リンダ・クーパー

(Linda Cooper)

コミュニケーション・コンサルタント兼フリーランス・ライター。広報、米国上院議員担当報道官、ジャーナリストとして30年以上の経験を持つ。ミシシッピ女子大学でジャーナリズムと政治学を専攻し、文学士を取得。テネシー在住。親友のブレンダは医療研究機関に勤める公認看護師で、家族の近くで暮らしている。


(2017年9月 更新)

 

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Nikkei Chronicles #8—Nikkei Heroes: Trailblazers, Role Models, and Inspirations

2 Presidents, 2 Senators, 2 Moms…and 2 Dads, too

My best friend Brenda and I have often talked about how much change and history our parents witnessed over the course of their lifetimes. We are the only-children, daughters of U.S. military fathers who were born and raised in the American South and Japanese mothers.

Our parents lived through much of the history of the 20th century, and we too, as their daughters also are living witnesses to that history.

Beginning in 1985, I had the great privilege of serving as a press aide to two of Tennessee’s U.S. Senators in Washington, D.C. As a high school and college student, …

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Nikkei Chronicles #7—Nikkei Roots: Digging into Our Cultural Heritage

Embracing Our Nikkei Roots Via Southern Routes

If you’re a Japanese-American who lives on the East or West Coast, chances are, there are myriad ways to celebrate and nurture your Nikkei heritage with various festivals or celebrations, museum exhibits, trips to your local Japanese markets and restaurants, or through memberships in organizations such as the Japan Society or Japanese American Citizens League. But, what do you do if you grew up and live in the American South like my best friend Brenda and I? We are the daughters of Japanese mothers who married our Southern, U.S. soldier fathers in the aftermath of World War II. As Hapas, …

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Nikkei Chronicles #6—Itadakimasu 2!: Another Taste of Nikkei Culture

フライドチキンと太巻き

ドキュメンタリー映画 『Fall Down Seven Times, Get Up Eight: The Japanese War Brides』(訳注:第二次大戦後米兵と結婚し米国に渡った日本人女性とその娘たちを描いたドキュメンタリー映画)の中で、ヒロコ・トルバートさんは、「私は完全にアメリカ人」と言います。それに対し娘のキャサリンさんはこう返します。「自分がどんなにアメリカ人らしいかお母さんが言うなんて妙ね。毎朝味噌汁を作っているじゃない」。ヒロコさんがクスクス笑いながら、「食べ物はまた別の話」と言うと、二人は一緒に笑いました。そう、別の話なんです。

親友のブレンダと私は、成長するにつれてよく食べ物の話をするようになりました。日本人の戦争花嫁の母とアメリカ人の父の娘である私たちは、アメリカ南部で生まれ育ちました。日本には日本独自の食があるように、私たちが南部料理だと思っている食べ物を、南部の人たちはとても誇りに思っています。フライドチキン、バーベキュー、ターニップグリーン(訳注:かぶの葉の煮込み)、コーンブレッドは、そのほんの一部です。

私の母は、横浜のアメリカ赤十字社による“花嫁学校”の卒業生でした。こうした講座は、戦後米兵と結婚した何千もの日本人女性が、夫と共に米国へ渡る準備の一環として、アメリカ流の生活様式を学ぶために設立されました。

私の母は20年以上前に亡くなりましたが、母が花嫁学校でパイナップル・アップサイドダウン・ケーキとフライドチキンの作り方を教わったという話は覚えています。結婚後、両親は米国に越すまでの数年を日本で過ごしました。母は自分の父親(私の祖父)を家に招待し、初めてアメリカ料理を振る舞った時のことを覚えていました。明治(1868年~1912年)生まれの厳格な親方だった祖父が、母が夕食に作ったフライドチキンを、それまで食べた中で一番おいしい食べ物だと言い切ったのです。母は、父親からの圧倒的な承認を心から誇りに思い、喜びました。

