムラさん(享年64歳)と学生結婚し、誰もが認めるオシドリ夫婦だった。市議へ立候補するのも、白人が大多数を占める国際奉仕団体ロータリークラブを2002年に同市へ新設するのも、夫人の励ましと支援があったからだ。

昨年12月、ノムラ氏は、人口1万3000人余り(2010年の国勢調査)の同市で高得票数を得て再選された。任期2年の市長に就任した直後、市の公文書をすべて英語とスペイン語両語で表記することにした。白人ばかりのサンタバーバラで終戦後、「ひどい差別にあった」経験から、市長としてマイノリティーへの配慮を欠かさない。「ヒスパニックは市の人口の51パーセント。マイノリティーじゃないけれど、市政に彼らの声が反映されていない」と思う。自らの造園会社でも多くのヒスパニック労働者を雇っているし、スペイン語は同氏にとって日本語より得意な第二外国語だ。

6月下旬の市議会。「市議会史上最高」といわれる300人余りの市民が押し寄せた。農業が主な産業である同市内の農地で、違法的にマリワナが生産されるのではないかと危機感を持つ農民や一般市民が仕事帰りに結集した。70人ほどの市民が制限時間一人3分を目いっぱい使って違法栽培反対と市の対応不足を訴えた。4時間近く続いた市民の訴えの中には、市長批判とも受け取れる場面が多々あった。

「ウェイドの凄いところは、面と向かって批判されても冷静さを保てるところだ」とその指導力を高く評価するのは、同市でコースタル・ビュー・ニュース紙を発行するゲリー・ドビンズ氏。この記者が同市内にあるノムラ氏が毎日通うというコーヒーショップでインタビューしている最中、ノムラ氏の姿を見つけて笑顔で握手を求めてきた。前夜の市議会での市長のかじ取りの上手さに感動したという。

ノムラ氏が所属するカーピンテリア・モーニング・ロータリークラブのキム・フライ会長(52歳)もノムラ氏の人望の厚さを認める一人だ。「日本人の文化じゃないかしら。ウェイドはどんな人に対しても尊敬の念を忘れない。良い意味で外交的よ」という。組織のトップに立つときは、トップダウンよりボトムアップを好む。「Leading without Authority(権威を振り回さない指導)」がノムラ氏のモットーだ。

今は大変温厚で、物静かな語り口のノムラ氏だが、十代の頃は手に負えない腕白だった。「顔の形や体形など日系という外見だけで差別され、むしゃくしゃしていた。僕の意見を聞かないやつはいつも、ぶん殴っていた」と告白する。転機は、16歳の時。柔道のオリンピック選手だった叔父から、柔道と合気道を習い始め、競技以外の場で腕力を使ってはいけないこと、鍛錬の重要さを学んだ。

ノムラ氏は同クラブの創設会員で、8年前にはサンタバーバラ地区のガバナーも務めた。ロータリーと言えば元来、保守的な白人ビジネスマンの奉仕団体だった。女性やマイノリティー会員を歓迎するようになったのは、ほんの30年前からだ。

「今も、ロータリーの会合へ行くと、日系人はウェイドだけよ」と新婚のデビー・ノムラさん(55歳)がいう。澄んだ青い瞳のデビーさんはオーストラリア出身だが、出会いは昨年6月カナダのトロントで開かれたロータリー国際大会。ノムラ氏は、ガバナーの任期を終えてからも中南米各地で井戸建設など地元社会が必要とする奉仕事業を次々と実行し、各種の功労賞を受賞している。全世界で120万にいる会員の中でも注目を浴び、シカゴに本部がある国際ロータリーからよくお呼びがかかる。「白人ばかりの会合の席で、ウェイドはそこに居るだけで、日系人を代表してる」とデビーさんが付け加える。

この25年来ノムラ氏を知るという同市在住のレス・エスポジト氏は、「ウェイドを通して、第二次世界大戦中の日系人強制収容のことを学んだり、どうして、ウェイドがマイノリティーの権利尊重や法の公正さを重視するかを学んだ」という。

マイノリティーへの配慮とサポートはノムラ氏の基本姿勢でもある。昨年12月の市議会選挙へ、行きつけの中国料理店を経営するロイ・リー氏の立候補を推薦した。台湾から5歳の時、アメリカへ移住した。「ウェイドは、僕の師匠みたいな存在だ」とリー氏は話す。若干37歳で初めての立候補だったが、選挙は楽勝だった。「選挙の仕方から服装まで、何から何までウェイドに教えてもらった」という。

