深沢 正雪

(ふかさわ・まさゆき)

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。

(2009年1月 更新)

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アマゾン=河民の生活向上に尽くす ~格差社会に挑む日本人~

第3回 市長が匙を投げる教育

>>第2回

巡回授業で保健指導を

「こんなに広い面積で州から下りる市予算はわずか。市民の保健、教育を完璧にやることは不可能だ」。再選を決めたばかりのエメルソン・ペドラッサ・デ・フランサ市長は、十月二十九日に共にした昼食で眉をしかめてそう言った。

地元自治体すらお手あげの場所で、教育局と保健局と提携しながら、定森さんは「アマゾン遠隔地学校における健康作りプロジェクト」を〇七年九月から進めている。

今回は第二段階で、第一段階としては「アマゾン地域保険強化プログラム」(〇三年十月~〇六年三月)も実施した。共にJICAブラジル事務所の支援を受けている。

第一段階では地域保健員への教育を行った。これは連邦政府の制度で、地域ごとに一人指定し、保健衛生などの指導をする有給の役職だ。ここでは五百六十二レアルが月々支払われている。

地元関係者によれば、本来は各コミュニティが自主的に人選するはずだが、現実には、衛生知識あるなしに関係なく市議らが指名する形になっていることが多く、役割が果たせていなかった。

かつて五年間、地域保健員をした経験のあるジルソンさんは「HANDSが活動を始めるまで、保健員はなにもしてないも同然だった」と振り返る。「血圧計、体温計、体重計すらなかったし、使い方も知らなかった。基礎的な保健知識もみんな持っていなかった」。

立派な制度があってもしっかり運用されてないから、問題がいつまでも続くことはよく見られる。学校があっても先生がいない、地域保健員がいても知 識がない。そんな現実に対し、HANDSの活動は既存の制度に実体を与え、関係する機関の連携を密にすることで問題解決への糸口を見出してきた。

◎   ◎

マニコレから船で十時間ほど離れたボン・キ・ドイというコミュニティで地域保健員をするオリヴァウド・バイマさん(49)は「我々の地域はマラリアがひどい。HANDSのおかげでだいぶ減った。衛生の知識がとても役に立っている」と感謝する。

このコミュニティの名前は、あまりに医者のいる町から遠いゆえに、「痛くなると良い」という皮肉を込めて付けられた名前だという。それだけ病気には苦労してきている場所だ。

これら河沿いの遠隔地コミュニティは約二百八十もあるが、それぞれが孤立している訳ではない。隣接していても宗教などの理由で別々の集団として数えているところが半数近くあるという。

そこに小学校は百二十五校あるので、大方のコミュニティには小学校まではある。そこを巡回して、保健衛生指導の授業をしてまわるのが第二段のプロジェクトだ。

うち九十一校には教師は一人しかいない。二~三人が十六校。定森さんは「とても過酷な勤務環境です」と同情する。月に一回、セントロに給与を受け取りに来て、しばらくコミュニティに帰らない教師もいるという。

十月三十日午前、HANDSの船で一時間ほど離れたイガラペジーニョを、巡回指導員の一団と共に訪れた。

雨期になると水位が十メートぐらい上がるので、崖のような斜面を登って広場に到着。興味深いことにたいていのコミュニティには、広場に川面から見 える尖塔を持つ教会、その横にコミュニティセンターという名の講堂、小学校、そしてブラジルらしくサッカー場の四点セットを備えている。

この中央広場から川沿いに左右に道が延び、そこに木造の高床式になった家々が並ぶ。

第4回 >>

※ 本稿はニッケイ新聞2008年11月26日に掲載されたものを許可を持って転載しています。

※ ニッケイ新聞(www.nikkeyshimbun.com.br)はブラジル国サンパウロ州サンパウロ市で発行されている、移住者や日系人・駐在員向けの日本語新聞です。

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第2回 陸の孤島マニコレ

>> 第1回

遠隔地は半自給自足で

週に三便しか飛ばない十八人乗りプロペラ機で一時間ほど行くと、樹海の真っ只中に忽然とマニコレ市が現れた。アマゾナス州都マナウス市から南に三百三十三キロ近く、船なら二晩かかる。もちろん、道路はない。

市といっても面積はオランダ国とほぼ同じ、日本なら九州ぐらいの広さがある。セントロという市街地に二万一千人、マデイラ川沿いの約二百八十のコ ミュニティなどに計二万五千人が住んでいる。計四万六千人の人口だが、州内の六十二自治体の中で六位だというので、実は大きい方だ。

中心街(セントロ)といっても道路に信号もない、エレベーター、エスカレーターもない、二階建ての建物も市役所以外はほとんどない。道行く人の大 半は徒歩か自転車で、まるで申し合わせたかのようにサンダル履きだ。百五十CC程度の小型バイクも走っているが自家用車は実に少ない。

川沿いにあるコミュニティの多くは十~六十家族しか住んでいない。彼らのことを、ここでは河民(リベリーノ)と表記する。もちろん、道路もない、電話もない、医者もいない。文明からは遠く離れた場所にある。

◎   ◎

セントロから船で六時間離れたジェニパポ2というコミュニティで生まれ育った二十歳、マリア・デ・ジェズスさんは「コミュニティはおいしい魚がいっぱい、浜辺もあるし、ゆっくりした生活がおくれる」という。半自給自足の生活をしている人が今もかなりいるという。