子供だったブレンダと私は、ハパの伝統さながら南部スタイルの典型的なアメリカ料理と和食といったふたつの文化からなる料理を食べて育ちました。ふたりとも卵かけごはんをよく食べていたと記憶しています。熱々のご飯に生卵と醤油、味の素(化学調味料)を混ぜておかゆのようにしたものが卵かけごはんです。ふたりとも卵かけごはんが大好きでしたが、生卵のサルモネラ菌を恐れ、もう何年も食べていません。

ブレンダと私の母は、私たちが大きくなるまで子供と夫のために2品の付け合わせを添えた肉料理というアメリカ流の食事をよく作りました。自分用の日本食を作るのは、その後でした。ご飯と魚、それに漬物が母の普段の夕食でした。いずれの家庭でも、母が家族全員に日本食を作る機会があると、私たちもふたりの父親も、割り下で料理したスキヤキ(薄切り牛、野菜、しらたき)が疑いもなく大好きでした。テーブルの真ん中でスキヤキを料理し、ご飯と一緒に食べるのです。子供だった私たちにとってこの食事の醍醐味は、細く透明なしらたきでした。私たちはしらたきをほとんど全て鍋からすくい上げ、全部平らげて叱られたこともありました。

私の母は、ターニップグリーンやコーンブレッド、揚げオクラといった南部メニューを、マーモー(祖母)や父方のおばといった南部料理のマスターたちから教わりました。ブレンダの家では、お父さんがお母さんにこうした料理を教えたそうです。

7月4日などの祝日には、グリルで焼いたリブステーキに日本風の春巻きやすしを添え、二つの文化を融合させました。

日本食でも南部料理でも、2、3種類の付け合わせを添えた伝統的な肉料理を手ごろな価格で食べられるので、それぞれの食への欲求を抑えることはできます。でも、手作りに優るものはないという点でブレンダと私は一致しています。これが特に当てはまるのが太巻きです。いずれの家庭でも基本形は野菜の太巻きで、酢飯と海苔の巻きずしに魚が入ることはありませんでした。手作りの太巻きに一番よく使われたのが、日本風の甘い卵焼き、茹でほうれん草、きゅうり、にんじんの甘煮、紅ショウガ、カンピョウでした。私たちが子供の頃から言っていた、“すしに入っている茶色いの”と言う以外に、私はカンピョウの説明方法を知りません。

私の母は、太巻きの達人でした。日本人の友人との特別な昼食会や夕食会、正月祝いの集まりには必ず太巻きを作りました。握りずしも作りましたが、それもほとんどがほうれん草などの野菜か卵でした。本当に特別な機会にのみ、小さく握ったご飯の上に火を通した海老が乗りました。それでも母のよそ行き料理と言えば太巻きでした。

小さいころ、家族でビーグル犬を飼っていました。ある年母は、食卓を太巻きと握りずしで美しく埋め尽くし、友人たちとの忘年会に備えました。母と私は家の中の別の場所にいましたが、キッチンに戻った時、ダイニングテーブルの上でビーグル犬が握りずしに乗せたエビを全部食べてしまっていました。母は激怒しました!犬はなんとか生き延びました…が、ギリギリのところでした。

ブレンダの84歳になるお母さんは、今も現役の太巻き達人です。数年前、ブレンダのお父さんは入院していました。ブレンダと私は仕事帰りにお父さんの様子を見に病院に寄り、その後すぐブレンダのお母さんが到着しました。しばらくしてブレンダのお母さんは、ハンドバッグの中にごちそうを入れていたことを思い出しました。太巻きです!ラップとアルミホイルに出来たての太巻きが包まれていました。ご飯の炊き具合も味付けも完璧でした。すてきなサプライズを4人で分けて食べました。最高においしかったです。

ブレンダも私も、母親と一緒に日本へ行く機会がありました。子供だった70年代、そして大人になってからの80年代と90年代です。

1970年、大阪の祖母と過ごしたブレンダは、当時の大阪にはアメリカの食べ物はなかったと言います。カッパマキというきゅうりのすしをよく食べていたそうです。11歳のブレンダには、すべてが外国のようで、奇妙に見えていました。家族で野球の試合を見に行くことになった時は興奮したそうです。野球場ならではのホットドッグなどの食べ物を期待したからです。でも、結局ブレンダが食べられたのは、タコ焼きかタコの串焼きでした。