ロータリーに入会してからこの17年間、ノムラ氏はローズパレードのロータリー・フロート作成にも関わっている。車で片道一時間半の遠距離も苦にせず、パサディナで開かれる毎月一回の会合を欠かさない。2020年元旦には、ロータリー・フロートの委員長としてローズパレードに参加する。日系人として初めての委員長だ。

平和希求を最重要課題の一つとして掲げる国際ロータリーはほぼ毎年、世界各地で「平和会議」を開催している。貧困対策、環境保護、紛争解決、核兵器廃絶など平和維持に努めている専門家をスピーカーに招聘し、平和を維持するために私達個人個人に何ができるかを考えてもらう場だ。ノムラ氏はこの平和会議のレギュラーだ。第二次世界大戦中、アリゾナ州のポストン強制収容所に収容された両親の苦い経験を例に、公民権の保守と法の公正さを説くためだ。そのためには、米国内だけでなく、世界各地へ喜んで飛んでいく。日々の会社運営は、頼れるパートナーに任している。

ノムラ氏は全米日系人博物館(JANM)が20年近く前に開催した「More than a Game: Sports in the Japanese American Communities(モア・ザン・ゲーム−日系アメリカ人コミュニティにおけるスポーツ)」展では、日系人を代表する自転車競技者として紹介された。自転車を自分で考案、作成し、競技に出ていた。全米チャンピオンのタイトルを5回も獲得している。だからJANMには特別な思いがあり、支援している。

日系人は第二次世界大戦後、根強い偏見などですぐにカリフォルニアへ戻れなかった。戦後しばらくして、昔住んでいた地域に戻った日系人も多かったが、今では日系人社会から離れた地域に移り住んで、米国人として多人種社会で胸を張って生活している三世や四世も多い。その中で、両親や祖父母が経験した第二次世界大戦中の苦い強制収容体験が空洞化したり、忘れ去られないようにと地道に伝承活動をしている。

 

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日本が誇る魚の食文化 — 鮮度保存の裏技「活〆」普及に駆ける新一世

新一世の横田清一さん(43)は、鮮度と味が断然高い「活〆(いけじめ)」という日本古来の魚の処理法でロサンゼルスの高級レストラン業界に静かなブームを引き起こしている。身寄りもない米国へ単身移住。地道に、かつ、誠実に努力した苦労が、確実に成果を上げている。

ビバリーヒルズにある名シェフ、ウルフギャング・パックの「スパゴ」、ソーテル・ジャパンタウンの代表格「あさねぼう」、サンタモニカの有名イタリアンレストラン「ジオージオ・バルディ」など、超高級レストランが得意客だ。毎週水曜日朝、出身の富山県から直送される「ぶり」を売り物にしている。富山空港から羽田経由でロサンゼルス空港まで、漁獲から約50時間。「日本からの直送としては、最短時間」と自負している。

横田さんは実は、富山県高岡市の魚卸業「横清(よこせ)」の長男坊だ。創業150年余りの老舗の御曹司として、小さいときから帝王教育を受けた。フロリダ州立中央フロリダ大学を中退後、築地魚市場で3年修行した後、8年間、専務として実家で働いた。その間、日本の魚卸業界の将来について先行き不安を強く抱いた。「人口がどんどん減って、小さな、限定されたパイの取り合いになるのは一目瞭然」と考え、両親に海外進出を提案したが、猛反対を受ける。悶々と2年間を過ごし、決心した。「アメリカへ行くぞ」。

2010年6月、富山空港にスーツケース一個を持って現れた横田さんを見送る人の姿は、一人もない。その頃は既に、両親と口も利かず、勘当状態だった。社員からも白けた目で見られていた。渡米後は、その悔しさがバネになった。ニューヨーク、シアトル、サンディエゴ、一人で拠点を探して回った。そして、数か月後、ロスにたどり着き、「ここだ」と思った。