電気は午後五時から十一時ぐらいまで。百人ぐらい住み、「たいていの家にはテレビがある」が発電する時間にしか見られない。「冷蔵庫がある家もある。でも、昼間はできるだけ開けないようにしている」。電話はあるが携帯は通じない。

唯一の交通機関は船。週二~三回ずつ上り、下りがある。若い人はどんどん都会に出たがる傾向があるが、「それ以上に赤ん坊が生まれているからコミュニティの人数は増えてるわ」という。

住めば都。テレビのノベーラのような生活をしてみたいと思わないかと尋ねると、「私は静かな生活の方が良い」と静かに否定した。

同じコミュニティ出身で親戚にあたり、三年前に定森さんに誘われてHANDS(ハンズ)職員になったジルソン・カルヴァーリョ・ロドリゲスさん (34)によれば「月に二回、レガトン(船)がまわってきて、そこで食糧を買う。値段は町よりかなり高いが、ここまで来る交通費を考えると、搾取されてい るとは思うがしかたない」。河民の大半は「マニコレに出てくるのは年に一回、九月のフェスタの時だけ」と
いう生活だ。

九月には、町の守護神ノッサ・セニョーラ・ドス・ドーレスの名を冠したカトリック教会で、地域最大の祭りが行われる。衣料品の出店がたくさんでて、それを目当てに服を買いに来るのだ。

魚は潤沢にとれても、町に出荷するのは遠い。商品作物といえばバナナかマンジョッカが中心。イガラペジーニョというコミュニティで聞いたら、「一週間かかって作ったファリンニャが、一袋六十レアルで買いたたかれる」という。

市民一人当たりのGDPは、伯国全体で三千三百二十六ドルなのに対し、ここでは七百五十二ドルしかない。現金収入は貴重だ。

第3回 >>

※ 本稿はニッケイ新聞2008年11月25日に掲載されたものを許可を持って転載しています。

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第1回 子供を階段から蹴落とす

貧乏旅行でのぞいた現実

彼ほど庶民階級のブラジル人に親身になって尽くしてきた人は少ない。定森徹さん(40、千葉県出身)は移民ではない。だが、大学卒業以来、十七年を 伯国で過ごしている変り種だ。聖市ではモンチ・アズールのファベーラ、セアラ州、そして現在はアマゾナス州マニコレ市に住み、JICAブラジル事務所の支 援で、遠隔地住民の生活向上に尽くすプロジェクトを進めている。一貫して庶民の生活向上に関わるボランティア活動を行う定森さんの軌跡を追った。

国際ボランティア活動に足を踏み入れたきっかけは、学生時代に中南米を放浪して感じた格差社会の現実だった。

八九年、大学三年生の時、メキシコから貧乏旅行でアルゼンチンまで下った。ブエノス・アイレスのレストランで、Tボーンステーキを食べていた定森さんのテーブルに、路上生活している子供が近寄り「骨をくれ」と頼んだ。

「いいよ」と渡したとたん、店員が飛んできて子供を店から引きずり出して、入り口の階段から蹴り落とした。

「犬にもやらないこと」と定森さんは唖然とし、強烈なショックを受けた。「なんでこんなことが起きるのか」。日本とは全く違う現実が目の前に展開された。「貧困についてもっと知らなければ」と考え込んだ。

九二年、日伯交流協会の研修生として来伯。約一年間、サンベルナルド・ド・カンポ市へ派遣された。「一年ぐらいファベーラで活動してみたいと思った のが運の尽き」と笑う。スラム街住人が家を作ろうと、レンガを一個一個積んでいるのを手伝った。その時、聖市郊外のモンチ・アズールでボランティア活動し ていた小貫大輔さんと知り合い、人生が大きく変わっていく。

翌九三年三月に研修期間を終えて帰国したが、郵政省の国際ボランティア貯金に出していたプロジェクトが通り、七月には伯国に舞い戻った。以来、一貫して当地を舞台に社会活動をしてきた。

聖市近郊のファベーラに診療所や保育園を作った。一般大衆にその危険性や予防知識が十分に知られていなかったエイズの啓蒙キャンペーンを繰り広げ、九七年にはエイズ孤児院も建設した。

その後、セアラ州に場所を移し、人間的出産方法を広める「ブラジル家族計画母子保健プロジェクト」の調整員として〇一年まで四年間を過ごした。その 後、再び聖市に戻り、エイズ患者の子供向けの保育園を作る手伝いもした。「父兄が患者同士の方がやはり話しやすい」。ようやくエイズ治療薬が普及し、以前 に比べエイズ孤児が減るなどの変化が起きていた。

〇一年、プロジェクトが一段落し、たまたま一時帰国した時、現在所属している日本のNGO団体HANDSからマニコレの話が回ってきた。病気の予防や健康相談をするアジェンチ・コミュニターリオ・デ・サウーデ(地域保健員)への知識啓蒙、訓練をするプロジェクトを始めた。

定森さんは「半径二百キロ以内には日本人は僕だけです」と笑う。大半の町に日系人が住む聖州などとは、同じブラジルでもまったく異なる様相だ。日系人は一人、聖市から赴任したカトリックの修道女がいるのみだ。

そんな中で定森さんはHANDSブラジル事務所のプロジェクトマネージャーとして四人の現地スタッフを引き連れて孤軍奮闘、四年前には同町の伯人女性と結婚し、二子にも恵まれた。

第2回 >>

※ 本稿はニッケイ新聞2008年11月22日に掲載されたものを許可を持って転載しています。

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