1970年の大阪万博へ家族と行った時は、日本初のケンタッキー・フライド・チキンが万博に出店していることを知り、大喜びしたそうです。ブレンダはフライドチキンを貪るように食べましたが、日本の家族はそれほど感心した様子もなく、自分と同じようにガツガツ食べなかったことが信じられなかったそうです。

1974年、13歳だった私は、大阪のおじの家の周辺を歩きながら、自動販売機で “カップヌードル”というラーメンが売られているのを見つけました。そういうものを見たこともなかった私は、興奮して販売機にお金を入れ、家に一つ持ち帰りました。そして日本にいる間、その自動販売機に毎日通いました。

私は最高の料理上手ではありませんが、母のレシピでパイナップル・アップサイドダウン・ケーキを一から作ることができますし、家族の集まりや教会の持ち寄り会にベイクドビーンズやサツマイモのキャセロールを作っていくことはできます。南部のおばたちがレシピを教えてくれたお陰です。日本食に関して言えば、カレーはハウスバーモントカレーの固形ルウを使って作ることができます。私が好きで作るのは、シンプルなさやいんげんの胡麻和えです。これは母がよく作ってくれていた料理で、ブレンダのお母さんが私に作り方を教えてくれました。

私とブレンダの間で、料理上手はブレンダです。彼女の作るチキンとドレッシング(南部ではスタッフィングをドレッシングと呼ぶのです)や、メレンゲを美しく高く盛り付けたチョコレートパイは絶品です。ブレンダはそのレシピを南部の義母から受け継ぎました。極上のソーセージグレービーもお手のものです。私の父が亡くなる前にホスピスケアを受けていた頃、ブレンダは日曜に何度もお見舞いに来てくれました。その時持って来てくれたソーセージグレービーとビスケットは、父を励まし南部人としての父の魂を癒してくれました。

ブレンダに餃子の作り方を教えたのは、彼女のお母さんでした。次にブレンダは、フライパンで餃子を蒸し焼きにしながら、自分の夫と私に餃子の詰め方を伝授しました。少し恥ずかしいのですが、ブレンダの家で開いた“餃子ナイト”で、私たちは三人だけで80個の餃子を作って食べたことがあるのです!

大人になってからは、母も私も東京中のデパ地下を見て回るのが大好きになりました。あらゆる種類の美しいお弁当から豪華な果物、ペイストリーまで、食べたいと思うようなものはほとんどデパ地下に揃っています。大人になったブレンダは、大阪でオコノミヤキという塩味の日本風パンケーキのファンになりました。好きな日本食はお好み焼きだとブレンダは言います。ブレンダのお母さんが、自分がまだ料理ができるうちに何を作ってほしいかブレンダに聞くと、答えはもちろんお好み焼きでした。

自明のことながら、食は文化を定義づける要素の一つです。自分たちを南部人のハーフ、そして日本人のハーフと考えているブレンダと私は、リブステーキでもラーメンでも、フライドチキンでも太巻きでも、いつでも“レッツ・イート(食べましょう)”、または “いただきます!”と言う用意はできています。

 

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Nikkei Chronicles #5—Nikkei-go: The Language of Family, Community, and Culture

ようこそ、みなさん

30年前、とてもうれしいことに、私がハパとして継承している二つの文化を紹介するイベントが二つ開かれました。私は、日本人の母と陸軍の職業軍人だった南部紳士の父の娘です。二人は第二次世界大戦後の日本で出会い、結婚しました。

