エドナ・ホリウチ

(Edna Horiuchi)

小学3年生の担任教師。旅好きで日本語を学ぼうと努力している。息子のケンゾウは、現在サンフランシスコで構造エンジニアとして働いている。

(2019年9月 更新)

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Nikkei Chronicles #8—Nikkei Heroes: Trailblazers, Role Models, and Inspirations

ミネ・オオクボ

ミネ・オオクボは、日系アメリカ人強制収容所での体験を記録した画集、『市民13660号』でもっとも良く知られるアーティストです。私がカリフォルニア大学リバーサイド校の学生だった1979年、ミネは私のヒーローになりました。当時20代の若い女性だった私は、第二次世界大戦を生き抜いた“最も偉大な世代”のひとりであるミネの偉業に勇気づけられる思いでした。ミネは、自分の心に従い、堂々と生きていました。女性アーティストとしても、人生においても自らを貫き、困難な経験はミネをより強い人間に成長させました。ニッケイのアイデンティティを持ち続け、日系アメリカ人コミュニティやリバーサイドの原点を決して忘れませんでした。幼い頃から自分の人生で何をしたいのか知っていた、若く意思の強い日系アメリカ人アーティストを見つけたことに、私は興奮しました。女性は結婚して家庭を持つことが当たり前とされていた時代に、何ものにも自分のアートの邪魔はさせないという決意がミネにはありました。

ミネは、1912年にリバーサイドで生まれました。リバーサイドの小さなコミュニティからカリフォルニア大学バークレー校という広い世界に足を踏み入れたミネは、バークレーで自分の人生とアートを形作ることになる貴重な経験をし、興味深い人々と出会いました。第二次世界大戦が始まる前の1938年、ミネはカリフォルニア大学から奨学金を受け、ヨーロッパに渡りました。戦争によって留学期間は短縮されましたが、ミネは2年間各地を旅し、絵画に色と光を見いだしました。

1960年代にニューメキシコ州アルバカーキで育った私は、どこにいても唯一のアジア系でいることに慣れていました。私の家族は地区内で唯一のアジア系でした。学校には中国系の生徒が数人いたこともありましたが、兄弟と私以外に日系アメリカ人はいませんでした。私が高校1年生になった1970年、両親と共にカリフォルニア州エルセントロに引っ越しました。そして高校のカリフォルニア史の授業で、日系アメリカ人の強制収容について初めて知りました。それは、教科書のたった1ページで簡単に言及されているに過ぎませんでした。

ロサンゼルスやサンフランシスコのアジア系アメリカ人は、イエロー・パワーと共に自らのアイデンティティを見つけていましたが、私は保守的な小さい町で自分のアイデンティティを探すのに苦労していました。インペリアル・バレーは、地理的にも文化的にも文字通り砂漠地帯で、コミュニティ内で私が最初に接触したのは、この地域の日系アメリカ人農家でした。私は、ハワイ育ちで歯に衣着せない私の両親と、本土の日系コミュニティの人々の間に違いがあることに気付きました。

高校を卒業後、私は自主的に日系アメリカ人の強制収容に関する本を読み始めました。米国政府の最高レベルの高官らがいかに共謀して日系人を強制収容したか、ということについて解説されたミチ・ウェグリンの著書を貪り読みました。この本には、強制収容によって第二次大戦下の日系アメリカ人がどれほど深く苦しめられたかが記されていました。私は、苦悩と不公正の物語に激しい怒りを覚えました。

大学では、女性と文化の人文科学の講義で論文を書かなければならなかったとき、私は強制収容所にいたアーティストを探そうと思いました。カリフォルニア大学リバーサイド校の学生だった私は幸運でした。ミネはリバーサイド育ちだったからです。彼女は大学図書館の特別コレクションに作品や書籍を寄贈していました。ミネの『市民13660号』に私は目を見張りました。真実を率直に描いた白黒のイラストレーションに、日々の生活の事実を淡々と記録した文章が添えられていました。ミネのコメントは時にユーモラスで、時に心が痛むものでした。タンフォラン収容所のミネのもとには、母国で自由で安全でいられるミネはどんなに幸運かという手紙がヨーロッパの友人たちから届いていました。

