阿部 健治マイケル

(Michael Kenji Abe)

カナダ、オンタリオに生まれ育った日系カナダ人三世。祖父母が19世紀初めに日本の九州からカナダへ移住した。父方の家族は大分県別府市出身。父親はポート・アルバー二で生まれ、レモン・クリークに収容されたが、戦後はオンタリオ州ハミルトン市に移り住んだ。母方の家族は1907年をはじめとして福岡県にある大渕村からカナダへと移住。日本の山梨県甲府市に6年間在住した経験があり、1993年よりブリティッシュ・コロンビア州ビクトリア市に妻のいずみと、2人の子である建人と夏姫と共に暮らしている。これまでにビクトリア日系文化協会の会長を務め、現在はビクトリア大学Landscapes of Injusticeのプロジェクト・マネージャー。趣味はゴルフ、書道、墨絵。

(2016年10月 更新)

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ある家具の旅路、ある家族の歴史の一片

Landscapes of Injustice (不正義の風景)」ウェブサイトの”Touched by Dispossession”のセクションに、シリーズでストーリーがアップされています。2016年にこのセクションで、パルディの私の家族の歴史についての記事が掲載されたのですが、それを読んだ読者のある方からEメールが届きました。その一通のメールがきっかけとなり、戦前に私の叔父であるボブ・トヨタが作ったサイドテーブルの回収にむけての素晴らしい旅が始まったのです。私の家族の歴史の始まりともいえるこの一台の家具についてお話しします。

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プロローグ

1991年、叔母のケイティ(カオル・旧姓トヨタ)と伯父のクミィ(クメオ)・ヨシダはクミィの兄シゲ(シゲユキ・エドワード)・ヨシダの家族とともに、シュメイナスにあるローン・スカウト(The Lone Scout)壁画の除幕式のため、オンタリオ州ロンドンからやってきました。シゲさんは、ブリティッシュコロンビア(BC)州ホープの少しはずれにあるタシュメに抑留されていた間、シュメイナスでボーイスカウトをはじめ、最終的にはカナダ最大のボーイスカウト隊をスカウトリーダーとして率いました。この壁画は、シゲさんのこの功績をたたえたものでした。それから数年後、強制撤去の時シゲさんの家族が所有していた家具を預かっていると伝えに来た人がいたそうです。その人は「50年間ずっと探し続けていた」そうです。その人について叔母に詳しい情報を尋ねてみましたが、あまり覚えておらず、この伝説ともいえるこの話は、それからさらに30年近く、つい最近までミステリーとなっていました。

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第二次世界大戦前、私の母ルースはショウシチ、キリエ・トヨタ夫妻の13番目か14番目の子供として、ダンカンのはずれ、BC州のパルディに住んでいました。母の叔父と叔母、ダイゴロウとハナヨ、彼らの10人の子供は隣に住んでいたそうです。家や家具は、マス、ジョージ、ボブを含む母の兄弟が建てたそうです。

パルディ(当時はMayoとして知られていました)はインド系、日系、中国系カナダ人が多く住み、製材業でにぎわうコミュニティでした。多くの混血人種が住むこの独特のコミュニティの中で、白人は少数派でした1。私の叔母は、当時BC州では人種差別がひどかったにもかかわらず、パルディではそういったことがほとんどなかったと当時を振り返り話してくれました。

悲しいことに、今日では当時のパルディの様子を語るものはあまり残っていないのですが、2015年に私のいとこと家族がトヨタの生家を探しに行った時、生家の場所だけでなく、祖母がおにぎりの中にいれる梅干しを作っていた2本の梅の木をなんとか見つけることができました。この時のことについては、2016年に私の母が訪れた後、「歴史に忘れ去られた町パルディと懐かしの梅の味」という記事にしたためました。こちらの記事も、Landscapes of Injusticeウェブサイトの”Touched by Dispossession”セクションに掲載されています。

さて話を2020年9月に進めます。Landscapes of Injusticeのサイトを訪れた方からEメールを受け取ったときの私の驚きを想像してみてください。

こちらがそのEメールです:

こんにちは、私はジュディ・コガ=ロスといいます。あなたの記事を読みました。私はパルディで育ち、ダンカンのロス一家に嫁ぎました。メアリー&ペリー・ロス夫妻は、日系人が抑留されていた間トヨタ一家の所有物だったドレッサーを保管していました。ロス夫妻は、トヨタ一家が戻ってくるまで保管しておくことを約束していたのですが、彼らの知る限り、トヨタ一家はカウチンバレーには戻ってこなかったそうです。私共のところには、私の主人マイク・ロスが大学に進学する際に譲り受けたサイドテーブルがあります。それ以外の家財道具は、メアリーとペリーが亡くなった際に家と共に売却されてしまったかもしれません。もしお望みでしたら、このサイドテーブルはあなたのものですよ。

敬具

ジュディ・コガ=ロス

興奮とショックの中、私はすぐに返信し、それから何回かに渡りメールの交換をしました。同時に、パルディに長く住むジョーン・メヨによる著書「Paldi Remembered」の中で、ペリー & メアリー・ロス夫妻のことも学びました。