父が軍にいた間、私は両親と一緒に世界中を回り、父の退役後はテネシー州メンフィス郊外の小さな町で育ちました。

1986年のメンフィス・イン・メイ・インターナショナル・フェスティバルでは、大バーベキュー大会や音楽演奏に加えて、日本にちなんだ催しが行われました。また、同じ年の夏にワシントンDCのナショナル・モールで開催されたスミソニアン協会のフェスティバル・オブ・アメリカン・フォークライフでは、テネシーと日本、両方の伝統と文化がたたえられました。

当時私は、テネシー州選出のジム・サッサー上院議員のワシントンオフィスで報道官をしていました。その年のメンフィス・イン・メイにはどうしても行きたかったのですが、その望みはかないませんでした。でも、上司と一緒に行くことができた同僚がお土産を買ってきてくれました。その中に “Yokoso Y’all(南部訛りで「ようこそ、みなさん」)” と書いてあるバッジがありました。私は、“Yokoso(ようこそ)” の意味が分かりませんでした。“Irasshaimase(いらっしゃいませ)” の方が馴染みがありました。“ようこそ” にも “いらっしゃいませ” と同じ歓迎の意味があることを同僚から聞き、母に確認するまで分かりませんでした。そのバッジは、日本と南部の文化を独特に反映していました。二つとも温かくて親しみやすい、魅力的な文化です。

アメリカ南部では、「y’all(みなさん)」という表現をよく使います。時々、「all y’all(みなさんみんな)」という二重複数形を使うこともあります。私の中ではこの言葉は単なるスラングではなく、誰でも受け入れてくれる、包容力のある言葉なのです。

親友のブレンダと私は、いつも自分たちを日本と米国南部のハーフと言っています。ブレンダは看護師で、医療研究機関の仕事でいろんな場所に出張に行きます。ブレンダは私より日本人っぽい顔をしていますが、彼女の南部訛りは地元では違和感なく溶け込んでいて、誰も驚きません。でも、旅に出ると彼女の鼻にかかった南部訛りは、必ずと言っていいほど注目を集めます。

サンフランシスコでブレンダが大勢の同僚のグループと一緒に夕食をとっていた時、とても感じの良いウェイターがロールパンの入ったバスケットを彼女に手渡しました。彼女が「みんなに回しましょうか?」と言うと、ウェイターは目を大きく見開きこう言いました。「あなたからそのアクセントが出てくるとは思いませんでした」。

シカゴでマクドナルドで食べ物をオーダーした時は、レジの人が数分とも感じられるくらい長い間ブレンダをじっと見てこう言いました。「そのアクセント、まったく信じられないよ。素晴らしいね」。また別の時には、これもシカゴでしたが、ブレンダは同僚とホテルに向かって歩いていました。そして小銭を求めてコップを持っていたホームレスの男性の前を通り過ぎた時、彼女の同僚は男性に小銭を渡し、ブレンダはこう言いました。「ごめんなさいね、今持ち合わせの小銭がないの」。男性は、「驚いた!当てさせてくれ。ミシシッピ?アーカンソー?それともアラバマかい?」と言いました。「近いわ。テネシーよ」とブレンダ。「そのアクセントを聞くとは思わなかった」と言う男性に、「スミマセン、エイゴ、デキマセン、って言うと思ったんでしょう」と彼女は答え、二人は笑いました。

それからワシントンDCでは、パン屋を探して歩いていた時、ブレンダはチャイナタウンでアジア系のお客さんと店員が居る店内で、「まだブルーベリータルトは残ってますか?」と尋ねました。すると店の中の全員が一気に固まり、ブレンダをじっと見つめました。そして店員の一人がこう言いました。「チャイナタウンではあなたのような人は珍しい。そういうアクセントの人はね」っと。

時々、私やブレンダの文化背景を誤解する人たちもいます。ブレンダは、デンバーでネイティブ・アメリカンの男性に、「君はどこの部族?」と聞かれて驚いていました。また、長年ワシントンDC近郊で暮らしていた私は、よくラテン系の人からスペイン語で話しかけられました。助けを求められたり、単なる挨拶で声をかけられたり、時間つぶしのおしゃべりがしたくて話しかけられることもありました。幸運にも私は高校と大学でスペイン語の授業を受けていたので、可能な限り役に立てるよう最善を尽くしました。そして、私は日本人のハーフでヒスパニック系ではないことも説明しました。