トパーズ強制収容所のアートと文芸雑誌、『トレック』に掲載されたミネの作品は、ニューヨークの『フォーチュン』誌の仕事に誘われるきっかけとなり、ミネはその後の人生をニューヨークで送ることになります。『市民13660号』の初版は、戦争直後の1946年に発行されました。まだ日本への反感が根強かった時代に、それは大胆な試みでした。1984年に再版された時、この本はアメリカン・ブック・アワードを授賞しました。

ミネのアートに私が驚かされたのは、彼女が異なるスタイルの探求を決してやめなかったことでした。『市民13660号』で生涯にわたる名声を獲得した後でさえ、彼女はアーティストとして進化し続けました。後年の作品には、子供や動物、花などを題材にした明るい色の“幸せな”絵画もありました。ミネは、ヨーロッパの巨匠ではなく日本の民芸の伝統を見直し、刺激を受けていました。

講義の最後に、私は論文を口頭で発表しなければなりませんでした。この講義で発表された論文の中で、私が書いたものは存命の女性アーティストを題材にした数少ない中のひとつでした。図書館の特別コレクションには、ミネのニューヨークの住所がありました。若さゆえの大胆さが手伝って、私は論文のコピーに手紙を添え、ミネに送りました。

ミネは、干支をモチーフにした大胆な白黒の版画のホリデーカードを送ってくれるようになりました。私は、日系コミュニティの活動や強制収容の補償/賠償を求める闘いを始めてからも、彼女に手紙を送り続けました。年月が経ち、最終的に私は結婚して子どもを持ちましたが、彼女が亡くなる2001年まで私は手紙を送り続けました。

1981年、ニューヨークから小さな荷物が届いた日のことを、私は決して忘れないでしょう。ミネは一体何を送ってくれたのだろうと考えながら、私は茶紙の小包をゆっくり開けました。包装紙を剥がすと、そこには小さな絵画が入っていました。私は驚きました。白黒のアクリル絵の具で描かれた、『太陽、少女、猫』という遊び心のあるスタイルの作品でした。ミネは、簡単なメモを入れてくれていました。そこにはこう書かれていました。

論文のお礼に、小さな絵画を送ります。あなたの文章に感銘を受けました。たくさんの思考と努力の跡が見られました。

敬具、ミネ・オオクボ

 

* * * * *

このエッセイは、シリーズ「ニッケイ・ヒーロー:私たちの模範となり、誇りを与えてくれる人」の編集委員によるお気に入り作品に選ばれました。こちらが編集委員のコメントです。

ダン・クワンさんからのコメント

エドナ・ホリウチのミネ・オオクボについてのエッセイに、私はさまざまなレベルで胸を打たれました。第一に、類いまれな日系女性アーティストと彼女の力強く感動的な作品、『市民13660号』に新たな光を当てることの重要性という点において、次にエドナ自身が始めた自己探求の旅において、最後に、二人が最終的に幸福にも交差するという点においてです。ある女性の決意がいかにもうひとりの女性を勇気づけたか、というストーリーを読むことができたのは、素晴らしい体験でした。このエッセイが私たちに教えてくれるのは、人生における私たちの創造的行動が、いつ、どこで、誰に、どのような影響を与え得るかは未知数だということです。

女性作家としてのミネの選択に対するエドナの感謝と尊敬に、私も深く共感します。私を育てた日系二世の母、モモ・ナガノも、アーティストになりたいという願いをかなえるため、女性への伝統的な期待(や制約)を乗り越えなければならなかったからです。

ミネとエドナの物語は、二人の女性が自己発見の道を歩み、ミネ・オオクボはアートと執筆を通して、エドナ・ホリウチはコミュニティでの活動を通して、お互い他者と共有する術を見つけるというものです。この二人がつながり合ったことは、なんと完璧であったことでしょう。

 

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