言葉の壁、習慣の違いで最初は、暗中模索の日々だった。移民局へ行って、「社名登録はどこですればいいですか」と聞くなど、今では笑い話だが、当時は藁にも縋る思いで援助してくれそうなところなら、どこへでも出向いた。そして、2011年、資本金20,000ドルで、念願の「ヨコセ・ワールド・エクスポーター社」を設立。翌年、一時帰国して、実弟でその頃、実家の稼業を継いでいた健司さんに「とにかく、最高の魚を送ってくれ」と懇願。まだ、父親には内緒だ。「最初の5-6年は、休みなしで死ぬ気で働く」と決意。レストラン評価サイトの「イェルプ(Yelp)」でドル印が多く付いている高級な寿司店や日本食店を中心に、富山県直送の活〆鮮魚のサンプルを持って、一日14時間、30件のお店を巡った。見も知らないお店の戸を叩いて、「使ってみてください。お願いします」と一件一件、丁寧に頼み歩いた。活〆処理をすることで鮮度が抜群に上がることを熱弁した。「最初は、半分売れれば御の字。三分の一しか売れない日もありました」と横田さんは告白する。苦労が実り、業績は順調に拡大。2016年には、中古の保冷車を購入。社員も一人雇用した。

その社員はニューポートビーチ出身の日系人で、サンタバーバラから地元の港に来る漁師の中から信頼できる人を探してきてくれた。転機到来だ。富山産のぶりに加え、サンタバーバラ産の銀だら、きんき、うに、アワビ、牡丹エビなども販売できるようになった。ニューポートビーチの港で鮮魚を受け取り、その場で、活〆の処理をする。

顧客の一人、スパゴの料理長でやはり新一世の矢作哲郎さん(41)は、「横田さんの魚は、本当に新鮮で、他と比べ物にならない。価格は高いけど、横田さんを応援したいから、できるだけメニューに加えるようにしている」と話す。横田さんの活〆は、魚の首部分を半分ほど切って、血を抜く方法。魚の背骨に細い針を通して神経を破壊する神経〆も得意だ。米では、氷で魚を死なせるだけだから血抜きをしない。だから、腐りやすい。活〆をしない場合、漁獲から2日以内に調理することが必要だが、活〆の場合は、5日間は鮮度が保てる。

ロスでの基盤が軌道に乗ったことを追い風に、他州への販路拡大も始めた。年初、海から遠いミネソタ州ミネアポリスへ出張した。創業当初と同じように、イェルプのドル印で高級レストラン10件を探し、サンタバーバラ産の活〆魚をサンプルに行商に出た。来月には、ユタ州へも足を延ばす計画だ。どこから聞きつけたのか、アリゾナ州フェニックスの高級レストラン「ビンクリーズ」から3月上旬、突然、注文の電話が入った。「築地と実家で培った活〆の技術は、世界で通用する」。そう信じて渡米した。それを実証しつつある。2018年度の年商は、300,000ドルに達した。2年前の二倍だ。

両親とは、ロスの経営が黒字に転じた2013年ごろに和解した。今では、実家「横清」のホームページでも横田さんの米での活躍が誇らかに紹介されている。今年秋、7年ぶりに帰国する。「故郷に錦が飾れる」と思う。

ロスで会社を設立した時に、心に誓った。「これまで恨んできた人たちの言動をすべて水に流し、次に会う時は、笑顔で会おう。成功したら、社員が心から喜んでくれるような社長になろう」。横田さんは、この地に骨をうずめる覚悟だ。「第二の故郷ロスを拠点に、日本で江戸時代から受け継がれている活〆を広めたい。全米だけでなく、世界に」。

 

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パサディナの日本庭園を守る、「二世半」

知る人ぞ知る「ストーリアー・スターンズ日本庭園」。パサディナのハンティントン病院の近くにあるこの庭園は、第二次世界大戦前に南カリフォルニアの富豪たちが自宅の広大な敷地内に造ったものの中で、唯一残存する日本庭園とされている。この庭園を地道に守る「二世半」が、ドーン・イシマル・フレージャーさん(82歳)。信頼置けるボランティアであるだけでなく、同庭園を資金面でも支える一人だ。

毎週木曜日の朝8時。スウェットパンツ姿のフレージャーさんは、パサディナの元中心街(オールドタウン)にある自宅コンドミニアムから車で5分ほどの同庭園へ通うのを楽しみにしている。「ここへ来ると、魂が解きほぐされる感じがするのよ。この静寂のひと時が大好きなの」と語る。お昼までの4時間、庭園内の木々や植物のお世話をするのが、ボランティアとしての仕事だ。