私が子供だった頃、母は、私が日本語を流暢に話せるよう教えてくれることはありませんでした。彼女の時代や世代、そして移民としての状況がそうさせたのでしょう。母は、私が英語のみを話して育つことが重要だと考えました。母は、私が混乱しないように、と思ったのです。でも、家では家族3人で、日本語の言葉やフレーズをよく使っていました。“タダイマ” や “オカエリ”、“イタダキマス” や “ゴチソウサマ” などです。“ゴハン” には朝食、昼食、夕食の意味があり、母が毎食食べていた、炊いたご飯の意味もありました。

私のハパの友人たち、私たちの父親、そして私自身にとって、母親たちが頻繁に使っていたあまり良い言葉ではない “バカ” も、例外なく馴染み深い言葉です。そしてその意味も、みんな知っています。

母は笑うことも大好きで、日本に一時帰国した際に、日本人の友人たちと駅のプラットフォームで、なぜか母だけがアメリカ人の家族から道を聞かれたというエピソードを話してくれました。母は、その家族がなぜ自分が英語を話せると思ったのか分からず、さらに道を教えた後、その人たちから南部訛りを指摘され、どこから来たのか聞かれた時は “ビックリシタ” と言っていました。

1986年にさかのぼり、私は数日間フェスティバル・オブ・アメリカン・フォークライフに参加し、アパラチア地方と日本の工芸の実演や、カントリー音楽や太鼓の演奏、伝統的な和食や南部料理を楽しみました。日本の物が売っている売店があり、子供の頃の楽しみだった飴やキャラメルを自分用に購入し、ダルマを買って母に送りました。

幸運なことに、私は母と一緒に2度日本を旅する機会に恵まれました。1974年の夏、10代の頃に3か月と1996年秋、大人になってから3週間、日本を訪れました。いずれの旅も大きな学びの機会になりました。家族や母の友人たちと会い、日本の歴史、伝統、文化について学びました。ダルマのことを知ったのは、最初の旅でした。ダルマは丸い張り子の人形で、希望や目標をかなえ、幸運をもたらしてくれます。転びにくい形状の人形で、忍耐、つまり、ガマンを象徴しています。購入時は、ダルマの目は塗られていません。希望や目標を定めた時に左目を塗り、右目はその希望や目標がかなえられた時に塗るのです。母が自分の願いを込められるように、私はダルマを送りました。

私は、生まれつき左目が見えません。未熟児網膜症という治癒できない病気です。1950年代前半から60年代、未熟児用保育器の過剰な酸素量が、大勢の赤ちゃんの視力を奪いました。1986年秋には、見えていた方の右目が白内障と診断されました。1989年には、視力を戻すため、リスクを負ってでも白内障の除去手術をする時だと医師に最終判断されました。3年間で私の視力は徐々に低下していったのです。眼内レンズ挿入術は今でこそ一般的な手術ですが、1989年当時28歳だった私は、ボルティモアのジョンズ・ホプキンス病院のウィルマ―眼科研究所では、この手術を受ける最年少患者の一人でした。

手術は成功しました。私と両親はとても喜び、安堵しました。棚の上のダルマの目が塗られていたことは、その年の後半に帰省するまで気付きませんでした。私は母に、どんな願いがかなったのか尋ねました。母は、私がまた見えるようになることを祈っていたと言いました。母は、「ホントウニ、ヨカッタネ。とてもうれしいわ」と言いました。

“ヒサシブリ” は、私が好きな日本語の一つです。この言葉は、2回目に母と日本を訪れた旅で学びました。母は、友人や家族との数年振りの再会の場で、元気いっぱいに上機嫌でこの言葉を繰り返していました。私の中では、ヒサシブリという言葉には、あらゆる意味の幸せが詰まっています。