ペリー & メアリー・ロス夫妻へのインタビューの中で、ジョーンはペリーが「すべてがあっという間のことで、人々がいなくなってしまうまで一体何が起こっているのか理解することができなかった」と語っていました。2

メアリーはこうも話していました。「ダンカンからやってきた人たちが、強制退去させられる日系家族の家具や車、その他の所有物をとても安い価格で買おうとしていたことを覚えています。それは犯罪的でした。彼らが必死に働き手に入れた物を、ただ同然の値段で持っていきました。私たちはトヨタ一家からソファを買いましたが、正当な値段を払いました。彼らがあのような形でいなくなってしまったのは本当に悲しいことでした」。3

ジョーンは、その後ロス一家は、トヨタ兄弟が自分たちが住むために建てた2階建ての大きな2軒のうちの1軒に移り住んだと加えていました。もう1軒の方は火事でなくなってしまったそうです。4

このつながりは強くなり、次第にジュディとマイク夫妻に会えるのではないかという私の期待も膨らんでいきました。そして、好機が訪れました。私、妻そして長男はその週末にメインランドに行く予定があったので、旅程を1日早め、BC州ミッションへ足を逃すことにしました。

私たちは、ジュディとマイク夫妻の非常に寛大な歓迎を受け、様々なことを語り合い素晴らしい午後を過ごしました。悲しい別れを交わした後、小さくはあれど、約80年前に、圧力の元、国土の半分ほどの距離に移り住むことを強いられながらも生き抜いてきた家族の歴史がつまったテーブルを持ち帰りました。小さくはあれどこれは宝です。マイクとジュディは、そのテーブルが彼らにとっても大切なものであったと言ってくれました。私の叔父ボブ・トヨタの手によってしっかり作られたそのサイドテーブルは、長年にわたって使い古されていました。サイドテーブルにはメッセージが付いていました。カードには「おかえり!私は 1941年頃からペリー & メアリー・ロス夫妻とともに生きてきました。私は寝室のサイドテーブルとして使われていましたよ」。

ミッションは完了しました。

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エピローグ

95歳になる叔母のケイティは、家財道具のほとんどと2軒家を建てた叔父のボブがそのサイドテーブルを作ったことはほぼ間違いないだろうと言っていました。ボブ叔父さんは2018年、96歳でこの世を去りました。

それから私はボブ叔父さんの子供であるロドニーとマーシャにEメールを送りました。ロドニーは、ボブ叔父さんのホテル用の家具を作るのを手伝っていたのですがサイドテーブルは、叔父さんの作った多くの家具を思い出させるし、いくつかのホテルではそのサイドテーブルと同じようなスタイルだったと言っていました。また、ボブ叔父さんは、昔はよく夜遅くまで、小屋の中でコミュニティのために家具を手作りしていたと話してくれました。ボブ叔父さんは13歳の頃からフルタイムで働いていた工場から廃材もらい、家具作りをしていたそうです。この経験ゆえに、木工が彼の人生のキャリアとなったのでしょう。

ボブ叔父さんのケースファイルを取り出すと、個人財産と書いてある下に、こうあります。大工道具1箱、ペリー・ロスが在住のもと管理をしているBC州パルディの家に自転車1台。

叔母のケイティは、タシュメでの抑留の間、シゲさんがジャンボリーでロード・ベーデン=パウエル(Lord Baden-Powell)直々に祝いを受けるためビクトリアに出向いたことも話してくれました。CAPI(ビクトリア大学アジア系パシフィックイニシアティブスセンター)のAssociate Directorであえるヘレン・ランズダウン氏は、この話を聞き、この一件が矛盾をしていることに言及しました。英国植民地時代の理想主義を掲げて束ねられた最大のスカウト隊が、彼らの国籍が理由で収監されていたにもかかわらず、一方では名誉を授けられたのですから。

そして、ジョーン・メヨさんですが、ロス夫妻のことを思い出し、1960年代の初めころにピクニックで行った袋飛び競争で、まだ若い頃のジュディが息子を追い抜かしている様子を収めたビデオを持っていると話していました。

このストーリーはこれからも続いていくような予感がしています。

注釈:

1. Joan Mayo, Paldi Remembered, 50 years in the life of a Vancouver Island logging town, (Duncan: Cowichan Valley Museum & Archives 2016), 9.

2. …

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Connecting a Family’s Lost Fleet to Historical Documents

VICTORIA — It was an honour to speak at the event launch for The Lost Fleet exhibit at the Maritime Museum of British Columbia in January. The exhibit was on loan from the Vancouver Maritime Museum from January to March.