フレージャーさんが初めてこの庭園を知ったのは数年前。婦人会の友人たちと一緒に庭園ツアーと昼食会に参加。その美しさに魅了され、すぐに会員登録してボランティア活動を始めた。植物管理担当のチューチョ・ロドリゲスさんから丁寧な指導を受けた。最初は、ツツジの枯葉集めだけ。次第に認められ、次は椿の刈り込み。今では、アジサイの手入れを任されるようになった。「チューチョは、植物や木々の知識がとっても深いのよ。日本語がうまく話せない私には良くわからないけれど、チューチョの日本語は、随分と高尚よ」と笑う。コロンビア生まれロドリゲス氏は、日本へ留学経験があり、大学レベルの流暢な日本語を話す。

ストーリアー・スターンズ日本庭園は戦前、資本家のチャールズ・ストーリアー・スターンズが、一世の庭師フジイ・キンズチ氏に造園を発注。1935年から1942年に強制収容されるまでの約7年間にデザインから庭造りまで一手に手掛けた。戦後長い間、手入れを怠っていた同庭園を、現所有者のジム・ハダド夫妻が、カリフォルニア州立ポリテクニック大学ポモナ校の名誉教授故上杉武夫氏に修復工事を依頼。2013年に一般公開され、非営利団体の「ストーリアー・スターンズ日本庭園」が運営管理している。

フレージャーさんの父親は、福岡県出身で一世のイシマル・クラヒコ氏、母親はシアトル出身で二世のウエダ・チズコさん。ルーズベルト大統領が署名した大統領命令9066が発令され強制収容されるまで、現在の「ソーテル・ジャパンタウン」近くに住んでいた。誰かから「北カリフォルニアへ行けば、強制収容されずに済む」と聞き、一家でフレズノへ引っ越した。残念なことに、当地へ着くや、それが単なる噂だったと判明。最初は、アーカンソー州のジェローム強制収容所、次に同ローワー強制収容所へ移され、終戦まで強制収容所生活を過ごした。

戦後、南カリフォルニアのオックスナード近郊の小さな町リードリーへ一家で移住。当地は、クエーカーの信仰に似た「メノナイト」の人々が多く住んでおり、日系人のイシマル一家を温かく迎え入れてくれた。フレージャーさんは、帰還してくる負傷した多くの兵士の姿を目の当たりにした。「オキュペーショナル・セラピスト(OT・作業療法士)になろう」と決意し、ミルズカレッジへ入学。大学卒業後、OTとして働いていたモデストで、整形外科医で将来夫となるキャルビン・フレージャー氏に出会った。

サンフランシスコで暫く勤務した後、ロサンゼルス郊外のラカニャダへ引っ越し、開業。二人三脚で患者の絶えない病院経営をした。1997年にご主人が他界してから未亡人だ。数年前に、大邸宅を売却し、2LDKの今のコンドミニアムへ移った。

郊外に住む日系人の多くがそうであるように、フレージャーさんもリトル東京のイベントや活動には余り参加しない。地元地域に密着した生活をしながら、日米の文化交流に貢献している。スポットライトに当たることはほとんどないが、日本との友好関係を大切にしようと努めている。ストーリアー・スターンズ日本庭園は大きな団体と違い、出席しなければならない会合も無いし、服装規定もない。また、自宅に近いことが何よりの魅力だ。「それにここに来ると、『Nonbiriよ。視点や感情が解放されて、膨張する感じになるの」と話す。

フレージャーさんは、同庭園が4月6日(土)に開催する「テイスト・オブ・ジャパン」を日系コミュニティーに紹介し、多くの日系人の来訪を期待している。今回は、日本から新進気鋭のフュージョン舞踊家、梅川壱ノ介を招聘。日本の美酒と広島のお好み焼きやおにぎりを楽しめる企画だ。

「この秘宝をもっと多くの達たちに知ってもらいたいけれど、この静けさと佇まいは残したい。矛盾しているわね」と笑う。

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テイスト・オブ・ジャパンの参加費は、一人60ドル。申し込みは、こちらのサイトまたは、電話 (626) 399-1721 まで。

 

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