あの時のメンフィス・イン・メイやスミソニアン協会のフェスティバル・オブ・アメリカン・フォークライフは、ある意味私にとって、素敵なお祝いのギフトでした。私が二つの文化を継承していることや、この比類ないアメリカ人としての人生に感謝する機会になりました。“ヒサシブリ” でも “hey, y’all(みなさん、こんにちは)”でも、単純な挨拶の言葉は、家族や友情、コミュニティの結束を強くしてくれます。もてなしの心という世界共通語は、時代や文化的分断を橋渡ししてくれます。“ようこそ、みなさん” バッジは、二つの文化を継承している私に、橋渡しの役割があることを思い出させてくれるのです。

 

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このエッセイは、「ニッケイ語」シリーズの編集委員によるお気に入り作品に選ばれました。こちらが編集委員のコメントです。

ギル・アサカワさんからのコメント

投稿作品はいずれも本当によく書かれていて感動しましたが、私のお気に入りは『ようこそ、みなさん (Yokoso Y’all) 』でした。この作品の私的な会話調の表現や率直さに引かれて一票を投じました。作品のタイトルは、リンダ・クーパーさんが言わんとしている核心部分の全てを物語っており、私はタイトルからこの作品が好きになりました。

私の妻のいとこはアトランタに住んでいます。(私も少年時代の『素晴らしき日々』をヴァージニアで過ごしました。)間延びした南部特有のアクセントで日系人が話すと――もっとも、なぜそれがそんなに驚くようなことなのか、私にはよく分かりませんが――いつも驚きを持って受け止められます。

また、多人種が混在するクーパーさんの経験や、ラテン系に間違われたこと、彼女の友人がネイティブ・アメリカンに間違われたという異文化間のエピソードを見つめている点でも、私はこの作品を気に入ってます。

クーパーさんがご自身の人生の精神を捉え、それを惜しみなく共有してくださったことに敬意を表します。

パトリシア・ワキダさんからのコメント

多くのニッケイの人々にとって、日本語の言葉は移住先の国の言語の中に根付いています。私は、言語がどのように流動的に、そして楽しく交配し得るかを描いた『ようこそ、みなさん』が大好きです。作者のリンダ・クーパーさんは、陽気なエピソードを通し、魅力的な物語を紡ぎました。それは、日系のルーツがいかに彼女の人生の複雑さに奥行きを与え、日本語と英語のスラングやフレーズを独特に組み合わせた日本とアメリカ南部、両方の文化が、どのように深く彼女のアイデンティティを形成したか、というものでした。クーパーさんの声は紛れもなく彼女自身のものです。そしてそれは、『ニッケイ語』に焦点をあてたニッケイ物語シリーズでは特に意義深いことです。なぜなら、ここで重視されているのは、まさに言葉だからです。

 

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Nikkei Chronicles #2—Nikkei+: Stories of Mixed Language, Traditions, Generations & Race

文化の狭間で

親友のブレンダは、私たちや両親が失われつつある世代であることに最近気が付きました。私たちには、それぞれ米国軍人の父と日本人の母がいます。第二次世界大戦直後の服務期間中、父は日本を愛し、さらに母とも恋に落ち、米国に連れ帰りました。私の両親とブレンダのお父さんは亡くなりましたが、彼女のお母さんは健在で、現在80歳になります。

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私とブレンダは一人っ子で、友達同士というよりは姉妹のような関係です。父たちがテネシー州とミシシッピ州の田舎で生まれ育った生粋の南部人であるため、私たちは日本人と南部人のハーフと言えます。日本人である一方で、南部出身でもあるので、言語や食べ物、音楽を中心にそれぞれの文化的な影響を受けてきました。私たちが頻繁に“y’all”と言ったり、鼻にかかった声でしゃべったりする、というのは固定観念から来るものではなく、本当のことなのです。父親と同じように甘い紅茶やバーベキュー、炒めものが大好きで、i-PodにはエルヴィスやBBキング、カントリーミュージックや70年代南部ロックが入っています。初めて見たのは、母たちと行ったメンフィスでのエルヴィスのコンサートでした。