At the launch, I spoke about Susan Fukuyama and her family. A Sansei, third generation Japanese Canadian who lives in Victoria, Susan has a deep family history tied to the fishing boat industry. She has done some incredible research on her family. Her story, along with photos and artifacts were displayed in the exhibit, along with original art pieces by …

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歴史に忘れ去られた町パルディと懐かしの梅の味

第二次世界大戦中、一家がポポフ(Popoff)とニュー・デンバー(New Denver)へ強制移動させられた時、私の母、ルース・アベ(旧姓トヨタ)はまだ幼い女子だった。母は、ショウシチ・トヨタとキリエ・トヨタ(旧姓オブチ)の間に生まれた14人の子供の下から2番目だった。一家はバンクーバー島のダンカン(Duncan)とカウチン湖(Cowichan Lake)の間に位置する木材の町パルディ(Paldi)に暮らしていた。偶然にも、ショウシチの兄ダイゴロウとキリエの姉ハナヨが結婚して隣に暮らしていた。写真結婚には、夫となる男性と初めて会い、うまくいかなかった場合にはどうなったのか、という話がしばしばある。ショウシチの場合、兄弟が姉妹を交換することでうまくいったのだろう。ダイゴロウとハナヨは11人の子をもうけたのだから。(これについてはまた別の機会に話すとしよう。)

パルディは差別的なブリティッシュ・コロンビア州の真ん中にありながらユニークな場所だった。そこでは、中国人、日本人、東インド人の子孫が共に遊び、文化や食べ物、伝統を共有していた。それは当時実に異例なことだった。

2000年にトム・タマギによって改訂され、戦前の80家族の位置を示した1933年版パルディの地図を手に、去年、私は従姉妹のジェーン・トヨタ博士とパートナーのリチャード・ケンノとともに、一家の跡地を探しに出かけた。当時の町はほとんどその姿を残していなかったが、幸運にもジョーン・マヨが案内してくれた。ジョーンはパルディの町を作ったマヨ・シンの長男の妻で、Paldi Rememberedの著者である。

私たちは宝の地図をたどるようにして、何年も前に家事で焼失した古い校舎と三角形をなす古い給水塔の場所を見つけようとした。ジョーンは、20年間そこに暮らしている近所のウェイン・バ―ラーに協力を求めた。「ああ、塔なら知ってるよ。危険になってきたから数年前に撤去したんだ」と彼は言った。私たちが地図を手に草むらを分け入ると、彼は給水塔の名残を指さした。そして、トヨタ家2軒の跡地と思われる開拓地を見つけた。家はトヨタ家によって建てられたが、厳密にいうと、土地はずっとマヨ家が所有していたため、Landscapes of Injusticeの調査によると、個人的な物品は別として、政府による土地の取り上げはなかった。

春になると美しい2本の梅の木がこの跡地の近くにあったが、森の真ん中に立っていたため、近くの自分の家の前に掘って移植したと通り過ぎるときにウェインが言った。

私は、母の昔の家を見つけたことに浮足立ったが、春にオンタリオから訪ねて来た母にその地を見せてあげたことにも同じくらい心が躍った。梅の木の話をすると、母と伯母が、小さな梅を漬けて、おにぎりの真ん中に入れる梅干しを作ったことを母はすぐに思い出した。移民家族にとって、梅干しは日常的な食べ物で、長い労働の一日に、冷蔵しなくても弁当の中身を保つのに役立った。

この春、母、妻、娘と従姉妹のケリー・ジェイムズと私はウェインのドアを再び叩いて、森を散策する許可を得た。私たちが興味のあった場所は実際には隣人のリチャードの土地で、彼はちょうどその時近くで木材の切り出し作業をしていた。話を聞いたリチャードは、家が建っていた場所をより正確に示してくれた。下の写真は私の母が家の「玄関先」に立っている様子である。「ただいま」

7月1日、私は梯子とバケツを持ち、ウェインの手伝いのもと、緑色をしたまだ熟していない小さな梅を3キロほど彼の家の前庭で採った。代々受け継がれたレシピを使ったのではなく、日本のCookDoウェブサイトの作り方を倣ったのだが、75年以上前の味を再現したいと私は梅干しを漬けた。そして、3週間の塩漬けと漬け込みの後、とうとう残すは日干しすること3日間のみとなった。そのすっぱいこと!そしてしょっぱいこと!まさに梅干しのあるべき味になった。舌の記憶を呼び起こすことができるかどうか、母と伯母に送るのが待ち遠しい。

「おいしかった。ごちそうさまでした!」

 

後記:Landscapes of Injustice はSocial Sciences and Humanities Research Council of Canada (SSHRC) ほか15共同団体に出資を受けている7年プロジェクトである。現在、調査は3年目に入っている。Landscapes of InjusticeのウェブサイトにはTouched by Dispossessionという欄があり、1940年代の日系カナダ人の所有地明け渡しに関する話を収集している。これには、土地や家といった大きな所有物から、小さくても意味のあるものも含む。これは、私の家族の話で、その一例である。Landscapes of Injusticeのニュースレターを定期購読したい方はmkabe@uvic.caのマイクまでご連絡ください。

 

* 本稿は、ビクトリア日系文化協会のニュースレター(2016年9・10月号)からの転載です。

 

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