また、私たちの家には扇子や日本人形があります。母と同じように、うどんを買いに地元の海外食品市場に行ったり、お煎餅をパリパリ食べながらテレビを見たりするのが大好きです。i-Podにも、子供の頃に家で聞いた伝統的なお琴の曲から母のお気に入りの美空ひばりの曲まで、日本の音楽が入っています。そして少なくとも着物が一着、クローゼットの中にしまってあるのです。

父が軍にいる期間は両親と共に世界中を転々としていたのですが、退役後は、テネシー州の軍事基地の近くで暮らすことになり、私とブレンダはそこで一緒に育ちました。同じような体験をしてきた他の家庭の人々と知り合えたことは、色々な意味で幸運なことでした。しかし、母親や他の日本人たちがどれほど強く勇敢であるかを思い知ったのは、大人になってからです。彼らは母国を離れ、全く異なる新たな地に根をおろしました。そして英語の話し方や読み書きを身に付け、アメリカや南部の生活スタイル、文化、伝統を率先して受け入れたのです。皆が米国市民となり、また、母たちのように名前まで英語名に変えてしまう人もいました。

私の母は神道信者であってクリスチャンではないのですが、イースターやクリスマスをありとあらゆる飾りつけをして祝うのが大好きでした。ハロウィンは、私と父のためのたくさんのお菓子や、とても上手な手作りの衣装で溢れかえっていました。誕生日にはいつも手の込んだ飾り付けのケーキが出てきて、「花の16歳」のときはもちろんこと、毎年素晴らしいものでした。独立祭のときは、父がバーベキューリブやチキングリルを担当し、母がお寿司や春巻き、キュウリの漬物を作ってくれました(キュウリは、父が裏庭で栽培したものです)。新年にはボウル一杯のササゲの豆と冷やし蕎麦で二倍の幸運をお祈りしたものです。

母は主婦として非常に優れており、家には塵ひとつ落ちていませんでした。玄関で靴を脱いでいた習慣は今も続いています。母は裁縫、刺繍、編み物ができ、さらにフライドチキンからペカン・パイまで作れる、腕の立つ南部コックになりました。また、春巻きやお寿司などの日本料理も評判でした。ブレンダのお母さんは、最高のてりやきチキンを作ります。ブレンダの体調が良くないときは、お母さんのおみそ汁を飲んで元気を出しています。

母やその友人たちがこの国を喜んで受け入れる一方で、南部人は彼らを受け入れないことが多くありました。1960年代や70年代には、母たちの英語が完璧でなかったり、仲間内で日本語を話したりするのを嘲笑されることが度々あったのを覚えています。母は、ダウンタウンのモールで買い物をしている時、知らない人に睨まれてどんなに居心地の悪い思いをしたか、という話をよくしていました。

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南部で育った私とブレンダもまた、学校で「ジャップ」、「チンク」、「グック」、などと侮蔑的に呼ばれることがありました。私たちはハパとして溶け込もうと必死に努力しました。二つの文化の狭間で上手にやっていくために、日本人よりも南部人になろうしたものです。父からは釣りの仕方や銃の打ち方を教わりましたが、母からはご飯や餃子を入念に準備する方法を習いました。両親から、よく働くことや、忍耐力、そしていつも全力を尽くすことの大切さなど、彼らの世代の様々な価値観を学んだのです。そのため、両親の期待にしっかりと応えることが出来ました。

私とブレンダが自身の二面性を完全に受け入れるまでには、しばらく時間がかかりました。何度も母たちと日本の家族を訪れたり、ハワイやワシントンDCなど多様な人々のいる地を訪れ、そこに住んだりした経験が、自分たちの人生を異なった視点で見る助けとなりました。また単に、第二次世界大戦後の時の流れが、両方の文化に対する思いやりや愛情、心からの理解をもたらし、その狭間に橋を架けることができたのかもしれません。大人になった私たちは確信しています。この狭間にいることは、この上なく素晴らしいことだ、と。

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